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腐った死体は仲間を呼んだが現れなかった


限界


両親はアルコール依存症との戦いの末に、オレの環境を重視して父親が離婚を切り出し、それに母親が応じる形ですんなり離婚が成立した。離婚はしたが自宅近所に部屋を借りた母親は、少しでもオレに会いたいと思っていたに違いない。

このコラムは、ある荒廃した家庭に挑んだ、1人の青年の記録である。新宿に生まれ育った無垢な小学生時代に、アルコール依存症とバイセクシャルという特異な両親に囲まれ、酩酊した母親と強制的に初体験をさせられ、その後30年近くに渡り自身もアルコール依存症に苦しみ、その中で設けた我が子との絆を通じ、寛解するまでと、その原動力となった信頼と愛を余すところなく完全実話で書き下ろしたものである。


だが限界だった。

オレも父親も。

学校では明るく楽しく振舞っていたオレだったが、勉強も身に付かず、夕方が来ると憂鬱になり、心が乱れて不安定になっていた。自分ではどうにもできない環境に疲れ果てていたに違いない。

父親も8キロぐらい体重が減り、疲弊していた。仕事の合間に相談所へ出かけ、病院関係者、施設関係者、専門家、職場の仲間、様々な方に相談し、母親に手を尽くしたが、どうにも上手くいかなかった。

実際にアルコール依存症がいる環境を体験してないとわからない毎日。それはハッキリ言える。母親の親戚は見捨てた裏切り者だと見切ったが、彼は最後まで頑張ったし、諦めなかった。父親は辛そうだった。

父親の名誉のために言わせてもらうが、<原田さん一家>あんたら最低の対応を今までしてきてますよ。もう死んでいないが。父親は間違っていなかった。

男性に比べ、女性はアルコール依存症は治りにくく、失禁を繰り返すようになったら末期だと伝えられていたオレは、毎日のように布団の上で失禁しながらイビキをかいている母親に奥深い闇を見ていた。


もう無理だと。

喧嘩をする気力もなく、呆れているか、無視しているか。

哀れみの目で見ていたと思う。

可哀想だと子供ながらに思いながら。

限界だった。

全てをリセットしたいと思った。

1日でも良いから心配事がない1日を過ごしたい。


離婚という選択。

それしかなかったとは思わない。
とりあえず別居しても良いし、力尽くで説得し施設に入れる事もできたかもしれない。

だがその時のオレと父親はそれしか頭に浮かばないぐらい疲れていた。

ひどくなった頃から約4年間ぐらい。

立ち直ることができない家族になってしまった。

10,11歳のオレは最後の決断を下した父親にどっちについて行くと言われ、選択肢なんかないのによく聞けるなと思いながらも、

お父さん。

と返答した。

決断を下してすぐに離婚が成立したはず。

離婚届をすんなり書く母親を見ながら泣いた。隠れて泣いた。

今まで誰にもはなしてないが寂しくて泣いた。



昭和63年3/13夕方


両親離婚後母親が住んでいた部屋に置いてある四角ボタンプッシュ式の固定電話から家に電話がかかってきた。

母親のお兄さんからだった。

日曜日だから父親も一緒にいた。

まあくん?

横浜のお兄さんだけど、帰ろうとして話しかけても、反応がなく起きないんだ。

お父さんいるかな?

います。

ちょっと来てくれるように言ってくれないかな?

その要求に父親は拒否をした。

行かない。行かなくていいと。

お兄さんの手前もあり、行きづらいのと、そんなに大した事はないと思っていたと思う。


その父親の気持ちもわかったが、オレは義務感が働き、母親の家に向かった。徒歩2分ぐらいの道のり、ただただ走った。


母親の家は、まねき通りにあるお寺前にあった金物屋の角を曲がってすぐ左にある茶色い煉瓦造りのマンション1階だった。

と思って最近確認しに行ったらレンガではなく、奥まった旗地にアイボリー調の吹き付け塗装の外壁の装いだった。


まるで陽が入らない、どよんとした二間続きの部屋にアルコールにまみれた母親は、おそらく一度も安息することはなかっただろう。

寂しい吹き溜まりの部屋だ。


両親離婚後、10回以上は部屋に入ったが、あまり記憶がない。

誕生日のお祝いを何にするか紙に書き置いてきた事と、死ぬ前に母親を世話していた女性の方と酔っ払っている母親を部屋に引っ張った記憶ぐらいで、大した記憶が残っていない。


だが、母親が救急車で運ばれた日はサイレン音のみっともなさと、子供の身長と比べると高い位置で派手にギラギラさせている赤色灯と白いボディのコントラスト、運ばれる前に部屋で嗅いだ腸から出てきたと後から聞いた母親の何かの臭いが忘れられない記憶として定着している。


部屋に入り、異臭を感じながら部屋の奥に向かう。


そこに離婚後の母親が心配だった横浜に住む実のお兄さんが母親の背中を摩り呼びかけていた。

その部屋の敷金礼金を用意したのもお兄さんだ。

分ける財産があったのかなかったのかわからないが毎日飲む酒以外のお金の余裕はなかったと思う。


その部屋で母親は全く反応がない。


お兄さんの呼びかけに全く応答しない母親。


薄暗く、異臭が漂う部屋の奥で丸まって右側を向き、目を閉じ、聞いたことがないイビキのような、獣のような呼吸を繰り返していた。

様子がおかしい事はわかったが、まさか救急車を呼ぶ事になるとは思ってもいなかった。深い眠りが覚めて、また酔っ払いのお母さんに会えると思っていた。

救急隊員が駆けつけ、手際よく外に運ばれ、人だかりが少しできた中を母親は運ばれていった。


それっきりだ。


母親の生きた姿を見たのは、これが最後だった。

意識がある母親の最後の記憶はどれなのか覚えがない。

たぶんオレの誕生日を忘れ、連絡がないまま数日過ごして催促に行ったのか、呼び出されたか、それが最後の目を開けている母親だったと思う。

酔っていてまともに話した記憶がないはず。



離婚をすると仲間ではなく他人になるのかな。

ピンチに駆けつけない他人なんだな。



腐った死体は元旦那を呼んだが現れなかった。

<写真>昭和54,55年頃・鹿児島or宮崎・じいちゃん(日本国万歳の方)とラクダに乗って。

苦しんでいる人に向けて多くのメッセージを届けたい。とりあえず、これから人前で話す活動をしていきます。今後の活動を見守ってください(^^)