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週間レビュー(2022-6-18)_民主主義と啓蒙思想、その先にある図書館の更新

仕事や学業でハレーションし、数週間書くことができなかったのでまた少しの時間で書けることを書いていこうと思う。30分で書くなど決めたらそこまで考えなくて良い気がする。

今できることで食べないようにしないといけない

昨年から少なくとも爆発的に(個人比だけれど)生活が金銭的に安泰した。なんとなく環境に揉まれて磨かれた自分の能力やスキルを社会に当てはめるとなんだかんだで普通に食べれてしまうことがわかったのだけれど、このように安泰を獲得してしまうと、クリエイティビティの棘や鋭さが消えてしまうように感じ、無性に寂しくなるように思った。

なぜ寂しいのかと思った時に、本当に勝負したい事柄やテーマで自分の生活が成り立ってないことなのかもしれない。または向き合っていたテーマに飽きたことに本心では気づきつつも、そのテーマを探求することで結果的に得てしまう金銭で、自分が飽きたことすらも受容してしまっているのだろうと思う。少なくとも日々の寝床は冷ややかな方が良いというように、現代、自殺率は高いし、核戦争は起きるかもしれないし、ロシア軍が東京を攻撃するかもしれない。そんないつ死ぬのかわからないのに自分のテンションの上がらないことに時間を費やす必要はないはずで、金銭という虚構に惑わされることないようにものを作ることと大事な人と一緒に生活する瞬間に向き合おうと思う。

ふらふらしていると勝手に熱量を持って器用貧乏になりがちな自分を正さないといけないと思っている。なので、とりあえずコンペティションやクライアントワークで年末までに最低で200万円程度は獲得することを直近の目標にしようと思う。

1. 人間稼業 野犬と八百善の犬とでは立場が違う。いきているのは後者である。タコ糸が切れたような志士になったとこで何にもならぬ。
2. 今の世で英雄は人に使われねばならぬ。人に使われることができぬ人は大した人ではない。人に使われるためには、温良で謙虚でなくてはならぬ
3. 己の好まざることをして 我慢して下手に這いずり回るより、己の好むところを磨き、のばす。その方がはるかに大事だ。

司馬遼太郎_「河合継之介_峠」

アイデアの資本化から逃れる

多くの大人にとってアイデアやデザインは盗作可能であり、付加価値の手段でしかないことを感じることが多い。アイデアは常に無形だけれど可能性を秘めていて、構造化されていないほどとても良いものアイデアだと言えるだからこそそこに記名性は何のだけれども、例えばコンペティションやアイデアブレストなどを若者に与えて、アイデアだけを吸い取って資本にしていくスタイルはどうにも気に食わない。
そのようなアイデアの無記名性を乱用した従属的な仕組みをどうにかできないのかと思うが、調整と整理、資本の投下、関係性の生成だけしかできない人間にとってはアイデアを考えデザインを生成することは企業の付加価値を生成する手段としてしか捉えていないのだろう。だから彼らに安直に資本化させないためにも、自分にとって重要なアイデアを簡単に渡すことはしてはいけない。または簡単にはわからないものを作るべきで、それが社会に対しての盾としてのアートなのかもしれない。

啓蒙思想、図書館、インターネット、民主主義

設計課題で、存在としては維持され続けているが、機能としては衰退していく図書館を考えている。2週間ほどリサーチをしてきたのでその論考と現状の気がつきをちょっとだけ記載しておこうと思う。

1.啓蒙思想の延長線としての図書館とインターネット
図書館は最後の地域的公共施設であり、物理的で前近代的啓蒙思想の名残のような気がしている。活版印刷によって宗教改革、そしてフランス革命が起こり、そこから図書や文字というものは民主化をし始めた、その時初めて人々の認知にフレームが生まれたらしい。(つまりそこで言葉に対して連動する意味が生成され、固定化された言葉と意味に固定された関係性が人間にインストールされたらしい。それ以前は言葉と意味に強い連動性はなく間主観性の意味であった。)

なぜ、人々に図書と空間を無料で開くのかというと源泉はそのような啓蒙思想に由来しているし、啓蒙的な視点から生まれたインターネットに図書館の役割がシフトしていることはそういう意味では普通のことだと思う。人の知性主義的な可能性を最大限信じているのだ。

チ。地球の運動について
チ。地球の運動について

だが今現在で考えられることは、必ずしも啓蒙思想がうまく行っている訳ではないという事実である。
啓蒙思想を掲げ、民主主義を共通の価値観とする国家の勢いは衰退する一方で世界でもその欧米的思想を推進する国は未だ多くはない。
そしてインターネットは人々のコモンズから企業の介入による独占や専制的な役割にシフトしてしまったし(いわゆるメディアとしてのコモンズの悲劇)、啓蒙的な役割として同列上にある図書館という存在は、本来の意味から資料保存と知的娯楽のための場所、研究資料の閲覧、そしてただただ無料の涼しい場所に成り下がってしまったように思う。

私たちは今「人の知性主義的な可能性を最大限信じる」という啓蒙的視点で図書館が生成されてきたとき、おそらくその意味に対して現代は答えることのできないでいる。それはインターネットが世界の民主的かつ倫理的な立脚を成し遂げることができているとは言えない現状と同列の課題なのではないだろうか?

つまり、図書館を複合施設化することや地域性を再解釈して付加価値をあたることは延命的ではあっても、根本的に知性主義や民主主義に根ざした世界を考えたときの図書館の役割として成り立っている訳ではないとも考えることができるだろう。書店が潰れた、図書館に人が来ないは云々の話は経済的な損失の議論とビジネスモデルとユーザビリティの話であってそれ自体が重要なテーマではないのだ。

インターネットにおけるWeb3を考えるように、図書館という存在の更新を啓蒙主義、民主主義と紐付けて考え直す必要がある。ひいては図書館とは民主主義が可能なのかどうかを実証する都市的機能の一つなのではないか?
この問いに立ち向かいことは啓蒙思想をこのまま延命するか、それとも批評していくかの分岐とも言える。

アラン・ケイ(計算機科学)の言葉を借りるならば,「未来を予言するさいりょうのほ未来を発明すること」なのである。しかし,そのためには、「
敵と味方を区別する」戦争を人類史からなくすことがいかに困難か、その理由をリアリストの立場から冷徹に分析する必要がある。理想主義者の解決策がいずれも敗北してきたのは,歴史が証明してきたことである。大草原で空を見上げたら宇宙から国境のない地球を見下ろしたときに,あるいはロックスターのライブに熱狂しながら,人々のマインドさえ変えれば簡単に実現できそうだと思えることが,現実には一度も達成されたことはないのだ。
インターネットとコンピュータが社会に登場してきたのは、ごくごく最近のことである。厳密にいえば,インターネットが発明されたのは1969年,コンピュータが発明されたのは1936年だが,多くの人々が利用するようになったのは1995年以降のことにすぎない。社会的に登場してからわずかな時関しか経っていない。その意義づけの作業は,過去に対しても未来に対しても,まだはじまったばかりである。
インターネットは,はたして新たな概念を構築し,力強い思想を生み出すことができるのだろうか。本書はその試みのひとつである。

なめらかな社会とその敵 鈴木健

2.知のアーキテクチャー、知との出会い方と使いこなし方
世界における知のアーキテクチャーは事実、グローバリゼーションの最中で空間や場所に紐づくことは無くなったことを認めなければならない。
衣食住などの人間の生活要素ですら、場所性と土地性は剥奪され、空間は均質化し、資本となり、そして世界中を流動するようになった。そして最後はバーチャル世界が介入し、世界は複層化したのち、リアルなレイヤーはその部分的で平面的な一部となる。

知識や情報もその中に含まれる同様の現象に巻き込まれる(巻き込まれている)
その場所でしか生成されていない意味性のある情報というものは実はほとんど存在しておらず、オープンプラットフォームとしてのSNSで人々は自発的に共有し合う。知識でさえも同様であり物理的な情報は何も物理的である必要はない。できれば簡単に世界の裏側に届くマテリアルであればあるほど、あくなき個人的知性の拡張を前提とすれば、啓蒙思想としては良いのである。それが人間の知性の拡張の可能性に賭けると言うことである。

知の保存はまた別観点として存在している。情報の流動化が始まる以前は場所性と情報や人と強く結びついていた。(事実、活版印刷以前は1冊の本を写経するために自分の人生を捧げた人もいたのだ。モビリティも少ない時代では知識の伝播は身体性に依存する。)しかし、それらもまた啓蒙思想にとっては知の更新のための重要な資材である、これをそのまま場所に紐づけておく必要はないだろう。(簡単に言えば、大学に入学しなければ大学図書館を使えないというのは社会にとって特定の人間のみに開かれた知であるよね、それはどういうわけか?ということとも近いと思う。階級や場所、人間に紐づいた知は啓蒙思想と反するのではないか?)

図書館や書店はamazonを憎むのはお門違いであるのはその点に関してであり、啓蒙思想の発展した先にあるのは情報と空間や物質が紐付かない世界線、つまり知のスーパーフラット化が目指す方法にある。
その場所、その空間でしか読めない得られない情報というものは階級社会や官僚主義を助長させ続けるのである。石板に文字を書いていたものは明らかに場所性が強い、そしてその次に現れた本という形態も場所性と物質性がまだある…それらを空間に紐付け続ける図書館という行為は実は公共の利に即しているようでいて、そうではないのではないだろうか?

つまりは、知のスーパーフラットに相反する形で建て続けられる図書館というビルディングモデルは啓蒙主義や民主主義を共通の価値観として実践するのであれば解体されるべき存在である。

図書館は重要な図書を無くさないように保存するためにある?
ブロックチェーンに紐づいたデジタルアーカイブがあれば物質的な本は無くなっても問題なく、再生産可能ではないだろうか?
あらゆる知識は世界中の多くの人に開くことが可能だろう。日本は常に揺らいでいるが真の民主主義国家になるのであれば、まずは図書館とインターネットの再定義こそ重要なテーマのように思う。

「カメラアイがない。奥行きがない。階層構造がない。内面がない。あるいは「人間」がいない。しかし、視線がいっぱいある。全部に焦点が当たっている。ネットワークがある。運動がある。そして「自由」がある」

・公共的機能としての図書館、移動する公共施設とネットワーク
最後に書いておきたいこととして、知のパブリックアーキテクチャーを考えよう。明らかに社会資本としては公共物よりも私有物が増えている。私有物が増えることはデザインの固定化から始まり、利用する人間のラベリングやニーズへの回答に派生する。それを個性的と呼ぶことも可能だが、多様性は築きにくいだろう。
そもそも、現代都市における公共空間は最小化していく傾向にあるように思う。大空間の公共施設は地方には存在していても、経済低迷と行政が民間に譲り渡した土地で開発競争が行われる時、純粋な公共空間というのは成り立ちにくい。三井不動産の宮下パークなどは批判の的となるのは公共性がありそうで全くないのにも関わらず、公園(つまりParkt)と名乗っていたりすることだ。
つまり都市のおける公共性は最小化の傾向にあるとき、私は公共空間は遊牧化していくしかないのではないかと思う。饗庭先生の「都市をたたむ」にあるように都市はスポンジ化を余儀なくされておりスポンジにネイバーフットを生成する機能やプログラムを入れ込んでいくほかない。それは公共的というより民間による取り組みが主体である時、ついに公共的な場所とはChin↑Pomの表現としても道路の公共性を作品として取り上げているように、現代における公共は道路と公園くらいしかないだろう。
しかし、それらの公共空間には情報としての回転性が少ない場合が多く、消費の海に浸かった消費者にとって訴求になるものがない、そこで移動式の公共空間というのはどうだろうか?という提案になる、アーキグラムの移動する都市のような…その先の論理はTBDだが、アートフェスなどの一時的な公共性を構築しようとする取り組みがあるように、そのようなパブリックアーキテクチャに変容することは考え得るだろうと思う。

ハードの重要性

施行途中のマンションの視察にいった。マンションやモジュール化されたハウスの部材や構成、ハードとしての建築は自分は全くわからないのでとても勉強になる。全然わからなかったが勉強した方が良いと言われたのは納得で、コンセプチュアルで企画的な設計の勉強をしすぎだとも思った。
だからみんなコピーライターやアートキュレター、デベとかになり企画職しかできなくなり、結局のところハードに落とせないのだ。気をつけたい。
ぶれない着想の美学と具体化の実力、深澤直人さんが言っていたことと同じだな。


あとは、いつ何があるのか本当にわからないから、大切な人をちゃんと大事にしないといけないなと思う。時間的な先延ばしではなく瞬間が重要だ。
もっと自省録的に書きたいことはあるが、また来週に回す。

今週も頑張る。

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