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thanatos #7

   18.

――21時15分、沖縄、嘉手納基地――

 本部棟の通信室には黒離島攻撃部隊の情報が随時伝達されていた。そしてその情報は和泰によって自室にいる大村大将へ報告される。
 「大村大将、我が軍の航空機戦力はほぼ壊滅状態です。やはり永見由玖斗と思しき機体を目撃したとの情報が多数寄せられています」
 大村大将は和泰に背を向けたまま窓の外へ目を向けていた。遠くに見える滑走路を真っ白な冷えた光が照らし出している。真っ暗な部屋に入ってくるのはその窓からの光だけで、大将のシルエットが不気味に黒く浮かび上がっている。
 「ふんっ。島での勝利は見えている。それに連合艦隊も健在だ。じきに第2艦隊も壊滅するだろう」
 「その敵航空機部隊ですが、40機ほどの編隊で九州へ向かっていったとのことです」
 「そうか。とうとう仲間も見捨てて逃げていったか」
 大村大将の背中が揺れている。
 「くっくっくっ・・・。だが逃がしはしない。一人残らず見つけ出して握りつぶしてやる」
 「大将。警戒態勢を取られた方が得策かと思われます」
 「何ぃ?」
 初めて大村大将が和泰を振り向いて、ぎろりとその目玉を向けた。
 「何か策があっての行動でしょう。こちらとしても不測の事態に陥らぬよう準備を――」
 「貴様は臆病すぎる。この嘉手納にもたった40機を防ぐくらいの戦力はまだある。何をそんなに恐れる必要が――」
 その瞬間だった。
 遠くの方で巨大な爆発音が響いたのだ。
 「な、何だ!」
 大村大将が状況を確認しようと窓へ張り付く。
 「大将!」
 和泰が大村へ体当たりするように押し倒す。刹那、大将が今まで立っていた位置へ銃弾が嵐のように飛び込んできた。粉々になったガラスの破片が、大将に覆いかぶさる和泰の背中へ降り注ぐ。
 しばらくして銃撃は止んだが、基地周辺では依然爆発音が連なる。その度に建物が左右に揺さ振られた。
 「お怪我はありませんか、大将」
 壁の影まで移動して和泰は大村大将を引き起こす。
 「くそっ。一体どこの部隊だ!」
 大将は和泰の手を振り払って言った。完全に頭へ血が上っている。
 「すぐに状況を確認させます。とにかく今は避難を」
 和泰はそう言って、まだ顔を真っ赤にして凄まじい形相を作る大村大将を避難させた。
本部棟より地下へ降り、数キロ離れた海底基地へと向かう。本島地下からは水平に延びた海底トンネルを、備え付けられた高機動車に乗って移動する。数十分後、海底下に造られた秘密基地に到着する。
「人革連か!平安団か!一体どうやって基地内に侵入した!」
海底基地のコントロール・ルームで大村大将が喚き散らす。
「それが、大将。この暴動は、我が軍部内のクーデターであることが判明しました」
和泰が報告どおりに説明する。それを聞いて大村大将の顔色がどんどん悪くなっていった。への字に曲げた口角が微かに震える。
「何だと・・・我が軍だ・・・?」
「はっ」
「くそぉ!」
大声で喚きながら大村大将が目の前の机へ拳を強か打ち付ける。鉄拵えの板へ大将の血が溜まっていく。
「ご命令を」
無表情の和泰が促す。
「・・・ろせ」
大村大将の声が小さく漏れた。
「殺すんだ・・・。一人残らず、全員殺すんだ!」

 黒離島周辺海域を離脱した42機の反乱軍航空機部隊は、既に福岡駐屯地から離陸していた6機のC―1と一時間ほどで佐賀上空にて合流を果たした。
 「こちら第2艦隊航空機部隊、永見空士長。特戦の護衛任務に就きます」
 「ジッ、ジ、ジ・・・こちら特殊作戦群、小倉だ」
 大人の深みのある低い声が応答した。
 「永見空士長・・・やはり生きていたか」
 「はっ」
 「そうか。噂の腕をやっと見られるということか」
 「恐縮であります」
 「はっはっ。そう固くなるな。護衛の程、しっかり頼んだぞ」
 「はっ」
 反乱軍部隊の緊張とは裏腹に、一行の足を止めようとする者は出てこなかった。実際福岡まで来る途中に平安団領の山口県沖を掠めたにも関わらず、平安団からは何の反応もなかったのだ。今の状況からは有難いことだったが、それでも由玖斗は何か胸の隅にむず痒い思いがしてならなかった。

 時を同じくして黒離島海域では最後の戦闘が行なわれていた。既に双龍も連闘も数発被弾していたが、尚のこと敵連合艦隊に向かって編隊を組んだまま直進していた。航空戦力が共に無い状態で、正しく海面上での大激突だった。
 「敵巡洋艦発砲!」
 「右舷より対艦ミサイル!」
 「弾幕張れ!取り舵一杯!」
 騒然とした双龍艦内で本間中将が必死に声を張り上げる。
 「了解、取(と)ぉり舵(か)ぁじ!」
 「駄目ですっ、ミサイル着弾します!衝撃に備えてください!」
 数秒後、激しい爆発音と共に艦を鋭い揺れが襲う。管制塔内に悲鳴が上がる。幾つもの警報装置が鳴り響いてランプを灯している。そのすぐ後にまた近距離で水柱が上がり、その波が双龍を上下に揺さ振る。
 「砲弾回避!」
 「第1、第2タメコン浸水!艦体ダメージ30パーセント!」
 軍帽の下で本間中将が目を閉じる。幾らか音が研ぎ澄まされるようだ。左右からは垂花と連闘の必死に反撃する砲声が鳴り響いている。ここに来てやっと敵戦艦一隻を沈めた。しかしこのまま直行を続ければ第2艦隊玉砕は免れない。
 「垂花、連闘の艦長へ無線をつないでくれ」
 断続的に振動を繰り返す床を本間中将はしっかりとした足取りで歩んでいく。
 無線のマイクへ近づく。
 「両艦長、聞こえるかね?」
 「こちら垂花。聞こえております」
 「こちら連闘。自分も聞こえております」
 中将は一人満足そうに頷く。
 「これより貴艦らは編隊を離れ、黒離島の援護へ向かってくれ」
 「何を仰いますか、中将!」
 「我々に作戦から降りよと?」
 当然異を唱える声が返ってきた。
 「コードBの完遂は我々のみで行なう」
 「反対です!自分たちもご一緒に――」
 「もう良いのだよ」
 本間中将は穏やかな声でなだめる様に語った。
 「実を言うとね、私はもともと何の戦闘も行なう気など無かったのだよ。竹島沖で駐留していた頃本当は、このまま日本のこの騒乱から完全に身を引きたいと思っていた。全国民を裏切るようなことを私は考えていた。こんな私に付き従ってくれたことに、心から感謝しているよ」
 そう言って本間中将は振り返ってその場にいる者たちにも頭を下げるのだった。
 「この愚かな老人の最後の願いだ・・・。生きてくれ」
 今度は無線から怒鳴るような声は返ってこなかった。
 「生きて、これからの世を見届けてくれ。私たちの代わりに」


 数分後、双龍の脇を固めるように平行移動していた垂花と連闘が左右へ避けるように編隊から離れていった。しかし、双龍は依然単体で突入してくる。それを見て政府艦隊司令官も首を傾げた。
 双龍内には既に移動に必要な兵と最低限の防戦人員を残したまま、後の乗組員はボートで下艦していた。管制塔内の人員も半分ほどに減って幾らか静かになっていた。本間中将は彼ら一人ひとりの顔を見やる。
 「君たちには申し訳ないと思っている。と同時に誰よりも君たちには感謝している。私と共に殉死の道を選んでくれて」
 「艦長」
 白石大佐が中将を見返し、にこりと微笑む。
 「我々は皆、自らの意思に従ったまでであります。艦長の言う、人間的に生きようとした結果なのです。我々は今、艦長と共に戦場に立てたことを心より誇りに思っております」
 そう言って白石大佐は本間中将に向かって敬礼した。それに習って他の要員全ても敬礼する。
 本間中将は俯いた。その表情は軍帽のつばに遮られて見えなかった。すぐにいつもの穏やかな笑みを湛えた顔を皆へ向ける。そして笑って敬礼を返した。


 双龍は進む。幾ら砲弾が体を掠めようと。幾らミサイルが突き刺さろうと。その傷ついた巨体を引きずりながら、双龍は海面を切り裂いていく。
 じきに敵艦隊の大砲の最低射程内に進入し、後は体中に機銃の弾が数万発と撃ち付けられた。管制塔も機銃掃射を受け、流れ弾に当たった要員たちが何人か倒れる。
 黒煙を至る所から吐き出す双龍は連合艦隊の懐へ入っていった。政府軍側は彼らが何のつもりかも分からず、とにかく沈没させようと銃弾を浴びせ続けるだけだった。

 刹那、真っ赤な光が連合艦隊を包み込む。

 少し遅れて鼓膜が張り裂けそうな凄まじい爆発音が響き、まるで太陽でも降ってきたかのような光と爆風が辺りへ広がる。爆風は空へ昇っていくにつれて真っ黒な煙へと変貌していく。その下に壊滅した連合艦隊の残骸が僅かに浮かんでいた。
 その光景を数キロ離れた海上でボートに乗った船員たちが、神の降臨を目撃するような目で黙って見つめていた。

 本間中将は最後の雑煮を口にすることなく、冷たい海の底へと消えていった。

 五時間後、日付と共に年も明けた1月1日午前3時。沖縄の嘉手納基地空域に到着した反乱軍航空隊は驚愕と困惑の表情で基地を見下ろしていた。
 基地のいたる所から黒煙が立ち上り、火災が起こっている。南政府軍同士で戦闘する光景も遠目からだが微かに見える。
 「一体これは・・・」
 由玖斗は真っ赤に光る基地を眺めながら呟いた。
 レーダーに反応。
 すぐにそちらへ目を向ける。
 航空機のライトが幾つかこちらへ向かっている。
 「・・・こちら、472飛行中隊。貴殿らは黒離島の反乱軍部隊か?」
 無線が突然入る。
 「そうだが・・・一体これはどういうことだ?」
 小倉大佐が応答する。
 「我々は六時間前に武装蜂起し、南政府軍本部を攻撃した。核攻撃には反対だったからだ」
 「そうか・・・ならば、同志として共に本部を打ち倒そう」
 「了解」
 通信の遮断からすぐに輸送機から兵士たちが飛び出していった。空を舞うパラシュートの数は見る見るうちに増していく。由玖斗らは彼らを地上の高射砲などから守るために地上へ攻撃を加える。その内に300名の特殊作戦群は地上へ無事に降り立ち、次々に基地内部へと侵入していった。
 敵の航空戦力は乏しく、由玖斗は戦う相手を失って水平飛行しながら、ついぼんやりと空を眺めていた。
 するとキャノピーを雨粒が一つ打ちつけた。
 雨粒は弾け飛び、集まった水滴が脇へ流れ落ちていく。
 すぐに次の雨粒が降ってくる。
 数秒後にはスコールのような大雨へと変貌した。
 ピカッ。
 青白い光が一瞬世界を照らす。
 白いベールの中へ潜り込んでしまったかのような光景だ。
 グラグラ・・・グラグラ・・・
 腹の底まで響くような音だ。
 由玖斗は小さく口を開いた。
 「和泰・・・」
 地上へ目を下ろす。
 降りつける雨粒が数千億の矢と化して地面を叩きつけている。
 あそこに和泰はいる・・・。

 急に由玖斗を護衛していた下平の機体が高度を下げ始めて、由玖斗は驚いて操縦桿を握りなおす。
 「おいっ、どこへ行く!」
 「着陸して侵入します。何としても核の発射を阻止しないと!」
 「待てっ、下平!」
 由玖斗の制止を振り切って下平は機首を地上へ向けて下降していった。由玖斗は苦虫を噛み潰したような顔をして操縦桿をきる。


 二機は火災で赤々と照らされた滑走路に、土砂降りの中着陸した。幸い混乱に乗じる形だったので彼らを拒む攻撃は受けなかった。
 機体が停止すると、由玖斗より前で止まった下平が機体から飛び出していくのが見えた。由玖斗はマスクを脱ぎ捨てて素早くキャノピーを開く。途端に雨粒が座席へ飛び込んできた。
 「下平、戻ってこい!」
 由玖斗は滑走路へ水しぶきを上げながら降り立った。しかし尚のこと下平は建物に向かっていく。由玖斗は小さく悪態を吐いて駆け出した。
 何とか由玖斗は本部棟へ入る直前に下平の肩を掴むことができた。
 「何の真似だ、下平!ここは俺たちの出る幕じゃない!」
 激しい口調で由玖斗が怒鳴りつける。
 「制空権はほぼ自分たちのものです!今は一刻も早く核を探し出さないと!」
 下平も負けじと言い返す。
 「だからと言って俺たちに何が出来る!」
 「核を探し出す目になれます!出来ることなら何でもします!」
 下平の必死の形相に由玖斗は思わず次の言葉を詰まらせた。お互い肩で息をしながらしばらく睨み合う・・・。
 タタタンッ――
 頭上の鉄の壁に火花が散る。
 二人とも反射的に頭を屈める。
 とっさに由玖斗が目の前の扉を蹴破る。
 「下平!」
 同時に腰から拳銃を引き抜いて暗闇の中へ数回発砲する。
 下平が扉の中へ駆け込む。
 続いて由玖斗も扉の中へ飛び込んだ。
 すぐに下平が扉を閉めて由玖斗を引き起こす。中は細長い通路だった。
 「こっちです!」
 下平はそう言って通路を駆けていく。
 「お、おいっ」
 それでも由玖斗は彼の後を追って走り出すしかなかった。
 下平はまるで以前にも一度来たかのように躊躇なく足を進めていく。由玖斗は銃を低く構えながら辺りへ気を配って彼の後に続いた。辺りでは未だ小規模の爆発音と銃撃音が届いてくる。何度か交戦に巻き込まれたが、二人とも応戦しながら本部棟内を何とか移動していった。
 しばらく走り続けると、下平は何かの一室へと姿を消した。その扉は既に破壊されており大きな穴が開いていた。中へ入ってみるとそこは資料室のようで、規則正しくと並べられていた棚がドミノ倒しのように連なって傾いている。雑然とした棚を押し退けるように奥の一角だけが開けている。しかもその床には穴が開いていて地下へと続く階段が降りていた。
 「以前、南政府の新設基地の話を聞いたことがあります」
 穴を覗き込んだまま下平が言う。
 「新設基地?」
 寝耳に水で由玖斗が尋ね返す。
 「はい。嘉手納基地の地下から延びる、海底基地だそうです」
 「・・・その入り口がここなのか?」
 「おそらく。自分はその海底基地に核があるんじゃないかと考えています」
 「しかし、この様子だと既に特戦の部隊が突入した後のようだが・・・」
 ちらりと下平を見やる。むず痒そうな顔で階段の下を見つめている。拳が震えるほど固く握り締められていた。
 由玖斗が息を吐き出す。
 下平の耳に拳銃の再装填する音が聞こえた。
 「隊長・・・?」
 下平が由玖斗を見やる。
 「出来ることなら何でもする。俺もそれに異論はない」
 由玖斗は微笑んで下平を見返した。それを見て下平も微笑み返す。
 「よし。行こう」
 由玖斗は顔を引き締めて足元の闇へ視線を向けた。
 「はいっ」


 階段を少し下りると今度は幾つかのエレベーターが並んだフロアへ着いた。その内の一つに乗り込み、二人は緊張の面持ちで更に下っていった。降下する時の体の浮くような感覚が妙に懐かしかった。
 しばらくしてエレベーターが停止する。扉が開いた瞬間に二人は銃口を外へ向けた。しかしそこに敵は一人も見当たらず、閑散と血生臭い空気が漂っているだけだった。
 二人は周りを警戒しながら通路を進んでいく。その先に辿り着いたのは、高さ幅共に50メートルは越すような巨大なトンネルの中だった。その穴がどこまでも果てしなく真っ直ぐに続いている。
 二人の足音が妙に大きく響く。その足元には南政府軍の兵士たちの死体が転がっていた。
 「隊長!」
 下平の方を向くと、まだ幾つか残っていた高起動車の一つに彼が乗り込んでいた。すぐに由玖斗も駆け寄っていく。
 由玖斗が車に乗り込むと下平がエンジンをかけた。車がゆっくりと発進する。方向転換をすると真新しいセメントの床が奇声を発した。



   19.

 黄褐色の縦長な世界。
 自然と沈黙が場を制す。
 瞳を黄褐色のライトが幾度も撫でていく。
永遠に続くのかと思われたそれも、高鳴る鼓動の由玖斗にはまるで一瞬のようにも感じられた。運転に集中する下平にはもっと早く感じられただろう。


 突き当たりが見えてきた頃。同時にそこには数十台の高機動車が停められており、その前に銃を構えた特戦の兵士が立っていた。
 由玖斗は車から身を乗り出して大きく手を振り、相手の警戒心を解いた。そのまま車を近くまで寄せて下車する。
 「どこの部隊の者だ?」
 銃口は未だ二人に向けたまま兵士が尋ねる。
 「我々は反乱軍の航空部隊だ」
 「航空部隊?それが何故こんな所に?」
 「核の発射を阻止するためです」
 下平が急いて言う。
 「地上は我々に任せるんだ。それに、すぐここからも退避しなければならない」
 「退避?ここは崩れだしているのか?」
 由玖斗が訝しげに訊きかえす。
 「そうじゃない。我々の部隊が時限爆弾をセットして、今戻ってきているところだ」
 「と言う事は、やはり核はここにあるのか。しかし爆破してどうする。それだけでは完全に発射を阻止したことにはならない」
 由玖斗の指摘に兵士は煩わしそうな顔をする。
 「彼らが焦って今すぐにでも発射したらどうなるんだ!」
 下平が声を荒げて兵士に詰め寄る。
 「もし発射されたとしてもそれを撃ち落とす兵器はある」
 「それは絶対に撃ち落せるのか?」
 「それは・・・絶対とは言い切れないが――」
 「それじゃ駄目だ!」
 終に掴みかかろうとする下平を由玖斗が咄嗟に制する。
 「止せ、下平!」
 その時、開かれていた基地へとつながる大きな扉から続々と特戦の兵士たちが戻ってきた。体の動くものは素早く車へと乗り込んでいく。続いて負傷者を抱えた者たちが仲間を車へ詰め込んでいった。
 「何をしている」
 頭を丸めた体格の良い男が由玖斗たちに近寄ってきた。
 「はっ。航空部隊の者たちのようなのですが・・・」
 先ほどの兵士が背筋を伸ばして男に報告する。
 「小倉大佐殿でありますか?」
 由玖斗が尋ねると男は目を細めて彼を見つめた。その後ろで車が発進していく。
 「その声は永見由玖斗か?」
 「はっ。永見空士長であります」
 「下平二等空士であります」
 二人揃って小倉大佐へ敬礼する。
 「挨拶はいい。お前たち、ここで何をしている?」
 「核の発射を阻止しに来たと」
 横にいた兵士が答える。
 「そうか・・・。気持ちは分かるが、既に爆弾は仕掛けた。隅々まで捜索したが、それらしき部屋を見つけることが出来なかった。このままでは負傷者が増すばかりなんでな。荒療治だが、止むを得ない」
 由玖斗と下平は歯を食いしばって視線を落とした。
 「さぁ、急いでここから脱出するんだ」
 大佐が促したが由玖斗はそれを拒んだ。
 「それでも自分は行きます。中に会わなければならない奴がいるんです」
 由玖斗は懇願するような目で大佐を睨んだ。
 「それって、和泰さんのことですか?」
 下平の問いかけに由玖斗は黙って頷く。それを見て下平も大佐に詰め寄る。
 「自分もまだ納得がいきません」
 小倉大佐は眉根を寄せてしばらく黙っていた。
 「・・・自らの命を犠牲に出来るほど、重要なことなんだな?」
 「はい」
 「はいっ」
 二人の即答に小倉大佐は口元を微かに緩ませた。そして無言で自分の腕時計を外すと由玖斗へ手渡した。
 「残り時間はそのとおり、30分だ」
 二人は唾を呑んで大佐へ目をやる。
 「どうした?さっさと行け。こうしている間にも時間は進んでいるんだぞ」
 大佐の言葉に二人は慌てて頭を下げる。
 「有り難う御座います、大佐」
 「失礼します!」
 そう言って由玖斗と下平は口を開いた基地の中へ駆けていった。
 小倉大佐は二人の姿が見えなくなると、不意に心に秋のようなものを感じた。そして待たせていた車へ駆け寄って乗り込んだ。車はエンジン音を高らかに響かせながら走り出した。

――南政府軍海底基地、コントロール・ルーム――

[00:28、52]

 そこは円状の部屋だった。奥側の壁沿いに半円状の段があり、その前に幾つもの機器が据え付けられている。普段ならそこに専門の管制官などが配置されているのだが、今は大村大将が全て追い出して防衛に当たらせていた。そのためコントロール・ルームにいるのは彼と和泰の二人だけであった。
 「奴らめ・・・脱出ルートまで破壊しおったか」
 沢山の監視カメラの映像を忌々しげに睨みながら大村大将は呟いた。モニターの明かりだけで照らされたその部屋は、薄暗い海底のイメージにとても合っていた。
 和泰はその後ろで一つのカメラ映像に目を留めた。飛行服姿の二人が侵入している。その一人の顔には見覚えがあった。和泰は哀しそうに微笑んだ。
 幾つもの映像の中を二人は移動していく。時折、政府軍の残存兵と交戦する。彼が弾の無くなった拳銃を捨てた。
 「大森・・・キーを渡せ」
 大将は振り返りもせず唱えるように言った。彼の持っていたキーは、端末にある二つの鍵穴のうち一方へ既に挿し込まれている。これを同時に回してロックを解除しなければ核は発射されない。しかし和泰は黙ったまま動かない。
 「聞こえなかったか!キーをかせぇ!」
 激しい形相で振り返った大将が、唾を撒き散らしながら叫ぶ。和泰は全く動じず、ゆっくりと懐から銀のキーを取り出す。
 「そうだ・・・そいつをかせ。今すぐ核を撃つんだ」
 のそっと近寄ろうとする大村大将を尻目に、和泰はキーをまた懐へ戻してしまった。大将の血走った目がそれを追う。
 「何のつもりだ・・・大森・・・。キーを渡せぇ!」
 更に近づこうとする大将に向かって和泰は銃口を向けた。それを見て大将は思わず足を止める。
 「残念ながら、もう少しお待ちいただけますか。大村大将?」
 和泰はそう言いながらちらりと監視カメラの映像へ目を向ける。そして銃を大将へ向けたまま機器を操作した。
 「貴様・・・大将に銃を向けるか」
 映像の中の二人が、突然通路の壁が左右に開いたのに驚く。中を窺って入っていく。
 「ご安心を。すぐに終わります」
 和泰はちらりと視線を外す。コントロール・ルームにつながる唯一の通路の方へ向けた。

[00:24、11]

 二つの足音。
 緊張した足取りだ。
 不意に由玖斗が姿を現した。
 和泰を見つけて目を見開く。
 「和泰・・・」
 ほとんど口を動かさないで由玖斗が呟く。
 「よう、ユキ。また会ったな」
 和泰はにやりとする。目は笑っていない。
 「和泰、もう止めるんだ」
 由玖斗はなだめる様に声を低くして言う。
 「何をだ?」
 「首都攻撃だ」
 「何故?」
 「・・・お前こそどうして罪もない人たちを殺そうとする?」
 由玖斗は憤るというよりも悲しそうに和泰に尋ねた。和泰はやれやれというように首を振る。
 「罪もない人たちはこれまでだって何人も死んできた。今だってそうだ。この悲しみの連鎖はどこかで断ち切らなければならない」
 「それが核攻撃か?」
 「そうだ。人革連を見てみろ。あんな国家が人を幸せにするのか?恐怖政治の下に虐げられて、そんな生活が幸せなのか?」
 「だからと言って・・・。東京には1000万を超える人々がいるんだぞ。その人たちも一緒に殺すのか?」
 和泰はやや不機嫌そうな顔で由玖斗の方を見やる。
 「お前は何も分かっちゃいない」
 「何?」
 由玖斗がいささか声に棘を含ませる。しかし和泰はまた余裕の顔を取り戻す。
 「それにお前は人を信用しすぎる。どうして何も疑問に思わない?」
 急に話の展開が掴めなくなり由玖斗は眉をひそめる。すると和泰の視線が由玖斗を通り越した。
 「そろそろ正体を明かしたらどうだ?」
 わけが分からず由玖斗は後ろを振り返った。同時に大声が響く。
 「全員動くなっ」
 目の前の下平の片腕が由玖斗に向けられている。手には銃を持っていた。もう片方の手にも銃が握られており、それは和泰たちの方へ向けられている。
 「し、下平・・・」
 「近づかないでください!」
 銃口が由玖斗の額に上げられる。
 「三人とも大人しくしていてください」
 息が荒い。銃を向ける手も微かに震えている。
 「どういうことだ、下平?一体――」
 「だからお前は人を信用しすぎるんだ。ユキ」
 由玖斗が和泰へ目を向ける。和泰は愚かしいものを見るような目で彼へ視線を返した。
 「そいつは人革連のスパイだ」
 由玖斗はゆっくりと下平へ視線を戻す。じっと見つめていると下平の目が泳いだ。
 「その通りです。自分は人革連の命令で動いていました」
 「そんな・・・」
 「申し訳ありませんが、皆さんには死んでいただきます」
 下平の人差し指が微かに動く。
 眉間がむず痒い。
 永遠のような時の停滞。

[00:21、37]

 「くそぉ!どいつもこいつも私の邪魔ばかりしおって!」
 突然喚きだした大村大将が和泰のキーを奪おうと手を伸ばした。
 タンッ
 「ぐぁあ!」
 下平に右足を撃ちぬかれて大村大将はその場へ無様に倒れた。
 「動くなと言ったはず――」
 タンッ
 「――うぐっ」
 今度は下平自身が肩を撃たれて後ろへ倒れこむ。衝撃で二丁とも拳銃を取り落としてしまった。
 段上には煙を吐く拳銃を握った和泰が由玖斗と下平を見下ろしていた。
 「腕が三本あったら良かったのにな、下平二等空士」
 「っ・・・くそぉ・・・」
 タンッタンッ
 「がぁああ!」
 和泰の撃った弾丸は下平の残りの腕と右足を貫いた。床に血溜まりを作りながら下平はその場から体を動かすことが出来なくなった。
 「下平っ・・・。和泰、お前・・・!」
 近寄ろうとした由玖斗へ和泰が銃口を向けて制する。
しばらく睨み合う。
そしてまたその腕を下ろした。
 「ユキ。俺と手を組め」
 「何だと・・・?」
 「俺と一緒に世界を変えよう。俺とお前となら何だって出来る」
 和泰はニッと懐かしい笑顔を見せた。そして握手を求めて何も持っていない手を差し出す。しかし今の由玖斗にはその笑顔が背筋も凍るような恐ろしいものにしか見えなかった。
 「・・・断る」
 「何故だ?」
 「どんな理由であれ、1000万の人々を殺すことなど間違ってる」
 由玖斗はきっぱりと言い切った。それを聞いて和泰は静かに腕を下ろす。
 「どうしてだ・・・何故分かってくれない・・・?」
 「お前こそ何故分からない?そんなことをしても悲しみは増すばかりだ」
 「新しいことをするには、それだけの犠牲が必要なんだ」
 「そんなことない・・・。そんなこと、あるはずが――」
 「お前は何も知らないんだ!」
 終に和泰が声を荒げる。
 「戦場で死ぬのは兵士ばかりじゃない、老人や幼い子供まで殺されるんだっ」
 和泰は語りながら辺りを歩き回る。由玖斗は黙ったままそんな和泰を見つめた。
 「少年は強制徴兵に狩り出され、女性は兵士の陵辱に泣き叫ぶ!」
 足を止めて肩で息をしながら由玖斗を睨み付ける。由玖斗は心を落ち着かせようとしながら口を開いた。
 「それは俺だって知っている。戦場での苦しみは俺たちだって一緒だ」
 「はっ、空にいて何が分かるんだ?」
 「人の苦しみに差なんてない!」
 由玖斗は耐え切れず声を高くする。
 「必要とされる犠牲なんて、この世にはない!」
 丸い部屋の中を由玖斗の声が僅かに反響する。思わず鼓動が早くなって由玖斗もいつの間にか息を切らしていた。二人の息遣いだけがコントロール・ルームを占める。
 「もういい・・・。時間の無駄だ」
 和泰が由玖斗を見下ろす。
 由玖斗が和泰を見上げる。
 すっと銃口が由玖斗へ向けられた。
 「お前を止めてみせる・・・」
 由玖斗は腰からナイフを引き抜いて構える。
 「無駄な足掻きだ」
 和泰が銃をスライドさせる。
 由玖斗は何も考えなかった。
 ただ和泰を止めるために。
 そのためなら・・・死ねる。
 「おおぉぉぉ!」

 由玖斗は叫びながら突進していった。

 足の底が冷たい床を蹴り上げる。

 タタンッ

 脇腹に鋭い痛み。

 目を瞑る。

 肩からぶつかった。

 手ごたえを感じる。

 そして・・・



 「はぁ、はぁ、はぁ・・・」


 「すぅぅ、すぅぅ、すぅぅ・・・」


 耳元で和泰の息が聞こえる。

 手が暖かい。

 そっと瞼を開いた。

 どろっとした鮮血がナイフを持つ手を染めていた。

 再び脇腹に激痛が走る。急所は逸れていたが出血している。
 「うぐっ・・・」
 和泰は呻きながら崩れ落ちようとした。思わず由玖斗は彼の体を支える。そのまま自分も耐え切れずに膝を突く。
 「どけぇ!」
 突然太い腕が由玖斗の体を引き掴んだ。そのまま後ろへ放り投げられる。
 「っが・・・!」
 頭を打って由玖斗は短く悲鳴を上げた。
 ぐったりとした和泰の懐を大村大将がしきりに探っている。その時初めて和泰の背中からも血が噴出しているのが分かった。そして銀のキーを掴み出すといやらしく顔を輝かせる。片方の手に握られた銃の口から煙が微かに立ち昇っていた。
 大村大将は奥の機器へと駆け寄った。ゆっくりとキーを穴へ差し込む。
 「っくっくっく・・・これで終わりだ・・・これで――」
 タンッ
 弾丸が大村大将の後頭部を貫いてモニターに突き刺さる。同時にひびの入った画面へ血が吹き付ける。大村大将の体はそのまま前のめりになって機器へ倒れこみ動かなくなった。
 その光景を呆然と眺めていた由玖斗は、とっさに背後を振り返る。壁に寄りかかりながら銃を持った手を下平が下げた。そして由玖斗の方へ目をやる。激しく息を切らせながら鋭い目で睨む。
 殺られるか・・・?
 由玖斗の心配とは裏腹に下平はすぐに銃を投げ捨てた。そして由玖斗たちを一瞥して、足を引きずりながら通路へと消えていった。
 由玖斗はその後姿をしばらく無言で見つめ、思い出したように腕の中の和泰へ視線を移す。
 「和泰っ・・・お、おい・・・」
 和泰は苦しそうに息をしながら薄く目を開く。
 「・・・ユキ・・・っ・・・行けよ・・・」
 由玖斗は絶望的な目で和泰を見下ろした。
 「早く・・・早くっ・・・行け・・・」
 和泰が吐血する。
由玖斗は目を泳がせる。
また和泰へ戻す。
「早く・・・早く・・・」
遠くを見るような目で和泰が繰り返す。
由玖斗は和泰をじっと見つめる。
そして大佐の腕時計を確認する。
残り時間・・・18分35秒、34、33――

由玖斗は和泰の肩を担いだ。
渾身の力で立ち上がる。
激痛が脇腹から全身へ伝道する。
「ああぁぁぁ!」
気を失いそうだった。しかし由玖斗は瞼を必死で押し上げて一歩ずつ歩んでいく。
「何・・・してる・・・」
耳元で和泰の声が尋ねる。
「まだっ・・・借りを、返してない・・・!」
声を絞り出して由玖斗が答える。
「馬鹿・・・やろ・・・。そんなものは・・・いらない、と・・・言ったろ・・・」
「うるさいっ・・・黙ってろ・・・」
二人が出て行った頃には基地内は既にもぬけのからだった。床に倒れこんで沈黙を守る兵士たちの体以外には誰もいない。酷く静かな通路に由玖斗の喘ぎ声だけが響きわたる。
やっとのことで基地から這い出てくると、由玖斗は停められた車の最後の一台に和泰を詰め込んだ。覚束ない足取りで自分も運転席へ乗り込む。エンジンをかけて急発進させ、アクセルを全開にしてトンネルを駆け抜ける。時折、助手席の和泰へ視線を向けた。黄褐色に染められた和泰の顔が苦しそうに歪んでいた。

[00:03、14]

 トンネルを渡りきった由玖斗は再び和泰を車から引きずり出すと、歯を食いしばりながら通路へ向かっていった。エレベーターに乗り込んで床に座り込む。足が地面に吸いつけられる。

[00:00、12]

 二人の息遣いが薄暗い箱の中で反響する。

[00:00、07]

 瞼が重くなってきた。無理やりこじ開ける。

[00:00、05]

[00:00、04]

[00:00、03]

[00:00、02]

[00:00、01]

[00:00、00]

 遠くの方から静寂を揺るがす地響きが小さく伝わってくる。
 徐々に。
 徐々に。
海底基地が爆破されたようだ。何も知らなければただの地震のように覚えただろう。だが由玖斗の体は依然、トンネル内を駆け抜ける大量の水の流れる音と振動を感じていた。
カタカタとエレベーターが微震する。
ゴォォォ――
低い唸り声のような音が腹の底を振動させる。
まだか・・・。
まだか・・・。
急に体へ自然な重力が戻る。エレベーターが止まった。
由玖斗は呻きながら体を起こし、再び和泰を引っ張り上げる。半ば引きずるな形で一歩ずつ前へ進んでいく。
誰にも咎められることなく屋外へ脱出する。もう雨は降っていなかった。寒い。出血が由玖斗の体温を奪っていく。
暗闇の滑走路を必死に歩んでいく。
愛機はもうすぐそこだ。
 南国の湿った空気を頬に感じる。
 瞼が重い。
 機体に手をかけた。
 渾身の力を込めて和泰を翼へ押し上げる。
 「ああぁぁぁ!」
 腹から血が流れ出るのが分かる。
 遠くで銃声、足元を数発の弾丸が跳ねた。
 気にも留めずに自らも最後の力を振り絞ってよじ登る。
 また銃声、耳元を風が切る。
 和泰を引きずって後部座席へ押し入れる。
 その時だった。


 ゴォォォオオオオ――


 地面が振動する。
 射撃が止んだ。
 構わず由玖斗は操縦席へ体を放り込む。
 エンジンをかけて発進する。
 また辺りを弾丸が駆け抜けていく。
 徐々に速度が上がって座席へ吸い寄せられる。


――ドオオオオオオ!


 激しい轟音と共に視界の隅で巨大な水柱が上がった。宙を舞う水の塊は重力の法則に遵守した動きへ転じる。大量の水が本部棟を中心に叩きつける。それはうねりを伴って四方へ全てを飲み込みながら広がっていった。
 離陸した。上昇する。体が機体に押し付けられる。ちらりと地上へ目を向ける。小さな人の影が水に飲み込まれていった。赤々と燃えていた建物に、白波を立てたうねりが流れ込む。
 黒煙に代わり真っ白な蒸気を吐き出す崩壊した嘉手納基地を一機の準瀬が飛び去っていった。

――午前6時35分――

 空に明度が戻りだした。まだ視界は水平線まで海が続いている。海面は空に呼応するように進行方向から明るくなっていく。
 「・・・和泰っ・・・おい、和泰っ」
 由玖斗が背後へ叫ぶ。この数時間、和泰が意識を失わないよう数分おきに何度も呼びかけていた。
 「・・・心配するな・・・まだくたばっちゃいない」
 妙に和泰の声は落ち着いているのだった。
 「和泰・・・」
 「ん?」
 「どうして査問会が開かれた時・・・俺たちを逃がしたんだ?」
 それを聞いて和泰は一人、口元に笑みを浮かべた。
 「・・・試したかったんだ」
 「何を?」
 「俺がやろうとしている事は、本当に正しいのか・・・。カミサマにそれを確かめたかった」
 由玖斗は黙ったまま和泰の話を聞く。
 「逃がしたにもかかわらずお前が俺を止めることができなければ、その時は俺が正しい。もしもお前が俺を阻むことが出来たなら、俺は間違っていたんだろうって。そして現に、お前は見事に攻撃を防いだ。俺は間違ってたんだ・・・。」
 由玖斗は唇を噛んだ。血のこびり付いた操縦桿を握る手に力が入る。
 「お前との誓いも果たした。俺は全力で戦った」
 鼓動が早くなる。喉が詰まる。
 安らかな響きが背後から聞こえる。
「もう・・・終わりだな・・・」
 「・・・馬鹿野朗っ。諦めるな!」
 傷の痛みなど気にせず由玖斗が怒鳴る。
 「カミサマは・・・壊れたおもちゃに興味なんか無いさ」
 「そんなことない、そんなことない!そんなのはカミサマなんかじゃない!本当の神様なら、二人とも救ってくれるはずだ!」
 思わず涙が零れる。体の震えが止まらない。
 「和泰ぁっ」
 微かに笑う和泰の声が聞こえる。徐々に息遣いが荒くなっていく。
 「・・・ユキ・・・どこだ・・・?」
 不安そうな声だ。
 「ユキ・・・お前が見えない・・・」
 「和泰・・・おいっ、しっかりしろ!」
 「なんだ・・・そんな所にいたのか・・・。明日・・・?悪いな、部活の練習があるんだ・・・。もうすぐインターハイだろ・・・?」
 「和泰ぁぁ!」
 必死に叫ぶ由玖斗の声も、今の和泰には聞こえない。
 「頼むよ、和泰・・・。頼むよ・・・」
 頬を止めどなく涙が伝って零れ落ちる。
 頭が真っ白になる。

 水平線が一本の輝く線となる。
 それは扇状になって辺りへ朝を伝えた。
 黄金に煌く海。
 歪んだ世界の向こうに小さな島の影が見えた。
 「黒離島・・・和泰、もうすぐだ・・・!」
 「あぁ・・・」
 「しっかりしろ。じきに着くっ」
 「あぁ・・・」
 浮遊しそうな意識を必死で掴みながら由玖斗は島へ機首を向けた。

 厚い雲の隙間から零れる幾つもの光の帯。その中を一機の傷ついた準瀬が黒離島の浜へ近づいてきた。徐々に高度を下げていく。そして着水。海面の水を切り裂きながら準瀬はスピードを落としつつ浜辺へ接近する。しかし速すぎた。機体は浜辺を駆け上がり、先の岸壁へ激しい音を立てて衝突した。ようやく止まった機体は炎上こそ免れたものの鼻先がペシャンコになっていた。


 希薄な意識の中で由玖斗は静止を感じていた。
 何も聞こえない。
 頭が割れるように痛い。
 疲れた。
 不意に体が持ち上がる。
 誰かに担がれた。
 誰だ?
 脳が視覚の電波を拒んでいる。
 「和泰を・・・あいつを先に・・・」
 助けてやってくれ・・・。
 誰でもいい・・・。
 和泰を・・・。



   20.

――命篤16年、元日、皇居内表御座所――

 「そうか・・・。南政府はほぼ壊滅か」
 報告を耳にして、窓から差し込む朝日を浴びながら瑞貴は呟いた。
 「はい。事は順調に進んでおります、殿下」
 彼の横顔を眺めながら斉藤が応える。瑞貴がほくそ笑むのが見えた。
 「斉藤、クォン・ソジンに連絡しろ。今こそ南政府を叩き潰す時だとな」
 「拠点であった嘉手納基地は既に崩壊いたしました。残存勢力は我が軍とは雲泥の差。ここは恭順を勧告されてはいかがでしょうか?」
 「ならん」
 瑞貴の鋭い目が一瞬斉藤を捕らえる。
 「御意」
 斉藤はそれ以上追及せず、すぐに席を立って部屋から出ていった。静けさが増す。昨日とは打って変わり早朝の青い光が眩しい。
 「今はまだ・・・。まだ十分ではないのだ・・・」
 哀愁の帯びた視線を瑞貴は太陽から逸らした。

 即日、平安団は九州の南政府残存軍を攻撃した。大村大将行方不明の上、突然の奇襲に政府軍は慌てふためき平安団は圧倒的な力の差で勝利を収めた。続いて沖縄の嘉手納基地にも軍を進めた。しかし瑞貴の命令通り、在日米軍が駐留する普天間基地周辺及び中頭郡以南へは一切の行軍を控えた。
 数日後、これまで事の成り行きを傍観してきた北海道の北政府軍が投降の意を示してきた。人革連軍は直ちに北海道へ軍を派遣し、丸裸となって手を上げる北政府軍兵士たちを拘留した。人革連軍は北政府軍総司令官熊田中将以下佐官クラスの15名を処刑し、三千近くいる残りの兵士たちは現地に造られた収容所に押し込められた。無論北政府軍兵士たちは収容所を造る労働力としても扱われ、彼らは自分たちが収容される施設を自分たちで造らされた。冬の寒さの厳しいこの時期に、過酷な労働とずさんな生活環境が重なり後に死者が続出することになるのだった。
 全ては瑞貴の思い通りに事が進んでいた。一歩一歩着実に彼の思い描く新生日本国は、誕生するその日に近づいていた。
 しかしまた問題が浮上してきた。次の敵は彼自身だった。かつて永見由玖斗や大森和泰の雄姿に心を打たれ兵士たちの関心が彼らに集中したように、人革連軍兵士たちの間では常に彼らと共に行動し指導する総督ピリオドへの意識が偏り始めたようなのだ。忠誠の対象は一天万乗の天子にのみ捧げられなければならなかった。全ては君主たる瑞貴の下に附しなければならなかったのだ。
 瑞貴は止むを得ず自らの仮面を追放した。瑞貴は民衆にピリオドが反逆を働いたとして総督の地位を剥奪したと公表した。以後総督を置かずに親政することも同時に発表し、これらはテレビ放送を通じて人革連各地に知らされた。一般の民衆たちにとってそれはただ上層部に変化があっただけで何の関心もないことであったが、軍の兵士たちにとっては大きな衝撃を与えられることとなった。

 瑞貴不在のまま新年を迎えた瑳夕は、ある昼下がりに一人中庭に出ていた。手前の白い石畳の上まで車椅子を進めていて、芝の中へは入っていない。
軽く頭をもたげて空を仰ぐ。黄色く明るい光が眩しい。久しく悪天続きであったのに対し、この日は朝から抜けるような青空が頭上には広がっていた。
目を閉じる。
瞼の血潮に目がくらむ。
大きく深呼吸。
生の香りが微かにする。
深い眠りの中にでも確かにそれは息づいていた。
静かに目を開いて車を進める。
カタカタ、カタカタ・・・。
軽い振動が心地よい。
何処までも続いて欲しいような・・・。
ガタンッ!
「きゃっ」
急に体が左へ倒れこむ。瞬時に太い腕が彼女の体を支えた。
「大丈夫ですかっ、瑳夕様」
慌てた様子で斉藤が尋ねた。溝にはまった瑳夕の車椅子を立て直す。
「あ、ありがとう。斉藤さん」
「いえ。ですが、お一人でお出になられては困ります」
そう言いながら斉藤は瑳夕の小さな背中に淡い桜色の毛布をかけた。もとより背の高い斉藤を瑳夕はかなり首を傾けて見上げる。
「どうかなされましたか?」
呆然とするように見つめる瑳夕へ訝しげに斉藤が訊く。
「あっ、いえ・・・。ただ、私たちは余り人の暖かさを知らないので。こういう時にどうすればいいのか戸惑ってしまいまして・・・」
 「何も仰らずともよいのです」
 斉藤はその場に跪く。
 「あなたは既に皇家のお方。何もお気にせず、ただ命じればよろしいのです」
 「本当に・・・それでよろしいのでしょうか・・・」
 瑳夕は憂えるように視線を斉藤から外し、中庭へと移した。
 「人々の混乱の状況は耳にせずとも分かっています。内乱で皆疲弊しきり、愛する者を失って・・・。私にだけこのような贅沢が出来る権利などあるはずがないでしょう?」
 冷たい風が吹きつける。流れる前髪を手で受け止める瑳夕を斉藤は黙したまま眺めた。
 「人にはそれぞれの役目と言うものがあります」
 斉藤は膝を地に着けたまま語りだした。
 「瑳夕様にも天より授かりしお役目が御座います。それが如何なるものなのか、それを知っている人間は極少ないはずです。しかし長い年月を重ね、ふと振り返った時に誰もがそれに気付けるはずなのです。あなた様がそれに今気付けずとも、それは当たり前のことであり、焦らずともじきに自ら悟られるものなのです」
 瑳夕は再び斉藤へ目を戻した。斉藤の深い堀の奥にある目は優しく微笑んでいた。
 「出しゃばったことを申しました。お許しください」
 斉藤はそう言って軽く頭を下げた。
 「斉藤さんのお役目は何なのですか?」
 「私の役目は生涯殿下に尽くすことで御座います」
 斉藤は何の躊躇いもなく即座に答えた。
 「そう・・・。私はだんだん、あの子のことが分からなくなってきました。あの子は賢い子です。瑞貴には瑞貴の考えがあってのことだと、それは分かっています。分かっていますが・・・。ピリオドと言う方のことも詳しくは説明してくれませんでしたし」
 「そちらのことは瑳夕様がお気に召されることでは御座いません。全ては順調に進んでおります。この国がまた一つになる日はもうすぐそこです。殿下は早期にこの乱世をお鎮めなさろうと、必死になって戦っておいでです。どうか、どうかお分かり下さい」



   21.

 黒離島戦の決着は年が明ける前に着いていた。
 コードBの発令により、各防衛拠点と本部は全軍玉砕の覚悟で突撃の用意をしていた。しかしそれがなされる前に拠点は尽く旧政府軍の手に落ち、自爆の意を固めていた本部までもが急速に鎮圧されてしまった。
 数時間後、特戦の小倉大佐たちが嘉手納基地陥落の情報と共に黒離島へ到着したのをきっかけに形勢は全く逆転した。後ろ盾を失った旧政府軍の士気は一気に消沈し、銃を捨てて投降する者が続出した。それにより旧政府軍は事実上崩壊し、結局全てが拘束されることとなったのだ。
 そんな慌しい朝を迎えた頃、由玖斗の戦闘機が不時着したのだった。反乱軍の兵士たちは英雄の帰還に歓声を上げながらも、その傷付いた体を機体から引っ張り出し野戦病院へ担ぎ込んでいった。

――旧政府軍仮収容所――

 そこは岩場をくり貫いて鉄格子をはめ込んだだけの狭い部屋だった。拘束した旧政府軍の中で未だに恭順を示さない者だけを収容する所であった。
 「あいつを出せ!」
 鉄格子にしがみ付き激しい形相で小川は叫んでいた。反乱軍から与えられる食事も投げつけ返し、その頬はこけて無精ひげが伸びている。彼は仲間たちが次々と降伏する中、最後まで抵抗し続けた一人であった。捕縛された後も決して恭順することなく、こうして牢獄の中に投じられていた。
 「あいつを・・・永見由玖斗を出せぇ!」

 喉に空気が通るのを感じた。
 あの世にも空気があるのだろうか?
 軽く思えた瞼が開いた。
 薄明かりの中に井澤大尉の顔が浮かんでいた。
 「・・・大尉?」
 井澤大尉は軽く微笑んで由玖斗へ目をやる。
 「よぉ」
 短く大尉はそう返した。
 由玖斗は腹に痛みを感じながら体を起こす。狭い質素な小屋の中にいることが分かった。
 「あんまり無茶するんじゃねえぞ。何せ、まる二週間ほど意識がなかったんだからな」
 「二週間・・・。じゃあ、今日は――」
 「14日だ」
 二週間。由玖斗にはあまり実感のないことだった。まるでつい昨日だったように感じる。黄昏の大空中戦。本間中将の最期。嘉手納基地への潜入。下平の正体。そして・・・。
 「大尉・・・、その・・・和泰は・・・?」
 井澤大尉は表情を崩さずに由玖斗をしばらく見つめた。黙ったまま由玖斗も大尉へ視線を合わせる。一瞬視線を外されたような気がした。
 「あぁ・・・あの若造なら、お前が不時着した時には既に死んでいた」
 心のどこかでそれは予期していたのだろう。思ったよりも自分の中に動揺が見られないので、由玖斗は一人そう思った。
 「あの時お前自身も虫の息だった。失血死を免れたのが信じられんと軍医も言っていたぞ」
 大尉は視線を布団へ向けたままの由玖斗を見て話すのを止めた。そして携帯電話を一つ取り出して彼の前に置く。
 由玖斗はそれを手にして不思議そうに大尉へ目を向けた。
 「あの若造のだ。お前が持っていてやれ」
 井澤大尉はそれだけ言い残してさっさと小屋を出ていってしまった。
 しばらく由玖斗は手にした和泰の携帯電話を眺めていた。
 ゆっくりと開く。液晶画面に映し出されたのはメールの受信を知らせる画面であった。少し迷ってメールを開いてみる。

お久しぶりです。笠麻市で助けていただいた大柴千夏です。
嘉手納基地が陥落したという話を聞きましたが、そちらは大丈夫ですか?
私たちは人革連に占領されてから色々な自由が制限されていますが、何とか無事に過ごしています。これもあの時、和泰さんに助けてもらったおかげだと母と一緒に感謝してます。
まだまだお忙しいとは思いますが、いつかまた会いに来てくれませんか?いつまでも私は待っています。
長々とすみませんでした。では、またお会いできる日を楽しみにしてます。

 胸を締め付けられる思いだった。一種の罪悪感のようなものが由玖斗の首を絞めている。
 震える指でメールを閉じた瞬間、彼の心は壊れんばかりに衝撃を受けた。
 和泰の携帯電話の待ち受け画面。そこに映っていたのは、幾つもの幼い無邪気な笑顔であった。真ん中に座った和泰も笑顔でこちらに顔を向け、片手は小さな少年の頭を撫でている。
 ぽたり、ぽたりと画面に涙が零れた。
 俺は・・・俺は何も知らなかった。
 あいつが・・・和泰が何を守ってきたのか。
 何を守ろうとしたのか。
 何も語らなかったあいつを俺は殺した。
 俺が殺してしまった・・・。

 小屋の外では分厚くなりすぎた雲が自らの身体(からだ)を引き千切るように、細かくなったその断片を地上へ振り撒いていた。

 昼間だというのに厚い雲に覆われた地上は光を阻まれ、凍える寒さに息を潜めていた。
 昨晩降った雪が積もったままの浜辺に由玖斗が腰を下ろしている。その背中を目にして彼は歩を進めた。
 由玖斗の耳にも誰かの近づく音が聞こえた。訝しげに背後へ目をやる。そのままその目を大きく見開いて彼を凝視した。
 こちらへよたよたと近寄っているのは赤城だった。松葉杖に寄りかかりながら左足をずるずると引きずっている。頭には包帯を巻いて、その右半分をほとんど覆っていた。
 「あ・・・赤城・・・」
 赤城は由玖斗の前で足を止めると、左の口の端をゆっくりと持ち上げた。
 「よぉ。酷い格好だな」
 赤城はそうおどけて雪を被った由玖斗の姿をじろじろと眺めた。それに由玖斗は初めて笑みを漏らした。
 「人のこと言えるか?」
 「そりゃそうだな」
 赤城はまた足を引きずって由玖斗の隣まで来るとそこへ腰を下ろした。由玖斗もゆっくりとまたその場へ座った。
 乾燥と湿気の入り混じった風が波間から二人に吹きつける。もはやこの二人に寒さを感じる意欲などなかった。ただ呆然と荒々しく白波を立てる冬の海を眺め続ける。
 「その傷、大丈夫なのか?」
 しばらくして由玖斗が尋ねた。赤城は視線を落としながら口元を緩ませた。
 「俺としたことが、敵機の破片に当たっちまった。お陰で右の目と耳を持ってかれた。脳にも損傷があって左足も麻痺したままだそうだ」
 由玖斗の背に鳥肌が立った。寒さからでないことは分かっている。
 「これで俺も役立たずだな。戦闘機に乗れない戦闘機乗りなんて・・・」
 由玖斗は何と声をかけたらいいのか分からず、赤城の方を盗み見た。彼の心配を他所に赤城は案外安らかな表情で遠くを見つめていた。
 「これから俺たちはどうなるんだろうな・・・?」
 赤城の問いかけに由玖斗は何も答えることが出来なかった。ただただ、彼と同じ方向を見つめるだけしか出来なかった。彼らを囲んだ黒い水平線が異様な雰囲気を湛えている。
 そこへまた別の足音が近づいてきた。そちらを振り返ると、駆け足で寄ってきた幼い兵士が申し訳なさそうな顔で由玖斗を見ていた。

 岩場は身を切るような冷たい風が吹き荒んでいた。牢獄の中で小川は念願の人物を目にしてふと笑みを零した。
 由玖斗は鉄格子の前に胡坐をかくみすぼらしい姿の男を見下ろした。
 「俺に何か用か?」
 「用・・・?あぁ・・・あるさ・・・」
 そう答えながら小川はゆっくりと腰を上げて鉄格子へ手をかけた。血走った目玉を由玖斗へギロリと向ける。
 「お前なんかのために・・・お前との誓いなんかのために・・・あいつは戦うしかなかった・・・。あいつは戦うことなんて望んじゃいなかったのに・・・」
 小川が更に鉄格子へ顔を近づける。
 「お前を殺してやる・・・。お前を殺して、あいつの束縛を俺が解いてやる・・・」
 半狂乱的な笑みを薄っすらと浮かべる小川を、由玖斗は真っ直ぐな視線で見返した。
 「和泰は死んだ」
 小川の顔から徐々に笑顔が消えていく。唇が震える。
 「・・・うそだ。でまかせを言うな」
 「本当だ・・・。俺が殺した」
 表情の無かった小川の顔に再び憤怒の色が滲み出す。
 唸り声を上げながら小川が格子へ額を打ち付ける。そのまま凄まじい形相で由玖斗を睨みつける。
 「貴様・・・貴様ぁ・・・貴様あぁぁ!」
 由玖斗の後ろに念のため護衛として着いて来ていた先ほどの兵士が、小川へ咄嗟に銃口を向ける。
 「銃を下ろせ」
 静かに由玖斗は指示した。兵士は若干不満そうな顔で言うとおりにする。
 小川は格子に額を擦らせながら頭を垂れた。
 「あいつは・・・あいつはいい奴だった。あんなに強い男を俺は見たことがない。あんなに心の優しい奴を俺は見たことがない。それを・・・それを貴様はあぁぁ!」
 再び由玖斗を睨む小川の目からは涙がぼろぼろと零れ落ちていた。悔しさに歯を食いしばり、震える手で拳が真っ白になるほど強く握り締める。
 由玖斗は込み上げる肺の空気を震える喉を通して吐き出し、彼から目を背けた。
 「・・・すまない」
 それだけ言い残して由玖斗は踵を返し、その場から立ち去っていった。その後を護衛の兵士が急いで追っていく。
 小川は力無くその場へ崩れ落ち、膝を突いて頭を垂れた。肩が小刻みに震える。
 小川の狂ったような笑い声を背に、由玖斗は仮収容所を後にした。
 その笑い声は高らかに曇り空へと駆け上っていった。悲哀な波動が雲を揺さ振ったかのように、その灰色の天蓋から真っ白な雪がまた降り始めた。


 明朝。小川は与えられていた金属の食器で岩を砕き、その尖った先で首筋を貫いて息絶えていた。岩場にほとばしった返り血は凝固し、その血溜まりで黒蟻がもがき苦しんでいた。



   22.

 暁珠との問題があった直後、高木は辞表を役所へ提出して二度とそこへ戻ってくることはなかった。彼なりのけじめを付けたつもりだったのか、もしくはそれさえも恐れた結果だったのか、今となっては暁珠に知る由は無かった。
 暁珠はあの日浜辺へ行ったことも、そこで自分が何をしようとしていたのかも誰一人として話すことはなかった。ただ腐りきった魂を掌(たなごころ)で包み込み、その日誓った思いに浸して日々を送っていた。


 年も開けた1月10日の暮れ。座敷に座る暁珠と萌鏡の向こうには、瞳の青い茶髪の女性が畏まって対面していた。
 「私はナターシャ・トルスカヤと言います。日本人とイタリア人のハーフで、戦場ジャーナリストをしています。そこで私は永見由玖斗空士長の隊に密着していました」
 暁珠と萌鏡の二人は黙したまま彼女が懐から一つの携帯電話を取り出すのを見守った。
 「これは永見空士長が行方不明になる直前に残していったものです」
 双方の間に置かれたちゃぶ台の上へナターシャはそれを下ろし、すっと二人の方へ押し進めた。
 「開いてみて」
 ナターシャの言葉に暁珠が携帯電話へゆっくりと手を伸ばす。若干震える手つきで二つに開いた。バックライトが光って暁珠の顔を照らす。画面が映し出された。いつしかの彼女と由玖斗が笑顔で写っている。
 「永見空士長はいつもこの携帯を眺めていました。悲しそうな目で・・・」
 思わず涙を零した萌鏡が声を押し殺して顔を背ける。今まで何度も見てきたその涙にナターシャは改めて心を締め付けられた。そして急いで付け加える。
 「まだ彼の死が確定したわけじゃないわ。旧政府軍が勝手に戦死通知を送ってきただけで、彼らが生きている可能性は十分にある」
 力強くナターシャは二人へ訴えかけた。
 「スパイ容疑の査問会だって、たったの一日で極刑判決なのよ。明らかに旧政府軍が何かを企んでいたに違いないわ」
 力説するナターシャの言葉へ耳を傾けながら、暁珠は優しく由玖斗の携帯電話を握り締めた。そして彼女に向かって安らかな微笑を投げかける。ナターシャはいささか不思議そうな顔でそれに応えた。
 「大丈夫です。何が起ころうと、私は待ち続けます」


 日もすっかり落ち外は凍った風が吹き荒ぶ頃、暁珠と萌鏡はナターシャを見送りに役所の玄関まで降りてきた。一日泊まって夜が明けてからにしては、と提案はしたもののナターシャは先を急ぐと言ってきかなかった。
 玄関のガラス戸の向こうで車の白いライトが輝いている。その光が彼女たちの所まで零れて、床のタイルへ眩しく反射していた。
 「もし知っていたら、久保大一等空士のご実家の場所を教えてもらいたいんだけど」
 去り際にナターシャが二人へ尋ねた。
 「すみません・・・。軍のことは全く知らなくて」
 申し訳なさそうに答える暁珠へナターシャは笑顔を向けた。
 「大丈夫よ、暁珠さん。きっと永見君は生きてる」
 ナターシャはその笑顔を萌鏡にも振り向ける。
 「あの、移動とか危険なんじゃないんですか?」
 萌鏡が心配そうに尋ねると、ナターシャは尚も笑顔のまま答えた。
 「大丈夫。私の仕事仲間が安全に運んでくれるから」
 そう言ってナターシャは車の方へちらりと目を向けた。
 「じゃあ、気をしっかり持ってね」
 「はい。ナターシャさんも頑張ってください」
 「ありがとうございました」
 二人が礼を言うとナターシャは手を振って車の方へ向かっていった。彼女が乗り込むと車は車輪をゆっくりと回してUターンした。そしてそのままアクセル音を上げて役所の敷地から出ると、暗い車道へと消えていった。



   23.

 皇居表御座所。その日瑞貴は三菱UCなどからの書類に目を通し、デスクワークに勤しんでいた。
 彼の前には改まった服装の斉藤が厳しい顔で机の向かい側に立っていた。
 「殿下。即刻平安団を討つべきです」
 瑞貴は視線を書類へ落としたまま何も答えず作業を続ける。
 「あの者らは殿下の命に従わず、依然兵を沖縄から撤退させようとしません。これでは殿下の威厳に関わります。殿下の御意向こそ絶対不可侵であることを更に臣民へ示さねばならぬはず。どうかご命令を」
 「あの者たちはまだ使える。その時が来たら私が捨てる」
 「いけません、殿下。彼らを侮ってはなりません。常に我らへ監視の目を向け、空きあらば懐から殿下のお命を狙おうとしております。どうかご決断を」
 瑞貴は手をはたと止めて冷たい視線を斉藤へ投げかけた。
 「お前はいつから俺に異見できるようになったのだ?」
 静かな声でそう言いながら瑞貴はゆっくりと斉藤の前へ出てくる。
 「お前こそがその殿下の御意向とやらを犯しているのではないのか?」
 「その通りに御座います。私はたった今、殿下に背き申し上げました」
 斉藤の瞳が微かに淡い光を宿したように見えて、瑞貴は思わず怪訝そうな顔をした。
 「御免!」
 そう叫ぶや否や斉藤の手が瑞貴の腰の短刀へ伸びた。
 瑞貴はぴくりとも動く暇なく、斉藤の手が短刀を引き抜くのを眺めるしかなかった。
 斉藤は短刀を逆手に持つと一思いに自らの脇腹へ突き刺した。
 「くぅぬっ!」
 息を漏らして斉藤は膝を突いた。
 「斉藤!」
 瑞貴はそこでやっと斉藤の下へ駆け寄った。
 「ぬうぅぅぅ――」
 尚も腹を真一文字に切り裂こうと力の入る斉藤の手を、瑞貴は必死になって押し留めようとした。
 「何をする、斉藤!」
 噴出す鮮血の生暖かさを手に感じながら瑞貴が叫ぶ。
 「お下がりを・・・殿下・・・。危のう御座います・・・」
 「止めろぉ!」
 徐々に斉藤の腕から力を感じなくなっていった。斉藤の巨体が横へ倒れる。瑞貴の力ではそれを支えきることが出来ず、彼の体は絨毯の敷かれた床へそのまま横になった。
 「しっかりしろ、今医者を――」
 立ち上がろうとする瑞貴の腕を斉藤が掴んだ。血がべっとりと彼の袖を染める。
 「どうか・・・どうか、そのまま・・・お聞きください」
 息絶え絶えに斉藤が言う。
 「芳も私は、殿下の側用人として働いてまいりました・・・。おそらく、人々は・・・私こそ最も殿下に近き人間と思っておりましょう。その側用人でさえ、殿下に背こうならば命は無いことを・・・更に臣民へお知らせなさいませ・・・」
 「何を・・・何を馬鹿なことを・・・!」
 「その通りに御座います・・・。私は殿下のお足元にも及ばぬ、稚拙な人間に御座います。そのような者を・・・殿下は受け入れて下された・・・。私のような人間を・・・」
 「もういい、喋るなっ。誰か!誰かおらんのか!」
 苛立ちと何かが瑞貴を焦らせた。そんな彼を見て斉藤は嬉しかった。
 「殿下・・・。私は・・・殿下のような主に仕えられて・・・本当に良かった・・・」
 最後の一息を口から吐き出して、斉藤は目を閉じた。
 全く力の入らなくなった斉藤の体が床へ沈む。
 瑞貴は混乱していた。
 これまで感じたこともないものが心を満たす。
 そして渦を巻いて周りの組織を破壊していく。
 一体これは何なのだ。
 これは一体・・・?
 ガチャリ。
 視界の隅で扉が開いた。
 「どうかしたの、瑞貴?大きな声が聞こえ・・・」
 部屋の悲惨な情景を目にして、瑳夕は戸口で凍りついた。どうにか自分を取り戻して車椅子をぴくりとも動かない斉藤の下へ進める。
 「斉藤さん・・・、斉藤さん・・・」
 声を震わせながら、まだ使える右足を支えに立ち上がるとすぐに彼の下で崩れ落ちるように倒れこんだ。
 「斉藤さん・・・斉藤さん・・・」
 何度も何度も呼びかける瑳夕に斉藤が応えることはなかった。そして彼の腹に深々と刺さった短刀へ目を向ける。その柄を握っていたのは血塗られた瑞貴の手であった。
 「そんな・・・瑞貴、あなた・・・」
 瑞貴は誰にも気付かれることなく歯を食いしばった。柄を握る手に力を入れ、一気に刃を引き抜く。傷口から僅かに残った斉藤の血液が零れ出る。瑳夕はその光景を呆然と凝視したままだった。瑞貴が刃の血を拭い取って腰に納め、彼女に背を向ける。
 「この者は私の意思に背いた・・・」
 瑳夕は大きく見開いた目を斉藤へ移し、そしてまた瑞貴の背中へと戻す。
 「だから・・・殺したの・・・?」
 「・・・あぁ」
 瑳夕の瞳から大粒の涙が零れ出した。頬を伝って止めどなく床へ滴る。
 「どうして・・・?どうしてそんなことが出来るの?斉藤さんはあなたのことを・・・あなたのことだけを考えて・・・。それなのにどうしてこんな酷いことが出来るの!」
 瑳夕の手が瑞貴の足首を掴む。瑞貴はちらりと彼女を一瞥した。何も答えずにその手を振り解いて歩みを進める。
 「鬼!瑞貴は鬼よ!」
 瑳夕の叫び声を背に受けながら瑞貴は表御座所を後にした。薄暗い通路の先を睨みつけながら足を機敏に動かす。

 瑞貴は主人に尻を叩かれるように、厳かに即位式を挙げた。ここに瑞貴は人革連の下で名実共に新たな天皇となった。
 数日後、三菱UCに向けて瑞貴から密書が送られた。それは平安団への物資供給を遮断し、彼らに一切の市場を開け放すな、との内容であった。
 これを受け取って三菱UCの代表取締役小磯健三は激怒した。
 「青二才が・・・馬鹿にしおってぇ・・・」
 小磯はその密書を握りつぶしながら唸る。真っ白な部屋に下ろされたブラインドの隙間から昼の光の筋が幾つか差し込んでいる。小磯の隣には恩田が不敵な笑みを浮かべて彼を面白そうに眺めていた。
 「そないなこと言うてもボス、あちらはんはうちんとこの大事なお客さんやさかい」
 「それであの若造の言いなりになれというのか」
 ぎろりと小磯が恩田へ視線を向ける。
 「平安団はんと契約せえゆわれたら、あんな素直に言うこと聞きはったやないですのん?」
 「それはこちらに利益が期待されていたからだ!なのに市場を開放するなだと?何様のつもりだ!」
 苛立ちを拳にこめて机を殴る。
 「そらぁ、帝はんとちゃいますのん?」
 「あぁ?」
 そう言って小磯が振り返った瞬間だった。
 ガウンン!
 弾丸が小磯の心臓を貫く。バランスを崩して机にもたれるようにして倒れこむ。
 「・・・き、貴様ぁ・・・」
 恩田は銃口から昇る煙を吹き消すと、にやにやしながら銃を戻した。
 「悪いでんなぁ、ボス――」
 恩田が話している間に小磯は動かなくなった。
 「三菱UCはこれから・・・うちが動かしますさかい、そこで安らかぁに眠っといてもらえますかいのん?」
 指先一つ動かすことのない小磯へ恩田が語りかけた。そして懐から携帯電話を取り出して何処かへかける。
 「・・・どうも、ピリオドはん。おっと、革和(かくな)天皇はんでしたなぁ」
 楽しそうに小さな端末へ話しかけながら恩田はブラインドへ近づく。真っ白なラインが彼の顔を光と闇に分ける。
 「・・・えぇ・・・何言うてはりますのん。礼ならうちの台詞ですわ」
 光が恩田の目を射る。彼は眩しそうに目を細めた。
 「ほな、今度はナンバーワン同士、今後とも宜しゅうに」

 恩田劉が新代表取締役になって以来、彼は徐々に平安団への物資供給を抑えるようになっていった。恩田が瑞貴の指示通り行動するようになった目的は、単に平安団への利益をこれ以上見出さなくなっただけに過ぎなかった。財源に乏しい平安団には既に用は無くなり、今では最大の顧客となった人革連へ依存した方がはるかに儲かる。無駄に危険を冒す必要もない。ただそれだけであった。
 補給の道を絶たれた平安団は人革連へ抗議した。これを待っていた瑞貴は直ちに彼らを賊軍と宣言し、平安団討伐の勅令を出した。人革連軍に圧倒された平安団は徐々に九州へと追い詰められた。そして終にクォン・ソジンは残りの軍勢を率いて平安団が駐留する沖縄本島へと退いた。後に彼らは沖縄北部を占領し、自らの政府を樹立することになる。


 そして瑞貴にとって残る敵は、黒離島に篭城する反乱軍のみとなったのである。



   24.

――2月3日、黒離島、西部方面普通科連隊本部跡――

 依然曇り空の広がる中、薄暗い光に照らされた洞穴に何人かの人陰が動いていた。長い机の先端に小倉大佐が腰をかけ、その両脇から梶取中佐以下階級順に8名が列を成して席についている。その中には難しい顔をした井澤大尉の姿があり、彼の隣には由玖斗も一番端で同席していた。
 「では、意見はまとまったな?」
 小倉大佐が神妙な面持ちで皆を見渡す。それに誰もが深く頷いた。一人、井澤大尉だけが難しい顔のままであったが何も反論することなく沈黙を守った。


 会議が終結し、由玖斗は赤城の下へ足を運んだ。
 凍えるような寒さに皆屋内へ非難する中、人の集まる場所を避ける赤城は雪を被った木立の下で煙草をふかしていた。
 「お偉い方と何の話だ?」
 いささか不機嫌そうに赤城が尋ねた。由玖斗は微かに微笑んで隣の木へもたれかかった。葉に積もった雪が幾らか零れ落ちてくる。
 「降伏することに決まったよ」
 「何?」
 赤城が煙草から口を離してこちらを向く。由玖斗も彼の方へ視線を向ける。
 「降伏だ」
 「本気で奴らがそれを承知するとでも思ってるのかっ?一度でも逆らった者は皆殺しにされただろう!」
 「北政府軍が降伏を申し出た時、人革連は受け入れた」
 「上位の者らの命と引き換えにだろう」
 「あぁ・・・」
 由玖斗はそう答えて赤城から視線を外した。
 「・・・大佐たちは死ぬつもりなのか?」
 「あぁ・・・」
 「・・・お前も死ぬつもりなのか?」
 「・・・あぁ」
 しばらくの沈黙。
 風が耳を切り裂く。
 由玖斗は軽く口を開いた。
 「分かるだろ?人革連は南政府軍と同じことを考えている。俺の下に兵が集まるのを恐れてる」
 「担ぎ上げられることもあるだろうが、お前がそれに乗らなければいいだけじゃないか!」
 「それでは駄目だ。ピリオドと言う男・・・よほど頭が切れるらしい。俺を生かしておくこと自体が危険だど悟るはずだ」
 「・・・なら俺も共に」
 「何言ってる」
 由玖斗はいきり立つ赤城へ優しく微笑んだ。
 「お前には帰るところがあるだろう?」
 「二度も死んだ命だ。今更――」
 「赤城」
 空回りする赤城をなだめるように由玖斗が呼びかける。
 「二度も助かった命だ。お前は生きる運命にある」
 「っ・・・勝手なことを言うな!」
 よろけながら赤城が二三歩由玖斗へ近づく。
 「お前にだって帰る場所があるだろう!妹はどうする、幼馴染はどうする!」
 赤城の必死の訴えに由玖斗は苦い顔をした。
 「これが・・・定めなんだろう」
 「・・・なんで・・・なんでなんだよ・・・!」
 声を震わせながら赤城は俯いた。必死な顔で足元を睨む赤城を見て、由玖斗は心が温かくなった。
 「井澤大尉も必死で抗議してくれた・・・。自分も同じ立場だって言うのに・・・。でも、やはりどうしようもないことなんだ」
 呟くように言って由玖斗は空を仰いだ。
 薄くなった雲が真っ白に光っている。
 由玖斗は、はっと思った。
 今まで曇り空などあまり良い気分ではなかった。
 それなのに今はとても清々しく思える。
 何も描かれていない真っ白な世界。
 どんな可能性もある。
 何にだってなれる。
 その幸せ。
 もっと早く気付きたかった。
 もっと早く、気付きたかった・・・。

 反乱軍が降伏を申し出て数日後、小倉大佐、梶取中佐以下4名の佐官クラスと井澤大尉、そして由玖斗は人革連軍の輸送機によって黒離島から運び出された。同時に占領軍が島へ送られ、残りの兵士たちを厳しく監視することとなった。
 四時間後、彼らは彼らが守り抜いた東京へと足を降ろした。小倉大佐と梶取中佐は堂々と胸を張り、飛行機の階段を下りていった。
 すぐに彼らは数台の輸送車に乗り換えさせられ、軍の拘置所へと連れていかれた。そこはこれまで人革連へ謀略を企て政治犯たちが拘留されていた。バンは左右に揺れ動きながら拘置所の門を潜っていった。
 画策を恐れてそれぞれが別々のエリアへと振り分けられた。
 由玖斗は後ろ手に縛られたまま拘置所の兵士に背中を押されて施設内を歩いていった。しばらく歩かされた後に雑音が消えた頃、誰もいないレーンの一番奥にある一部屋へと彼は入れられた。
 鍵が厳重に閉められ、兵士たちが去っていく。
彼らの足音もすぐに聞こえなくなってしまった。
 備えられたベッドの上へ腰をかける。
 華奢な足が悲鳴を上げた。
 鉄格子の向こうの通路から音がする。
 通路の高い所にある小窓が風に叩かれていた。
 それ以外に音はしない。
 酷く寂しい。
 肩が寒い。
 由玖斗は膝を抱えた。
 体が震える。
 怖い。
 怖い。
 怖い。
 死が怖い・・・。

 死にたくない、死にたくない!


 誰か・・・誰か助けて・・・。


 気の狂いそうな数日が過ぎた。恐ろしい一分一秒が一生のように長い。恐ろしいのにそれが愛しくて必死になって手で受け取ろうとする。それなのに時は無情にも手の隙間から零れ落ちていくのだった。
 迫り来る死の恐怖に四六時中体を震わせる日が過ぎると、人間それさえもままならなくなるようだ。恐怖のピークになると人間の心はその振幅に耐え切れなくなって何処かへ飛んでいってしまうらしい。二週間も過ぎると、閑散とした牢獄では抜け殻のような由玖斗がただ呆然と小窓を見上げていた。
 そんなある夜。既に消灯時間も過ぎて辺りは闇と化していた。由玖斗は小窓から零れる月明かりを相変わらず眺めていた。
 遠くで音がする。敏感になった耳がそう告げた。どんどん近づいてくる。近づいてくる。近づいてくる。近づいてくる・・・。
 視界に何かが入った。
 「夜分にすまないな」
 人陰が言う。由玖斗はゆっくりと顔を彼に向けた。月明かりに浮かび上がったその姿は袖の長い何とも豪華な狩(かり)衣(ぎぬ)姿で、感情の無い微笑を湛えた顔がこちらを見下ろしていた。
 「・・・誰だ?」
 数週間ぶりに発した声は掠れていた。喉が痛い。
 「この国の帝だ」
 そう応える男の顔はまだ若く、自分と同じ年に見えた。
 「お前が・・・お前が、帝・・・」
 「そうだ。じきにこの国もまた一つになる。それを統べるのがこの私だ」
 瑞貴はそう言ってにやりとした。由玖斗は感心無さげに顔を背ける。
 「下平俊介のことを知りたくはないか?」
 視線だけを彼へ向ける。
 「あいつのお陰で色々と助かった。佐渡島への奇襲策も奴の情報を得てのものだった」
 由玖斗は夏の惨劇を思い出して拳を握りしめた。
 「そして沖縄への護送任務。お前たちが守っていたのは、他国から南政府軍が買った核だった。それが何処へ運ばれるのか詳しい情報が必要だった。奴にはそれも頼んでいた。ただ、核が東京を狙ってのことだとは教えていなかったのでな。大森和泰からそれを知らされた時にはよほど動転していた。彼にも感謝している。お陰で下平自らが核攻撃の計画をお前たちに悟らせるという危険を冒さずに済んだのだからな」
 怪訝な顔で由玖斗が瑞貴を見上げる。
 「申し訳ないが、お前にも私の駒となってもらった」
 瑞貴は目を細めて由玖斗を見据えた。
 「南政府軍が核で東京を狙っていることなどはるか前に知っていた。それを敢えて泳がせていた。当然反対意見が出るのは目に見えている。お前たちが自然に共倒れするのを期待していたのだ。確かに危険な賭けではあった。念のため東京に迎撃部隊は配置していたがな」
 徐々に荒くなる由玖斗の息遣いが静かな牢獄に響く。
 「下平を恨むな。我々が奴の家族を人質に命じていたのだ」
 由玖斗は目を見開いて瑞貴を見つめる。鉄格子にしがみ付いて瑞貴を睨む。あの時の小川のように。
 「下平は・・・下平は何処だ?」
 由玖斗の問いかけに瑞貴は少々申し訳なさそうに視線を外した。
 「残念だが、奴は死んだ」
 手から力が抜けていく。
 「崩壊する嘉手納基地から脱出できなかったらしい。諜報部を使って調べさせた。つい最近、奴と思しき遺体を発見したそうだ」
 「嘘だ・・・」
 由玖斗は呟く。
 「いや、本当だ」
 無情に瑞貴が訂正する。酷く疲れたように溜息をついて続ける。
 「奴には申し訳ないことをしたと思っている。今度無事に帰ってきたら、高官に就かせて奴の家族共々生活は保障してやるつもりでいた」
 ガシャッ!
 「・・・」
 再び鉄格子を握って由玖斗が瑞貴を睨み付けていた。心の底から人を憎む視線を瑞貴へ突き刺す。
 「お前の身勝手で・・・どれだけの人が苦しんだと思う・・・!」
 格子を握る腕が震える。徐々に息も上がっていく。そんな由玖斗の様子を無表情で瑞貴が眺める。
 「そうだ。私は多くの人を苦しめた。傷つけた。殺した」
 真っ直ぐに由玖斗の目を見ながら瑞貴は言った。
 「たくさんの犠牲を払った争いも、もうすぐ終わる・・・。だが――」
 瑞貴は懐から銃を取り出した。
 その鈍色を見た途端、由玖斗の心臓が痛いくらい胸を打った。力なくその場へ崩れ落ちる。
 話しながら瑞貴は銃に弾を込める。
 「まだやらなければならない事がある。この国に平和をもたらすために。分かっているな?」
 手を止めて瑞貴は震える由玖斗を見据えた。
 「そう――」
 瑞貴の銃を持つ腕がゆっくりと上がる。銃口をぴたりと由玖斗の頭へ向けた。
 「お前には、最後の犠牲になってもらう」
 瑞貴の引き金に掛かった指がゆっくりと動く。
 由玖斗は地に着いた自分の手の甲を眺めていた。
 そして自らの考えを疑った時、少しは心が落ち着いた。
 和泰。
すまなかった。
 母さん・・・。
ごめん。
 萌鏡。
ごめんな・・・。
 暁珠・・・。
 暁珠・・・。
ごめんな・・・。


 引き金が微かにカチリと音を立てる。
 撃鉄が鋭く空気を切り裂き――


つづく

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