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thanatos #1

 この小説は僕が16歳だった頃に、凡そ1年ほどかけて書いたものです。当時流行っていた映画やアニメ、ライトノベルなど様々なものに影響を受けつつ、所々オマージュしながら書き進めていました。
 きっかけは2006年の北朝鮮によるミサイル発射実験だったと記憶しています。世界とは、戦争とは、社会とは、他者とは、自分とは、一体なんなのだろうと、とても切迫感のある中で問い始めました。そして現実の日常とは別に自分の想像を小説で描くことを通して、混沌とした感情や理想とする妄想などエゴイズムに満ちた世界と、大人の社会や不条理など突入すべき未来の世界とを掛け合わせることで、大人になっていくことへの実感を捉えようとしていたのかもしれません。
 そうした青い高校生が書いた文章ですので、どうぞ大らかな心でお読み頂ければ幸いです。


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thanatos / タナトス


闇に紛れた小さな粒子。
夜(ニュクス)のうちに、いつの間にか生まれた彼らは波止場を徘徊する。
流麗な光陰に見惚れ、死(タナトス)の存在を露見した。
ウツツゴコロの果てに見るものは、本物の眠り(ヒュプノス)なのだろうか?



【主な登場人物】


永見 由玖斗(ながみ ゆきと)
 旧政府空軍のエース、コードネームは「アキュート」

永見 萌鏡(ながみ めぐみ)
 由玖斗の妹

麻宮 暁珠(まみや あけみ)
 由玖斗の幼馴染

大森 雄泰(おおもり かずや)
 由玖斗の親友、旧政府陸軍所属

葛西 瑞貴(かさい みずき)
 命篤天皇の子

葛西 瑳夕(かさい さゆ)
 瑞貴の異父姉

井澤 修三(いさわ しゅうぞう)
 由玖斗の上官、コードネームは「ホーク」

久保 大(くぼまさる)
 由玖斗の同僚、コードネームは「フェイン」

赤城 宗一(あかぎ しゅういち)
 由玖斗の同僚、コードネームは「カルム」

下平 俊介(しもひら しゅんすけ)
 由玖斗の同僚、コードネームは「ブラスト」

ナターシャ・トルスカヤ
 日本とイタリアのハーフ、戦場ジャーナリスト

佐々木 清(ささき しょう)
不良少年グループの頭目

相沢 幸(あいざわ さち)
 不良少年グループの一人

須藤 慎吾(すどう しんご)
 不良少年グループの一人

高橋 晴喜(たかはし はるのぶ)
 不良少年グループの一人

江藤 智樹(えとう ともき)
 不良少年グループの一人

工藤 一(くどう はじめ)
 不良少年グループの一人

イ・ソンゴ
 高麗亭の店主

高木 哲也(たかぎ てつや)
 暁珠の同僚

小川 雅也(おがわ まさや)
 和泰の同僚

斉藤 尚吾(さいとう しょうご)
 瑞貴の側近

恩田 劉(おんだ りゅう)
 三菱UCのナンバーツー



主な武装勢力


旧政府軍
 南北政府軍の総称

人民革命連盟軍
 神道厳明教を母体とした軍事勢力

三菱UC(みつびしユナイテッドカンパニー)
 外資系軍需品会社

平安団(ピョンアンだん)
 在日朝鮮人の軍事勢力


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プロローグ


  命 篤(めいとく)12年。日本国は永きに亘り貫き通した平和主義にピリオドを打った。それより二年前―― 

 旧東側陣営の中華人民共和国、ロシア共和国連邦、朝鮮民主主義人民共和国は、秘密裏に再結託の準備を進めていた。命篤10年、4月15日。終に北朝鮮は一発の核ミサイルを発射した。目標は東京。それと同時に休戦協定を犯して南の大韓民国へ侵攻を始めた。ミサイルは米軍のイージス艦により未然に日本海へ撃ち落され、日本はどうにか三度目の悲劇を避けることが出来た。即刻、日米安保条約に則ってアメリカ軍を中心とした国連軍が朝鮮半島へ派遣された。ここに歴史は繰り返され、第二次朝鮮戦争が勃発した。始め、世界が予想したとおり圧倒的な格差で国連軍が勝利を続け、そのまま彼らの優勢のまま戦争は終結するかに見えた。しかし北朝鮮軍敗北寸前のところでロシアと中国が国連から脱退し、同盟軍を組織して銃口を向けてきたのだ。
 その頃アメリカは膠着したイラクとの戦争も抱えていた。これにアジアの反米諸国が一斉に立ち上がり、世界革命を目指して同盟国側を支持した。急速に解決すると思われたこの戦争は次第に長期化の色を増していった。後に語られる極東戦争の始まりである。諸外国の戦火拡大に伴い日本国民は社会不安に陥り、命篤恐慌と呼ばれることになる大恐慌にみまわれた。そんな中政界では共産党が力を付け始め、革新陣営結束を目指して再統一(革新合同)を行なった。その結果、新たに生まれたのが村山富市内閣以来の社会党
内閣である斉藤一成内閣であった。これによってアメリカは反日的姿勢へ傾いていくことになる。しかし斉藤内閣誕生からわずか一ヶ月後、国民を震撼させる事件が起こった。
 命篤11年、3月13日。まだ肌寒い風の吹く朝だった。自衛隊の保守派青年将校ら二百名によって首相官邸が襲撃され、斉藤首相と防衛大臣を暗殺したのだ。このクーデターは陸上幕僚長、大村一輝一等陸将のもと四日後に鎮圧された。日付よりこれを三・一三事件と呼ぶ。
 斉藤内閣に続いて組閣されたのは、保守派政党総裁である滝田礼次郎内閣であった。しかしこの内閣も、汚職事件や首相の国外逃亡計画露見などが重なり短命に終わる。
 荒廃したこの状況で世論の指示を受けたのは、三・一三事件を抑えた大村陸将であった。彼はそのまま次代首相に担ぎ上げられ着任を果たすことになる。彼がまず手を付けたのは低迷する経済問題であった。大村首相は積極財政によってインフレ政策を始め、赤字公債を大量に発行した。それらは防衛費、公共事業費に当てられた。続いて「傾斜産業統制法」を執行し企業のカルテル、トラストの結成を助長させて産業の保護、統制を行なった。更に低為替政策で円安を図り、企業は軍需産業を中心に徐々に輸出高を上げていった。この結果見事大村財政は成功し、わずか一年で恐慌前の工業水準を回復した。景気向上は留まることを知らず、戦争が激化するに連れて日本は空前の大好況になっていった。しかし好景気の状態であればあるほど、国民の政府を監視する目と言うのは衰えるものなのである。
 翌年、大村首相は終に日本国憲法第九条を改定するに至った。防衛省は解体されて代わりに国軍省を新たに設置し、陸・海・空軍庁をその下に置いた。当然自衛隊も各軍へ再編成されることとなった。


 こうして日本は背後に伸びた畦道から逸れ、道なき道を迷走する時代へと突入していった。


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序曲
「旅立ち、あるいはエゴイズム」

そうか
もう 君はいないのだね

朝霧の中君を見つけた丘は
昼顔の輝きを訪ねた校庭は
夕焼けに紅潮した灯台は
跡形も無く消えてしまったよ

そうだ
君も もういないのだった



――命篤13年、夏――

ジージー・・・。
うるさいくらいの蝉しぐれが彼の耳に木霊するように響く。
キーン。
時折鉄筋バットの心地よい音が胸に浸透するように反響する。
本校舎から少し離れたところにある旧校舎の三階には第二図書室があった。全校生徒62人の小さな学校であるにもかかわらず書籍は膨大にあり、それらを収めるために設置されたのだが、学校では古い本のための書庫のような感覚で扱われ毎日開室されているものの、使用する者などほとんどいなかった。加えて夏休み中である今、この部屋に入ってくるのは彼ともう一人だけだった。
彼の名前は永見由玖斗(ながみゆきと)。青森の海坂町に生まれ育ち、鹿伊島(かいじま)高校に通う二年生である。今日は剣道部の練習が終わり、いつもの日課の如くそこへ足を運んでいたのだ。
 開け放たれた窓辺に寄りかかりながら頬杖を付いて、由玖斗は抜けるような青空と大きな入道雲の下で視界に広がる景色をぼうっと眺めていた。眼下に見える校庭の向こうには、この辺りでは色々な店が集う唯一の小さな港町がある。後ろを振り返って反対側の窓から外を見やると、限界まで広がった山々と、あとは段々畑や水の張った田んぼだけだった。彼は体を戻し、校庭の一角で練習する野球部の姿を目で追った。親友が土まみれになっている。
次第に視界がぼやけだし、彼は目蓋の重みに任せて目を閉じた。
ふっとそよ風が彼の頬を撫で目元の前髪が額を擦った。
ジージー・・・。
キーン。
風になびくカーテンの音が耳元で鳴る。
 「わっ!」
 突然心地よさを無視したあどけない声が頭を貫く。由玖斗は慣れた感じで怪訝そうに眉を顰めて薄く目を開く。そこには横から覗き込む少し幼い少女の顔があった。
 「それ、よく飽きないよね・・・暁珠(あけみ)は」
眠たそうな声を出しながら由玖斗は右手で頭を掻き、体を起こして窓辺に寄りかかる。
 「もう!少しぐらい驚いてくれたっていいんじゃない?」
暁珠と呼ばれた少女が同じように眉を顰めて由玖斗の隣で壁に寄りかかった。
 「いい加減慣れるよ」
暁珠の無茶苦茶な要望に由玖斗は冷静に抗議する。
 麻宮暁珠(まみやあけみ)。彼女もこの鹿伊島高の二年生で文芸部に所属する学生である。由玖斗とは幼馴染で家族ぐるみで付き合うような仲だった。学校も全て一クラスしかなかったので、幼い頃からいつも二人でよく遊んだりもした。だから由玖斗と接するときは明るく無邪気なのだが、その他の人とではあまり積極的でもなかった。
 由玖斗は机に寄り、席に着いてさっきまで読んでいて開かれたままの本に目を向けた。
 「どうかしたの、ユキ君?元気ないよ」
暁珠が彼の隣に座る。
 そう言われて由玖斗は少し顔を歪めるが、何事もないかのように本を読み続ける。そんな様子を観察するように暁珠は彼を眺める。
そして耳元で呟く。
「また負けたんだ」
由玖斗は平静を装うように努めたが、どうしても表情にそれが出ているらしく暁珠がにやにやと笑っている。
「別に・・・。悔しくなんかないよ。趣味でやってるようなもんだし」
目を連なる文字に向けたまま由玖斗が応える。
そんな姿を見て更に可笑しくなったのか、暁珠がくすくすと笑い声を上げる。由玖斗は面白くなくなって、しおりを挟むのも忘れて本を閉じ棚へ戻す。
「どこ行くの?」
鞄を抱えてそのまま出口へ向かう由玖斗を見て暁珠が慌てて訊く。由玖斗は振り向かずに答えた。
「傷心の旅」
引き戸を開けてすぐの階段をギシギシ鳴らしながら彼は下りていった。しばらくすると暁珠が急いで追いついてきた。隣まで来ると風と共に暁珠の髪の甘い香りが流れ、まるで由玖斗の心を包み込むように落ち着かせた。
一階まで下りるとすぐに下駄箱があり、由玖斗が箱から自分の靴を取り出すと暁珠がすぐ隣の箱に置いてあった自分の靴を取り出す。二人で別校舎を出ると、それまで日陰にいた体に熱い日差しが容赦なく降り注いだ。乾いた土を蹴って校門へ向かう途中、体育の先生に会い軽く挨拶を交わした。
学校を出ると二人は蜃気楼を上げる焼けたアスファルトの上を歩いていった。野球帽をかぶった元気な少年たちが集まる駄菓子屋でアイスを買い、融けないうちにそれを食べ終えて足を進める。海岸沿いまでやってくるとシャツ一枚の漁師たちを通り過ぎ、奥へ奥へと歩いていく。
やがて誰もいない小さな入り江に辿り着いた。幅が10メートル程しかなく森がすぐ後ろに面していて、そこにはいつ建てられたか分からないような古く小さな祠(ほこら)があった。由玖斗は海辺へ歩み寄り細かな砂浜に腰を下ろした。小波の音とウミネコの鳴き声が混ざり合うのを聴きながら遠くの海を眺める。隣で暁珠が靴とソックスを脱いだ。由玖斗は彼女の白い素足を見てドキリとし、すぐに視界の隅へ追いやった。
「ここ、久しぶりだね」
暁珠が言う。
「うん。相変わらず誰も来てないみたいだけど」
そう応えて由玖斗は、弦が巻きついた祠を振返って見る。
暁珠は小走りで海へと近づいていった。湿った砂浜で足を止めて待っていると、すぐに冷た白波が彼女の足を冷やした。そのまま子供のように波と戯れる暁珠の姿に由玖斗は微笑み、後ろ手を突いて抜けるような青空へ顔を上げた。青い空と白い雲、高く上がった太陽の光以外には何も見えない。そこへ黒い影を落として暁珠の顔がまた覗き込んできた。
「まだ落ち込んでるの?」
今度は本当に心配しているような声で訊いてきた。
「いや――」
由玖斗は体を起こして暁珠へ向き直る。
「ちょっと考え事」
暁珠が砂まみれの足を放り出して隣へ座る。
「何を?」
「うん・・・」
由玖斗は今の世界を壊したくなくて少し躊躇した。そして目を、キラキラ輝く海面へ向けて答えた。
「本当に今、この国は戦争してるのかなって」
暁珠は少し間を取って応えた。
「うん・・・。そうだね」
「ここはこんなに平和で何にもないのに、この海の水が続く何処かでは今も確実に誰かが死んでる・・・」
そこで急に由玖斗は顔を明るくして暁珠へ向けた。
「なんてね。俺らしくもない真面目なこと考えてみたり」
由玖斗は沈んだ空気を晴らそうと笑顔を見せたが、暁珠は悲しそうな顔をしたまま海を眺めただけだった。そして呟くように訊く。
「ユキ君は怖い・・・?」
由玖斗はしばらく黙ったままだったが、答えが見つかるとそれをすぐに口に出した。
「うん。そうかもしれない」
ウミネコの高い声が響く。
波の音は絶え間なく規則的になり続けている。
たまに吹く潮風が火照った体の表面を冷やしてくれる。
「私は平気だよ」
由玖斗は覗き見るように暁珠の方へ目を向けた。暁珠はまだ海を眺め続けているが、少し頬が赤く染まっているように見えた。暑いのかと思い由玖斗が声をかけようとすると、また暁珠が口を開いた。
「ユキ君と一緒なら・・・何でも平気だよ?」
唇が少し震えている。暁珠がこちらに顔を向け一瞬目が合った。とっさに目線を海へ移し、必死に早駆けする鼓動を抑えようとした。
「そっ、そう・・・」
由玖斗は照れ隠しに頭を掻く。
群れたウミネコの声が抜けるようにまた響いてきた。


 西の空に夕日が赤と青のグラデーションを織り交ぜながら傾く頃、由玖斗と暁珠は海と反対側にある山のふもとまで帰ってきていた。そのまま凸凹な坂道を登っていき、途中薄暗くなってきた山道に小さな電灯が灯った。虫の声がささやかな合唱をする中、二人は暁珠の家の玄関先に着いた。
 「じゃあ、また明日ね」
 「ん・・・うん」
由玖斗が曖昧に応える。暁珠は鞄を両手で持って家に向かっていった。いつも見てきた光景なのに何故だか今日の暁珠の小さな背中がとても貴いもののように由玖斗には思え、しばらくそれを眺めていた。すると暁珠はその視線に気付いたかのように急に振り向き、バイバイと笑顔で手を振った。由玖斗は強張っていた顔の筋肉を緩め、微笑み返して手を振った。暁珠はそのまま玄関から家に入り戸を閉めた。
 由玖斗は上げたままだった腕から力を抜くようにだらりと下ろし、踵を返して自宅へと向かっていった。道中、由玖斗はずっと今日の浜辺での事を思い返していた。どうして暁珠は突然なあんなことを言ったのだろうか。おかげで変に意識して会話が上手く続かなくなってしまった。でも暁珠からあのように言われたときは正直嬉しかった。何故嬉しいのかも分からないし、由玖斗は今日自分でも理解できないことが多すぎたと思った。
 そんな葛藤を続けているうちに、いつの間にか窓から光の漏れる自分の家に着いていた。由玖斗が玄関の戸を引くとそれは音を立てながら開いた。
 「ただいま」
由玖斗は呟くように言った。
 由玖斗が玄関で靴を脱いでいると後ろから「お帰りなさい」という声と共に母親が顔を出した。割烹着(かっぽうぎ)姿のまま笑顔で迎えるが、白髪混じりの頭には苦労の色を下から滲ませている。
「今日は随分遅かったわね」
 「ん・・・。着替えてくる」
素っ気なく言うと由玖斗はさっさと廊下を歩いていった。途中濡れた髪を首にかけたタオルで拭く妹に出くわした。
「あれ?お兄ちゃん、お帰り。今日も暁珠お姉ちゃんと?」
 「ん・・・」
由玖斗は面倒くさそうに答えながら彼女の脇を通ろうとするが、体をずらしてすぐに阻まれた。
 「もしかして何か発展あった?」
 「いいから、退けよ・・・」
由玖斗は無理やり押し通って急な階段を上がっていった。上がりきると縦に伸びる廊下があり、左右に四つの扉がある。由玖斗は左奥にある扉を開けて自室へ入った。低いベッドに机と、その隣にあるぎっしりと本の詰められた大きな棚以外には何もない、殺風景なものだ。
由玖斗は妹の萌鏡(めぐみ)と母親の直子との生活を十三年続けている。由玖斗が五歳、萌鏡が二歳の時に父親が病死して以来、母は女手一つで二人を育て上げてきた。その為か最近は年より老けて見えるように思えてきた。
由玖斗は着替え終わると階段を降りていき、とぼとぼと食卓へ向かった。無言のまま夕食の準備を手伝い席に着く。母と萌鏡の楽しそうな会話とテレビの音を耳にしながら、由玖斗は相変わらず黙したまま夕食を口に運んでいた。
聞き流していたニュースの声が突然鮮明に聞こえてきた。
「――お待ち下さい・・・。たった今速報が届きました。先ほどアメリカが日本への軍事的協力を停止する宣言を表明しました。繰り返します。アメリカが日本への軍事的協力を停止する――」
そこで急に画面が衛星中継に切り替わり、アメリカ大統領の姿が映し出された。英語で話しながら同時通訳の声が遅れて聞こえてくる。
「え~、我々は置かれた現状を長年にわたって議論してきました。・・・え、そして結論に達しました。苦い結論です。日本への軍事的協力体制の見直しです。え~、我々はこれからも物資などの協力はしますが兵士の派遣は、現在我々と戦争をしているイラクへだけに留めることになります。それから――」
テレビから流れるニュースの生々しい音だけが食卓に流れていた。しばらくして由玖斗は何も無かったかのように再び夕食を黙々と食べ始めた。
「見捨てられちゃったのかな、この国は・・・」
萌鏡が語尾を震わせて呟く。
「大丈夫だよ。日本はアメリカに次ぐ戦力を持ってるんだから」
由玖斗が落ち着いて応える。二人がこちらに目を向けているのを感じながら彼は続けた。「それにアメリカは沖縄を手放さないよ。アジア全体を諦めないかぎり」
由玖斗は依然として平常を装ったままだったが、自分で言った言葉が何故か心に留まる気がしてならなかった。
その日からしばらくして、それは現実になった。同じテレビでのニュースが、アメリカが沖縄の嘉手納基地に駐屯している軍の引き払いを開始したと報じたのだ。この緊急事態に対して日本政府は二つの法を出した。一つは空っぽになった嘉手納基地へ日本軍を新たに駐留させること。もう一つは成人男性及び大学生への拒否権つきの召集令状配布であった。
このニュースが全国に報道された翌日は学校の始業式で、由玖斗はいつもより何か重苦しい空気の町を登校していった。新法案が発表されて以来、由玖斗は自分と戦争との距離が突然狭まったように感じていた。拒否権があるとはいえ、来年高校を卒業したら召集令状が自分にも届くのだ。それは彼だけの事ではないが、それでも何か落ち着かない心地がここ数日間続いていた。
学校に着くと一ヶ月ぶりの友達と顔を合わせた。教室はこの戦争の話題で持ちきりだった。不安そうな声や勇敢そうに振舞う声が囁かれている。由玖斗は窓際の席に着き、ぼうっと見慣れた外の景色を眺めた。ツクツクボウシが残りわずかな力を振り絞って鳴く声が時折聞こえてくる。
「おい!ユキ!」
大声に驚いて由玖斗はすぐに声の方を振り返った。そこには親友の和泰(かずや)が机に手を突いて立っていた。
「なんだ?また気ぃ失ってたのか?」
からかうように和泰がにやりとする。
「お前は・・・楽天家だな」
目を細めて由玖斗が応える。
「そりゃ、お前。もう部活も引退だし、あとは楽しく残された高校生活を満喫するだけだろ?」
「目指せ進学は見事なほどのシカトだな」
「進学したって仕方がないだろ。どうせ俺たちは徴兵されるんだし」
和泰の声が少し陰る。
「それまでに戦争が終わったらどうするんだよ?」
由玖斗の言葉に和泰はいつになく真面目な顔を向ける。
「本当に終わると思うのか?」
由玖斗はすぐに答えることが出来なくて顔を背けた。
「そんなに人生に悲観するなよ。まだ俺たちはガキなんだから」
「召集令状。俺は受ける」
由玖斗は再び和泰へ顔を向けた。
「俺はこの国を守りたい」
「お前――」
「覚悟は出来ている。死ぬことは怖くない」
「簡単にそんなこと言うなよ!」
由玖斗は思わず声を大きくした。周りが静まるのを気にも留めずに続ける。
「前の大戦から何も学ばなかったのか?」
「上の世代が学んでいたらこんな戦争始まらなかっただろうな」
「だから俺たちが変えていけばいいんじゃないか。それをこんなところで死ぬだどうのって考えてちゃ――」
「変わるのかよ!」
和泰も感情が高ぶったのか声を荒げる。
「俺たちに何が出来るんだ」
呟くように吐き捨てると和泰は教室をどかどかと立ち去ってしまった。
由玖斗はその場で和泰が消えた方をただ呆然と見つめていた。

 「何だか一層戦争が身近に感じられてきたね・・・」
 ある日の帰り道、いつものように暁珠と二人並んで歩いていると彼女がそう声をかけてきた。最近口数が減ってきたように由玖斗には感じられていた。
 「うん。でもきっと大丈夫だよ」
自然な笑顔を装って由玖斗は応えた。すると暁球は顔の力を緩めるように微笑んだ。
「何だか安心する。誰もそう言ってくれないから・・・」
 「危機管理能力が低いから、俺」
 暁珠の家の前まで来ると二人は足を止めた。
 「大丈夫って言葉がこんなに心強いだなんて知らなかったな」
 家の前で暁珠は何か落ち着かない様子で時間を引き延ばすように話しかけてくる。由玖斗はそれに気付き、不思議な顔をして暁珠の話に耳を向けていた。
 「何か俺に言いたいことがあるんだろ?」
唐突に由玖斗は切り出した。暁珠は明らかに驚いた様子でおずおずと言った。
「ユキ君は・・・行かないでね」
 うつむく暁珠の顔を覗き込むように由玖斗は訊く。
「何処へ?」
 「戦争・・・」
呟くように言うと急に顔を上げて続けた。
「絶対に行かないで」
 上目づかいで頼んでくる暁珠に言葉を詰まらせながら由玖斗は困ったような顔をして笑顔を作った。
「あぁ。分かったよ」
 「約束だからね」
念を押すように暁珠が詰め寄る。
 「はいはい、分かったから。約束するよ」
 由玖斗が笑っていると暁珠もつられるようにして笑みを溢した。
だがこの約束が永遠に守られることはなかった。

 戦況は悪化の一歩を進んでいた。日本軍は海外駐留地のほとんどを失い、徐々に後退せざるを得なくなっていた。
そして12月。海坂町が吹雪に見舞われることも珍しくなくなりだした頃、由玖斗は放課後に担任に呼び出され、校長室へと連れていかれた。本当の担任は男性の教師だったが、若い男性は先日終に訓練のため半強制的に軍へと送られていき、今は残った女性の先生が急遽担当することになっていた。
校長室には由玖斗の他に四人の生徒たちがいて、一斉にその顔が彼に向けられた。その中に和泰の姿もあった。部屋の向かい側には大きな机の前で年老いた校長が立っていた。
「こんな悲しい状況に再び陥ってしまったことに私は深い憤りを感じている」
校長は擦れる声で言った。
「そしてまた、君たちに辛い報告をせねばならない」
校長は虚ろな目を生徒たちに向けた。
「単刀直入に話そう。諸君らに軍へ行って欲しい」
全員の顔に驚愕の色が出た。由玖斗は何かが刺さるような、激しい鼓動が胸を叩くのを感じた。
「先日国がこの高校の生徒5名を軍に差し出せと言ってきた。もちろん私は反論をしたのだが、これは抽選の結果決まった事だと言われた」
校長はくたびれたようにため息を付く。
「知ってのとおり日本は現在劣勢のまま戦況は大きく悪化している。このままでは本土決戦も近いと感じた国は戦力を温存・強化させるため、沖縄に即席の少年兵の砦を設けることにしたらしい。国力が向上するまで敵を防げとのことだ・・・」
誰一人口を開かずに校長の話を耳にしていた。由玖斗は反響する先ほどの校長の言葉を繰り返すように聞いていた。
「この町は軍を背景に、国に脅されている状況にある。私たちは逃げられないのだよ。そして君たちがこれに最適だという判断に至った」
そこで校長は一人一人の顔に目を向けて言った。
校長の目を見たとき、由玖斗はまるで生気が無いと感じた。
「承諾してくれるか?」
「はい!」
すぐに同じクラスの和泰と糸田が声を上げた。
そしてしばらくして三年生の先輩が頷きながら答えた。
「分かりました」
それにつられるようにして、まだ一年生の子が小さく言った。
「はい」
そして最後の由玖斗に全員の顔が向けられた。押しつぶされそうな視線の中、由玖斗は高ぶる鼓動を抑えながら黙していた。
校長がよろよろと近寄る。
「断りたいのなら断ってくれてかまわんのだよ。私もこんな事を伝えねばならんのが辛い」
由玖斗は深く考えた末にやっと声を絞り出すようにして言った。
「はい・・・。分かりました」


 「ユキ!」
 誰もいなくなった教室の席に一人由玖斗が座っていると和泰が声をかけてきた。
 「お前、この前は俺が戦争に行くのに反対してたくせに」
 意気揚々と話す和泰の言葉に由玖斗は苛立ちを感じた。
 「やっとお前も国のために命を奉げる覚悟が出来たんだな?」
 「勘違いするな」
由玖斗は冷たく吐き捨てるように言った。そして顔を上げて和泰に目を向ける。
「俺は国のために戦うんじゃない」
 「じゃあ、何のためだ?」
いささか棘のある声で和泰が聞き返す。
 「守りたい人たちのためだ」
 和泰は小馬鹿にするように笑い声を上げた。
「お前はよくそんな臭いことが言えるよな」
 「どうせ俺たちは捨て駒なんだ。構いやしないよ」
由玖斗は何か汚いものを見るような目を床に落とした。
 「お前・・・いい加減にしろよ」
 「砦が何故沖縄にされたか分かるか?敵はまず沖縄を攻めると分かっているからだ。沖縄を落とさないと本土へ進攻しても挟み撃ちを受けるからだ」
由玖斗は睨み付けてくる和泰へと再び鋭い目を向ける。
「敵は沖縄へ密集する。校長が言ってたようにその間で国力を養うつもりだろう。俺たちはそれまでの時間稼ぎだ」
 「なら俺たちはその任を全うするまでだ。それの何処か捨て駒だって言うんだ」
 「砦にどうしてベテラン兵を配置しない?」
 「兵力を保つためだろ」
 「そうだ。だから俺たち少年兵を送ることにしたんだ。使い捨てにな」
 正論を言い当てられたように和泰が口をつぐむ。
 「だが、俺たちは選ばれたんだ」
鞄を肩に引っ掛ける由玖斗に和泰が声を絞り出すように反論する。
 由玖斗は動きを止めて和泰の顔を見やる。
 「捨て駒でも何でも、俺たちは戦うんだ・・・。もう変わらない・・・。変えられないんだ!いい加減お前も現実を受け入れろ!」
断言するようにそう言い残すと和泰は鞄を引っ提げると出口へ突進していった。
 「和泰!」
彼の背中へ由玖斗が咄嗟に叫ぶ。しかし和泰は振り向かず、いつかのようにそのまま走り去ってしまった。由玖斗は苦い顔をしたままのろのろと教室を出て行った。廊下の窓から外の暗い雪景色が見えた。学校を出ると首に黒いマフラーを巻きつけ、虚ろな目を地面に落としたまま歩いていった。校門を出ると、由玖斗を待っていたらしい暁珠がすぐに駆け寄ってきた。しかし由玖斗の消沈しきった顔を見て思わず言葉を詰まらせた。
 「どうか・・・した?」
 暁珠が横で着いて来ていることも、今聞かれたことも由玖斗は気付いていたが何故か反応する気力さえもなかった。まだ心臓がバクバクと重い振動を起こしている。
 「ねぇ、ユキ君」
もう一度声をかけるが、それでも由玖斗に反応はない。暁珠はため息を一つ吐く。
「さっき和泰君も同んなじような顔して出てきた・・・」
 降り積もる雪を踏みしめる音が静かに聞こえる。
所々に備えられた街灯が冷たく白い光を落としていた。
 「――らばれた・・・」
小さな声で由玖斗が呟く。
 「え?」
 由玖斗は冷たい空気を大きく吸い込み、顔を上げた。
「選ばれた・・・。少年兵に」
 振り向かずとも横で暁珠がはっと息を飲むのが分かった。
白い吐息が増していく。
静かな時間が再び二人の間で流れた。
 「出立は・・・出立は明後日。鹿児島の訓練所へ飛ぶ」
由玖斗は自らも言葉の意味を噛み締めた。
 すると由玖斗の視界の隅で黙ったままであった暁珠の姿が急に消えた。足を止めて振り返ってみると、暁珠は未だ口を開かず少し離れた所で棒立ちしていた。俯いた頭の前髪がその表情を隠してしまっている。
 「約束・・・」
消え入りそうな震える声を暁珠が絞り出すように呟く。
「行かないって・・・約束したのに・・・?」
 由玖斗は痛切なその言葉に胸が痛み、思わず視線を真っ白な地に落とした。彼自身も約束のことで色々と考えていたところであった。
口を開きかけて、そのまま息だけを飲み込んで閉ざす。
時折点滅し、ジーっという音を鳴らせる電灯の下で二人の間に永遠とも思われる時が経った。
 ふと暁珠が垂れていた頭を上げる。分かれた前髪から垣間見えた瞳は潤んで、今にも泣き出しそうな目で上目遣いしている。
 「し、心配ないよ。ほとんど敵も来ないって言っていたし。予備軍みたいなものだから」暁珠の様子を見て咄嗟に嘘を吐いた。しかし暁珠は落ち着くどころか終にその大きな目から大粒の涙を零してしまった。昔からの癖で声を押し殺すようにして泣いている。
 「暁珠・・・」
由玖斗はどうしたものかと動揺しながら暁珠に近づく。長い髪の掛かる暁珠の肩に震える手を伸ばす。すると急に暁珠は俯いたまま由玖斗の脇を抜けて駆けていってしまった。由玖斗は暗がりの中へ消えていく暁珠の後姿を、しばらくの間呆然と眺めていた。
頭を振って自分を現実へ引き戻すと、由玖斗は覚束ない足取りで自宅へ向かった。
ザックザックと踏みしめる雪を眺めながら、何も考えずに歩を進める。
そんなうちに、いつの間にか家の明かりが見えてきた。いつもと何も変わらないはずの我が家に、由玖斗は何とも言い難い入り辛さを感じ、すぐには近づこうとしなかった。
引き戸を軋ませながら恐る恐る玄関へ入る。
「ただいま」
「お帰りなさい」
いつもの様に母親が笑顔で出迎えてくれる。
「母さん。今日大事な話しがあるんだ・・・。萌鏡も呼んできてくれる?」
「あらあら。暗い顔して一体何?」
母親は冗談と受け取ったのか困ったように笑い返し、奥へと去っていった。一人由玖斗だけは虚ろな目のまま靴を脱ぎ、玄関を上がっていった。茶の間へ入ると食卓の方から、すぐに食べられるわよ、と言う母親の声がした。
「大事な話しって何?突然」
部屋に入ってくるなり萌鏡が訊く。
「母さんもお願いだから・・・。話を聞いて」
台所でせっせと飛び回る母親に向かって由玖斗が言った。只ならぬ由玖斗の雰囲気に、母親は手を拭いて心配するように彼の下へやって来た。
「今日、校長から呼び出されたんだ」
「何か仕出かしたとか?」
萌鏡が面白そうに微笑む。由玖斗は深呼吸するように大きく息を吸い込む。そして真っ直ぐな視線をたった二人の家族へ向けた。
「出兵命令が来たんだ」
すぐには二人とも言葉の意味を飲み込めず、表情を固めたままだったが見る見る不安の色が表情に現れていった。
「また・・・そんな嘘言って」
母親が口元を引きつらせるようにして微笑む。
「本当なんだ・・・」
申し訳なさそうに由玖斗が肯定する。
しばらく沈黙のときが流れる。
全ての一時一時が重く圧し掛かるように由玖斗を押さえつける。
「嘘よ・・・。嘘よ、そんなの!」
今まで見せたことのない程、母親が動揺して叫ぶ。二人の子供は驚いて母親へと目をやった。
「令状が来るのはまだ早いし・・・。それに来たって拒否権があるじゃない」
「令状は無いよ」
冷たく聞こえるほどさらりと答えた。
「命令なんだ。出発は二日後。鹿児島に」
突然、母親は手で顔を覆いながら奥へ行ってしまった。
ばたばたと廊下を走る音が静かな家の中に大きく響いた。
「何で・・・?何でお兄ちゃんなの?」
萌鏡は腹を立てたように由玖斗を睨む。
「各校から公平な抽選で鹿伊島高に決まったんだ。その中で選ばれた・・・。誰かが行かなきゃならないんだ。一度決まったことを誰かに押し付けることはできない。誰もが嫌がることなんだから・・・」
萌鏡は尚も厳しい目を向けてくる。
「そんなの・・・そんなの綺麗事じゃない。公に訴えるべきよ」
「軍が背景にある。圧力はこの町の人みんなにかかってるんだ。俺一人の問題じゃない」自分でも驚くほど冷静に妹をなだめようとする。萌鏡は涙目になりながら散々悪態を吐いて自室へ上がってしまった。一人だけ取り残されてしまった由玖斗の耳に、閑散とした茶の間に響く時計の針の音が胸を揺さぶる。
深くため息を吐いた後、自分も二階へ上がり、妹の部屋を通り過ぎて自室へ戻った。
どさりと古いベッドをきしませながら倒れこみ、そのまま目を閉じた。
なぜ自分がこんな運命を辿らねばならなくなったのか。
由玖斗は夢の中で、寂しくてしきりに泣いた。


 次の日、由玖斗が下へ降りると母親は何事もなかったようにいつもどおり朝食の支度をしていた。早く食べなさい、と言われたので、出征までは学校に行かなくてもいいんだ、と由玖斗は返した。萌鏡は拗ねたままで、由玖斗が朝食を食べ終えても降りてくる気配を見せなかった。
 由玖斗は再び自室へ戻り、小さな鞄の中へ必要なものを適当に入れていった。本棚へ近づいて一番気に入っている文庫本を一冊手に取った時、充電してあった携帯電話が振動した。大抵の友達は携帯を持っていたが、由玖斗はつい数ヶ月前に母親から進められて持つようになったのだ。由玖斗は本を口の開いた鞄へなおし、携帯を開いた。メールが一通届いている。暁珠からだ。ボタンを押してメールを開いてみる。

あの入り江で待ってます

 メールにはただそれだけが書いてあった。由玖斗は分かった、と返事を送ってコートを引っつかみ、下へ降りていった。階段を下りる途中で水の流れる音がした。廊下からリビングを覗くと、向かいの台所で母が背を向けてカチャカチャと音を立てて皿を洗っている。
 「ちょっと出かけてくるから」
 由玖斗の声に母は何の反応も見せなかった。由玖斗は黙ったまま玄関へ行き、靴を履いて家を出ていった。朝の凍てつく空気を肺に送り込みながら由玖斗は地面の雪に足跡をつけて海岸へ向かっていった。登校時間はとっくに過ぎているので、道には誰の姿も見られなかった。しばらく歩いて海岸へ付くと、夏に訪れた入り江へ向かった。入り江を縁取る丘を登ると、冬の制服姿に身を包んだ暁珠が手に白い息を吹きかけながら立っているのが見えた。近づいていくと暁珠もこちらに気付き、何か気まずい顔でわざと辺りへ視線を逸らす。由玖斗は暁珠の前まで来ると立ち止まり、コートを脱いで差し出した。
 「寒いだろ?」
自分だって寒いわけがないが、悴んだ手に息を吐きかけ肩を震わせる女の子を前に、男がのうのうと暖かい格好は出来ない。しかし暁珠は同じ調子で無言のまま、それを受け取ろうとしない。仕方がないので由玖斗は暁珠の肩にコートを被せてやった。
「学校はどうしたんだよ?今、授業中だろ?」
少し間をおいて暁珠がぼそりと答える。
「保健室に行ったことにしてる」
「暁珠が授業をサボるなんてね」
由玖斗はクスリと笑った。
「ばれたら優等生の箔に傷が付くぞ?」
暁珠は尚も、もじもじとして話を切り出そうとしない。そこで由玖斗は彼女から話し出すのを辛抱強く待つことにした。
しばらくして暁珠がぱっと顔を上げた。
「昨日はごめんね」
また泣き出しそうな顔をしている。
「あれから一晩中考えたの。一番辛くて戸惑ってるのはユキ君の方なのに・・・私、自分のことばかりで・・・」
申し訳なさそうに視線を落とす暁珠に由玖斗は微笑みかけた。
「その言葉が聞けて良かったよ。明日出発するのにこのままじゃ後味が悪くって」
暁珠は明日という言葉にまた悲しそうな表情をしたが、すぐにニコリと笑い返してきた。
「だから・・・今日はずっと一緒にいてもいい?」
「え?でも、学校はどうするんだ?」
「一日ぐらいサボっても平気だよ。何せ今までその優等生だったんだから」
暁珠は自慢げな顔で言う。その後またすぐに眉をへの字にして上目遣いで由玖斗を見上げる。
「だから・・・一緒にいさせて。嫌かな・・・?」
正直、由玖斗はかなり戸惑っていた。暁珠からこんなに迫られたのは初めてだった。それ以上に今まで女の子からそんなことを言われたことはなかった。
「いっ、嫌だなんて、そんな・・・」
由玖斗は慌てて手を振りながら答える。そしてしばらくの間を置いて心を落ち着かせ、暁珠の顔を見る。暁珠は必死な目でずっと見つめ返してくる。途端に再び鼓動が高鳴り始めた。暁珠は自分の気持ちに整理がつき、思うままの言葉を正直にぶつけているようだ。そして核心に迫ろうとしている。しかし自分はどうなのだろうか。由玖斗は少し考え、自分の思いを辿った。それを見つけたとき、由玖斗は知らず知らずのうちに口を開いていた。
「暁珠」
突然自分の名前を呼ばれ、暁珠は目を瞬いた。
「ありがとう。今日はずっと、一緒にいたい」
 身体の熱で蒸発してしまいそうだった。暁珠も同じらしく、見る見る頬が赤く染まっていくのが見える。由玖斗は近くの岩に腰掛けた。暁珠も静かに着いてきて隣に座る。冷たそうな冬の海を眺めていると、不意に肩に重みが掛かった。暁珠が頭を寄せている。さらさらの長い髪から甘い香りが由玖斗の鼻をくすぐった。その瞬間から由玖斗は、面倒なことは一切考えないようになった。ただ、今の時間がとても貴重で愛しく思われた。このまま太陽が永遠に落ちないで欲しいと本気で思った。


 結局、太陽は海に沈んで冬の短い昼間は過ぎてしまった。あれから二人の間に言葉は交わされなかった。しかし言葉以上のものが二人をつなぎ合わせていた。時間というものは残酷だと由玖斗は思った。退屈の時間は恐ろしくのろのろと進むのに、終わって欲しくないと思えば思うほどその時間はまさに矢のようだ。
気付けば既に暁珠を家へ送り届け、自宅の前までやってきていた。由玖斗は憂鬱な思いで玄関の戸を引いた。
「ただいま」
「お帰りなさい!」
入るや否や突然萌鏡が大声で駆け寄ってきた。由玖斗は昨日とは裏腹の彼女の態度に驚き、しばし妹を凝視していた。
「お兄ちゃん。夕食、食べよ」
言葉の最後に悲しい余韻が残った。由玖斗は作り笑いをすると、後ろ手で戸を閉めた。
食卓には何の変わり栄えもない、いつも通りの夕食を、母親がいつも通り用意してくれている。
「お帰り、由玖斗」
振り向き様の母の声にも妙に陰った色があった。由玖斗は早速席に着くと二人も座る。
「これから長いこと母さんの料理が食べられないのに、随分質素だね」
皮肉を言うと母親が眉を顰めて反論する。
「母の味って言うものは大抵質素なものなのよ」
国内が混乱に陥って以来、家族の食事がこんなにも明るくなったのは久しぶりのことだった。由玖斗は明日のことなど忘れて幼い頃に戻ったように、はしゃぐように夕食を摂った。それは由玖斗だけのことではなく、母や萌鏡もまた久しぶりの心からの笑顔を満面に広げていた。
かけがえのない時間が刻一刻と無常にもまた過ぎ去っていく。

 はらはらと雪が降り出していた。
 「それじゃ、行ってきます」
 由玖斗が母親と萌鏡を振り返って言った。駅員さえもいない小さな駅には一両の電車が止まっており、由玖斗たちの周りには同じように、選ばれた者たちの家族が彼らを見送りに来ていた。
 「体に気を付けて。何が何でも帰ってきなさい」
 母親は由玖斗を優しく抱きしめる。
由玖斗は母の腕の中で小さく頷いた。
 「早く終わらせて、早く帰ってきてよね」
 萌鏡の声は出始めから涙声になっており、言い終わる頃には顔は悲しみに歪んでいた。そして大粒の涙を流しながら急に由玖斗へ体当たりするようにして飛びついた。それに由玖斗は少し驚き、そして軽く妹の頭を撫でてやった。
 「あぁ。すぐ終わるさ」
 周りの者たちがぞろぞろと開け放たれた入り口から電車へ乗り込み始めた。各々の家族が別れを口々に告げていく。
 「じゃあ、本当に行くね」
 由玖斗はリュック型の小さな鞄を肩にかけなおし、プラットホームから足を離して列車に乗り込んだ。車掌が出発の合図をすると入り口が音を立てて閉まった。入り口の縦長の窓越しに母親と萌鏡の顔が由玖斗を見つめている。ガクンと一度大きく電車は揺れると、のろのろと進みだした。由玖斗は一番近くの座席に座り、車窓を上に引き上げる。徐々にスピードを増していく電車に合わせて萌鏡が足を速めていく。由玖斗は立ち止まったまま小さくなっていく母親の姿をちらりと見た。そして再び萌鏡へ視線を戻す。
 「萌鏡・・・。母さんのこと、頼むな」
 萌鏡は驚いた顔で見返す。
 「郵便を使っていつでも連絡取れるけど、いつ音信不通になってもおかしくない」
 言い返そうとする萌鏡を遮って由玖斗が続ける。
 「俺にもしものことがあったら――」
 そこで短いプラットホームは断ち切られ、萌鏡が足を止める。必死に手を伸ばすがどうしても届くことはない。
 「――いつまでも良い一人娘でいてやってくれ」
 「お兄ちゃん!」
萌鏡の悲痛な叫び声が寂しいホームに響く。萌鏡は顔をくしゃくしゃにして泣き出した。他の家族たちも同じようにすすり泣いている。端では母親が膝を折り、頭を垂れて涙声を押し殺していた。プラットホームには遠退いていく電車の規則的な響きが風に吹かれて消えゆくように届いていた。


 その頃、由玖斗は出征をまるで遠足へ出かけていくかのような連中から一人離れ、先ほどから開け放たれたままの窓から外をぼんやりと眺めていた。一面真っ白な田んぼが広がり、時折枝に雪を乗っけた林が目の前を通り過ぎていく。代わり映えのしない平凡な風景が、しばらく会えなくなる友人のように思えていた。
 ふとそんな時、前方で誰かがこちらを向いて立っているのが見え、由玖斗は突いていた肘を戻してその人物に目を凝らした。
だんだん近づいてきてその像がはっきりとしてくる。
由玖斗はそれが誰か分かった途端、窓から身を乗り出した。
 「暁珠!」
 可能な限り窓から腕出して手を振る。
 「ユキ君!」
 雪の積もった丘の上で暁珠も同じように大きく手を振っている。
 「俺・・・!俺、絶対帰ってくるから!」
 由玖斗の叫びに暁珠は大きく何度もうなずいて見せた。
 「待ってるから!いつまでも・・・いつまでも待ってるからね!」
 電車は暁珠から見る見る遠ざかっていき、それに連れて由玖斗の手を振る姿も小さくなっていった。暁珠は口から白い息を吐き出し、電車の陰が消えるまでずっと見つめていた。そして大きな目から涙を溢れさせ、白い地面に膝を突いた。両手に顔を埋め、声を押し殺して泣きはじめる。
止むことのない雪が慰めるように、優しく暁珠の肩を撫でた。


 カタンカタン、カタンカタン――。
規律の正しい音と振動が、列車の座席に力なくもたれかかる由玖斗にはこの上なく心地よいものに感じられた。窓の外からは冬の空が鉛色に染まり、真っ白な雪の粒が穏やかに舞い降りている。由玖斗は半ば放心状態のまま、ただ空を見上げていた。これからの自分のことは勿論、日本自体がどうなっていくのか、凡そ考えたくないことがあまりにも多く急に起こってしまった。
 「よう、ユキ」
 気付くといつの間にか正面に和泰が座っていた。
 「和泰・・・。その・・・昨日は悪かったな」
 和泰は一瞬意外そうな顔をしてから、口元に笑みを浮かべて背もたれに体を預けた。
 「いいさ。俺だって少し感情的になりすぎた」
 二人の間にしばらく沈黙が流れた。
しかしそれを先に破ったのも和泰であった。
 「俺もさ――」
 和泰はそう切り出して、少し離れた席に集まってお喋りしている残りの少年兵たちに目をやった。
 「――あいつらも本当は皆、声上げて逃げ出したいほど怖いに決まってるんだ。でもお前みたいにそれを認めてしまったら、もっと怖くなるって分かってる。案外お前がこの中で一番強い心を持ってるのかもな」
 和泰は陰った笑みをにっと見せてきた。
 「違う・・・。俺はただ逃げてただけだ。何も認めたくなかったのは俺のほうだ。でも、昨日のお前の言葉で気持ちが固まった」
 由玖斗は和泰の目に真っ直ぐな視線を向ける。
 「選ばれた以上、全力を持って戦う」
 「おう・・・それが俺たちのやるべき事だからな」
 由玖斗は静かに思いをかみ締めるように頷いた。
 二人は決意に満ちた顔で誓いあった。

 電車に揺られること数時間、そこから飛行機に乗って一気に鹿児島まで飛び、全国から集められた数千の少年兵と共に訓練基地へとやってきた。
そこは簡素な廃れたテーマパークのような所だった。葉の落ちきった丸坊主の大きな山を背にした敷地には学校のようなだだっ広いグラウンド兼滑走路があり、その奥に数十棟のプレハブのような建物が置かれている。
 少年兵たちは年配の正規兵の男たちに先導されながらぞろぞろとグラウンドに集められた。そして地方別に学校から選出された少年たちを十五人前後の組に分け、整列させる。
 しばらくして無精髭を生やした初老の男が少年兵たちの正面に出てきた。毅然とした面持ちで凡そ二千の少年たちを見渡す。
 「見よう見真似でかまわん。気を付け!」
 男はそう言ってびしっと気を付けの姿勢をとった。施設の要所に備えられたスピーカーから男の拡大された声が響くと共に、少年兵たちからは戸惑うようなざわめきが一瞬起こった。
 「気を付けせんか!」
 グラウンドにいた教官であろう男たちが彼らに向かって大声を張り上げる。
 「踵を付けろ!背筋を伸ばせ、この馬鹿共!」
 何人かは胸倉を掴まれるほどお叱りを受けた後、グラウンドにいた少年たちはしばらくして、一言も口を開かず微動だにしないようになった。
 「敬礼!」
 正面の男が素早い動きで右腕を上げる。それに伴って少年たちも少しはにかんだ笑顔を見せながらおずおずと敬礼をする。
 「もっと機敏に動け!機敏に!」
 「何を笑っとるか貴様は!」
 すかさず教官たちの檄が飛ぶのであった。
 「よろしい。直れ」
 今度は大体の少年たちは大真面目な顔で素早く手を下ろす。
 「諸君、長旅ご苦労だった。私はこの訓練施設の教官長で緒方昭三という。大佐だ」
 緒方と名乗る初老の男が毅然とした眼差しで少年たちを見渡す。彼の体からにじみ出る厳格と実直が少年たちを一種の圧力のように抑え付けていた。
 「諸君らは今日から半年の間この基地で訓練を行い、その後は戦地へ赴き、敵と命の奪い合いをすることになる」
 二千人分の息を呑む音が聞こえたような気がした。
 「だがここで私たちが教えることは、決して人を殺す術ではない」
 しかしそこで緒方大佐の顔から厳しさが消えた。代わりに哀れみの色が現れる。
 「人を殺すだけの術だとは思わないで欲しい。諸君ら自身が生きる術・・・」
 ここで緒方大佐がまた少年たち全体に目を行き渡せる。
 「諸君らが守らなければならない者たちを、守るための術・・・。私はそう考えてもらいたいと思う。以上だ」
 「気をつけぇ!」
 すかさず脇の一人が叫び、今度は少年たち全員が行動を合わせるように足を揃え背筋を伸ばす。
 「敬礼!」
 約二千人の腕を上げる音が木霊するように連なる。
 大佐が退くと140人はいる教官たちがそれぞれの列へ行き、名指しで格班へ振り分けていった。
由玖斗は当然和泰たちと同じ班なのだとばかり思っていた。しかし彼一人が違う班へと分けられてしまい少し不安に駆られた。
138班。由玖斗はその立て札の下へ、ごった返す少年たちの群れの中を進んでいった。既に数人並んでいた者たちの最後尾へ回ってつく。しばらくしてまた数人が彼の後ろへ並び、立て札の横に立っていた顎の青い教官が人数を確認していく。
「今から名前を読み上げていく。大きな声で返事をしろ」
教官は手に持った紙に書かれた名を淡々と読み上げていく。
 「――藤堂健二」
 「はい!」
 「遠藤輝真」
 「はい!」
 「結城隆(りゅう)」
 「は、はい!」
 「久保――」
 「まさるです。大とかいてまさる。だからあだ名はしょっちゅうサルでしてぇ――」
 「余計なことは喋るな。返事だけしていろ」
 「は~い」
 「永見由玖斗・・・永見由玖斗!」
 「あ、はい!」
 最後まで名前を呼ばれなかったので意識が飛んでしまっていた。
 「しっかりしろ。戦場では一瞬の気の緩みが己を滅ぼすぞ」
 「はい・・・申し訳ありません」
 教官はそれ以上何も言わず全体へ目を向ける。
 「諸君らは皆視力が他の者より秀でている。その目を使って飛行機に乗ってもらう」
 周りの者たちが互いに目を合わせ、驚きの表情を向けあう。
 「だが飛行機乗りだからとて訓練は他と同じほど過酷なものになるぞ。おそらく他よりも厳しいだろうな」
 教官が少年たちを脅かすようににやりとする。
 「申し遅れたが、私は今日から君ら138班の担当教官となる井澤修三だ。よろしく」


つづく

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【thanatos #2】
https://note.com/masaki_tani/n/ndaff41f42ccd

【thanatos #3】
https://note.com/masaki_tani/n/nb535d6ac8b86

【thanatos #4】
https://note.com/masaki_tani/n/n5d05168123c6

【thanatos #5】
https://note.com/masaki_tani/n/ne4ad24707b05

【thanatos #6】
https://note.com/masaki_tani/n/ne36d1dfd1e7b

【thanatos #7】
https://note.com/masaki_tani/n/nfe5e45a4c617

【thanatos #8】
https://note.com/masaki_tani/n/n543f53e36664

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