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thanatos #2

第一楽章
「紺碧の手垢=ストイケイア」

「青い春かぁ。昔の人も詩人だね」
「果たして春が青いのか、それとも春だから青いのか」
「どういう事だい、ユナ?」
「うん。例えば花弁にデルフィニジンを蓄積させられれば、伝説の青い薔薇が生まれるんだ。もちろん春を憂えた人間の手によってね」
「それがユナにとっての青春?」
「そう。サイにとっての青春は?」
「・・・空腹感、かなぁ」


   1.

――命篤15年――

 開戦より三年。同盟三国に対し、イギリス・アメリカの物資援助など後方支援はあるものの核心的な協力のない日本側は劣勢の極みにあった。
 その半年後、陸軍の足達少将を筆頭とする佐官グループが第7空挺師団と第16歩兵連隊、第5攻撃航空団を率いて首都を制圧した。この反乱軍は直ちに全世界に向けて人民革命連盟臨時政府樹立(以下「人革連」)を宣言。関東地域を支配下に置き、すぐに政府軍との衝突を始めた。
 同盟国側はこの内乱を期に一旦軍を引き、日本国内での相倒れを期待しながら高みの見物を決め込んだようだった。
 しばらくすると政府軍の指揮系統は乱れを修正しきれず、終には各地に点在する連隊などが任務を放棄し盗賊集団と化した。日本国内の勢力は政府軍と反乱軍のみならず、各地をイナゴのように食い潰し回る武装勢力や、政府軍の手の届かない都市が自治的な目的で武装するなどして、多くの勢力が割拠しその力は日に日に増すばかりであった。
 日本国政府はイギリスへ皇家を事実上の亡命をさせると同時に、軍を沖縄と北海道の南北政府軍へと分断させた。兼ねてより沖縄へ特設する予定になっていた少年兵団は、直接各地の戦地へと振り分けられることとなった。大村首相の内閣自体も南政府軍と共に沖縄へ退いた。政府は在日米軍基地である普天間(ふてんま)基地に守られる形で宜野湾(ぎのわん)市へと移った。これを人革連は逃亡と見なし、更に海外へ強調。彼らに旧政府軍のレッテルが貼られると各地の都市は更に自治的意識を高めていくのだった。
 そして海坂町の属する砂戸羽(さとば)市は、日本海に面する港を利用して独自の貿易ルートにより食料、武器、生活物資などを自給し、今や簡単には盗賊たちも手を出せないほどの都市勢力となっていた。
しかし――

 8月5日。じりじりとした日照りがひび割れたコンクリートを熱く焦がしていた。
 その上を裸足のまま悲鳴を上げながら住民が走り去って行く。しばらくすると銃声が近づいてきて数名の男達が手当たりしだい民家を襲っていく。逃げ惑う女の背中に男は肩から提げる機関銃を容赦なく浴びせる。
 海坂町の端から悲鳴と銃声が徐々に広がっていった。なだらかな山を背にした地区は守りが薄い。これまでにないほどの重装備をした盗賊集団が砂戸羽市に侵入したのは、その日の正午辺りであった。港からも襲撃を受け、都市境には常に目を光らせねばならない自治軍は救援に向かうも、さらに勢力を二分しなくてはならなくなり、満足な防衛が取れていなかった。老人は殺され男たちや少年は補給兵として強制的に徴兵され、女たちは野獣のような盗賊に捕らわれた。
 「萌鏡ちゃん、急いで!」
 買出しの荷物の入った大きな鞄を背負った暁珠は同じく鞄を背負う萌鏡の手を引いて、数人が同じように逃げ惑う方向へと路上を駆けていった。時折見える無残な死体を視界の外へ押しやりながら二人は必死に走る。
 しかし路地の角から急に現れた盗賊に進路を阻まれると、暁珠と萌鏡は息を呑んで立ち止まった。隣にいた男が叫びながら踵を返して逃げ出すと、盗賊は引き金に指をかけたまま、まだ熱い銃口を彼に向けた。暁珠はとっさに萌鏡の体を抱いて伏せた。次の瞬間、耳をつんざくような銃声が連続して響き、遠くで男の悲鳴が短く聞こえた。暁珠が盗賊の迫る気配に気付いて顔を上げると、その盗賊がにやりとして銃を背中へ回していた。髭面のその盗賊の半狂乱的な笑みに二人は心の底から恐怖を感じ、固く目を瞑った。
 男の手が暁珠の体に触れる寸前、近くで一発の銃声がまた轟いた。
顔に生暖かいものが数滴ほとばしるのが分かった。
そのすぐ後にどさっという重たいものが倒れる音。
恐る恐る萌鏡が目蓋を開くと、先ほどの髭面の男が米神から血を噴出しながら目の前で倒れていた。萌鏡は暁珠の後ろで彼女の腕にしがみ付いて震えたままであった。
 視界の端で空から兵士が地上へ降り立った。続いてパラシュートが地面にぐしゃりと落ちる。市街地戦使用の迷彩服を着て、重そうな機関銃を抱えたその兵士が暁珠に近寄る。その音に萌鏡の腕にいっそう力が加わるのを暁珠は感じた。しかし当の暁珠はその兵士を呆然と見上げたままだった。
 「か・・・和泰君・・・?」
 和泰は脇に挟んだ銃をセミオートからフルオートへ切り替えると軽く笑みを見せた。
 「大丈夫か、麻宮?」
 和泰は手を差し伸べるが暁珠は萌鏡にしがみ付かれたままだったので、すぐに立ち上がることが出来なかった。頭を暁珠の背に預けたまま無言のまま萌鏡は震えている。
 「萌鏡ちゃん、もう大丈夫」
 暁珠が声をかけるが萌鏡に反応はない。
 「萌鏡ちゃん、覚えてるか?ユキのダチの和泰だ。小学生の頃会ったことあるだろ?」
 和泰がしゃがんで優しく声をかける。その間にも周りには次々と空挺部隊の兵士たちが降り立つ。
 萌鏡は落ち着かない呼吸のままゆっくりと顔を持ち上げる。
 「もう大丈夫だからな」
 萌鏡は視点の定まらない目のままコクリと頷く。
和泰は二人を立ち上がらせると目付きを瞬時に鋭くさせ、9名の兵士を集めて二人を護衛しながら街を進んでいった。
 「お兄ちゃん・・・」
 常に暁珠の側を離れず張り付く萌鏡がそう呟くのに彼女は気付いた。
 「和泰君、ユキ君は・・・?」
 代わりに暁珠が尋ねると、和泰は銃を肩に乗せて構えたまま片手で何も無い上空を示した。暁珠が足元に注意しながら空を仰ぐ。地獄絵図のような地上とは打って変わって、抜けるような青空を大きな入道雲がのんびりと浮かんでいる。すると突然

ゴオォン!!

そこを一機の戦闘機が猛スピードで地を掠めていった。
暁珠と萌鏡がその轟音に驚いてびくっと体を震わせる。
そのすぐ後を

グワァンッ!!

もう一機青い機体が通り過ぎていった。
追いかけられていた戦闘機は遠くの方で一瞬赤い光を発すると破裂音と共に黒い煙を吐きながら墜落していった。
 「ユキは視力が良かったからな。それで航空部隊に入ったんだ」
 和泰が話す間も空では同じような青い戦闘機が何機か飛び交い、盗賊団の攻撃ヘリなどを次々に落としていく。
 「ユキから頼まれたんだ、お前らのこと。だから絶対に俺たちが安全なところへ無事に届ける」


 空では青い機体が黒い機体に追われていた。青い機体のコックピットでは警戒音がうるさく鳴り響き、狭い空間でパイロットが必死に体を捻りながら操縦桿を右へ左へ上へ下へと倒している。
 「・・・く・・・しつこいな・・・」
 ヘルメットのマスクの下からパイロットがくぐもった声で悪態をつく。
 ロックオンされたことを告げる喧しい警報音に切り替わる。
赤いランプが点滅した。
レーダーには後方から迫る一本の白いドットの線が真ん中に近づいてきていた。
パイロットは焦ることなく直ちに回避行動に移る。
しかしレーダーの白い線はそれでもしっかり中心を目指している。
操縦桿を左へ切り、機体をバンクさせて背面で飛ぶ。
ミサイルを発射した敵攻撃機はやや低空の後方で様子を伺っている。
再び操縦桿を倒す。
急上昇した機体は垂直に立って空へ上っていく。
太陽が眩しい。
それでいい。
エレベーターを僅かに上げる。
ラダーで微調整。
太陽の真ん中へ入った。
警報音が限界を告げる。
ミサイルがぎりぎりまで近づいた。
見計らってラダーペダルを蹴りながら機体を右へバンク。
熱感知型のミサイルは機体を逸れてそのまま上っていった。
今度は垂直降下で敵機を目指す。
慌てて敵機が機首を持ち上げた。
遅い。
 銃座の弾丸が一瞬煌めいて襲ってきた。
 エルロンをいっぱいに上げてバレルロール。
 目が回りそうなほど早い。
 狙いを定めてトリガーを引く。
 すぐに減速、フル・フラップ。
 敵機を掠めながら銃座のキャノピーが真っ赤に染まるのを見た。
 水平に戻った機体を左へバンク。
 相手はまだターンの途中だ。
 射程に入ったと同時にトリガーを引く、アップ。
 機関銃の弾は攻撃機の装甲をめちゃくちゃに破壊する。
 燃料タンクに火が着いて酷い爆発音と共に破裂した。

 N―16、通称「星牙(せいが)」の名を持つ戦闘機は、西岡飛行機によって大量生産される旧政府空軍の主力機であった。
その青い戦闘機がゆっくりと下降していく。地面に着陸する寸前に機首を若干上げながら、だだっ広い滑走路に足を下ろした。がくっと大きく衝撃が走り断続的な振動が続く。そのまましばらく走って誘導員の指示に従って機体を止めた。
 砂戸羽市の空軍基地の広大な滑走路には幾つもの爆撃の跡が残っており、パイロットたちはわずかに残された直線の上を寸文の狂い無く滑走する必要があった。
コックピットのキャノピーが自動でスライドすると、パイロットが一人出てきてコンクリートにスタッと着地した。マスクをがばっと取り去ると、いささか髪の伸びた由玖斗の顔がそこにはあった。由玖斗は空を仰ぎながら息を吐いた。海岸沿いの都市部からは黒い煙が点々と立ち昇っている。
由玖斗は少し不安な顔をすると滑走路を走って基地の平らな棟の方へと向かっていった。建物の前で待っているとすぐに7名の少年飛行兵が右隣へ並んでいった。その後に列の前方へ井澤大尉が立つ。
 「敬礼!」
 由玖斗が叫ぶと全員が一斉に敬礼する。それを見て井澤大尉も敬礼を返す。
 「直れ!」
 また一斉に腕が下ろされる。大尉は全員揃っていることを確認すると軽く安堵の表情を見せて頷いた。
 「報告します!永見一等空士、6機撃墜!」
 「久保一等空士、2機撃墜!」
 「藤堂一等空兵、1機撃墜!」
 「下平二等空士、1機撃墜!」
 大尉はそれを聞くと満足そうにまた頷いた。
 「ご苦労。今日はしっかり体を休めろ」
 大尉は以上だと言うように由玖斗へ目を向ける。
 「敬礼!」
 「直れ!」
 「駆け足!」
 少年たちは各々駆け出して棟のほうへ向かっていく。
 「永見!」
 急に大尉に呼ばれたので由玖斗は彼の下へ駆け戻っていった。
 「はいっ」
 「お前の故郷は確かこの町だったな?」
 「は、はっ・・・」
 「気になるんだろう?」
 「・・・いえ・・・」
 「馬鹿。こんなところで遠慮なんかしてどうする。街はほぼ我々が制圧したがまだ危険は拭いきれん。油断はするな」
 由玖斗は一瞬自分の耳を疑って大尉を見返した。
 「うちのエースパイロットに地上で死んでもらっては困るからな」
 そう言うと大尉は胸ポケットからタバコを取り出しながら棟のほうへと歩いていった。
 「あ、ありがとうございます!」
 とっさに由玖斗は深々と頭を下げ、それから急いで一旦棟の中へと走っていった。
 更衣室へ駆け込むと同僚たちが一瞬驚いた顔で由玖斗へ目をやる。由玖斗はお構いなしに着替えを始める。
 「6機かぁ・・・俺も一回そんだけ落としてみたいね。何か秘訣とか無いのかよ?」
 隣で着替えていた久保がパンツ一枚の姿で尋ねる。
 「あ、あぁ・・・悪いけど後にしてよ・・・」
 「どうしたんだ?そんなに慌てて・・・まさかっ、お前先に食堂行って皆の分まで平らげるつもりだろ!」
 「お前じゃあるまいし、由玖斗がそこまで食えるかよ。て言うか普通無理だろ」
 細長い顔をした少年が久保に突っ込みを入れる。
 「心配するな・・・ちょっと出てくるだけだから。じゃ」
 そう言うなり由玖斗は私服姿で更衣室を飛び出した。
廊下を走りながら拳銃の弾倉を確認し、腰下へそれをねじ込んだ。

 基地を出ると由玖斗は、取り合えず攻撃を受けなかった追坂町のある西へ走っていった。街のいたるところに砲弾の穴が開き、建造物の残骸が山のように積まれている。度々血を流して倒れている死体を見つけたが、由玖斗は仕方なくそこを足早に通り過ぎていった。
 まず向かったのは避難所となっている近くの小学校だった。しかしそこも爆撃を受けたらしく、大きな校舎が半壊の状態でようやく原形を留めている程度だった。非難している人の姿も無く、更に西へ西へと走っていく。路上では死んだ者を抱いて泣き叫ぶ者や呆然と瓦礫に寄りかかる者など、何人かの生き残った住民たちがぽつりぽつりといた。そこを駆け抜けていく由玖斗は申し訳ない気持ちでいっぱいになりながらも、自分の愛しい者たちの下へと急いでいった。


 追坂町にある市役所は避難所として開放されており、そこへ暁珠と萌鏡は送られていた。和泰は他の隊員を外で待たせたまま二人を中まで送っていった。
 「ありがとう、和泰君」
 暁珠が礼を言う。萌鏡は未だ軽く放心状態だった。
 「いや・・・。俺たちが来たところで、またこんなに犠牲者を出してしまった」
 「ううん。和泰君たちが助けてくれなかったら今頃私たち・・・。それに来てくれなかったらもっといっぱい犠牲になった人が出ていたはずだから」
 和泰は唇を噛み締めながら軽く頷いた。ちらりと廊下のほうへ目をやると、集まっている人々の顔を一人一人確認する少年の姿が目に入った。少年の服は他の人達のように汚れておらず、妙に目立っていたのですぐに注目できた。
 少年が困ったような顔でこちらへ目を向ける。
 「ユキ!こっちだ!」
 由玖斗は目を大きく見開いて和泰の方へ駆けてくる。
 「お兄ちゃん・・・」
 由玖斗の姿を目にした瞬間、それまで一言も口にしなかった萌鏡が急に立ち上がり兄の名前を呼びながら駆け寄っていった。
 「萌鏡!」
 由玖斗が妹の体をしっかりと抱くと、萌鏡は彼の体にしがみ付いて激しく咽び泣き出した。
 「萌鏡・・・悪かったな・・・怖い思いさせて・・・」
 由玖斗が萌鏡の頭を抱いていると、近くにいた暁珠もゆっくりとと近づいてきた。
 「ユキ君・・・」
 いつも呟いていた言葉がいざ本人を目の前にすると暁珠は急に目頭が熱くなり、自然にぽろぽろと涙を零していた。
 「暁珠・・・」
 暁珠は我慢できなくなり萌鏡と同じように由玖斗へ抱きついた。由玖斗も彼女をしっかりと抱いてやると暁珠は一層声を上げて泣き出した。
 「やれやれ、両手に花だな。ユキ」
 和泰がにっと笑って由玖斗に言う。
 「和泰・・・」
 由玖斗が何か言う前に、和泰は彼の横を通り過ぎていった。
 「あ、和泰!」
  由玖斗が呼び止めると和泰は足を止めて面倒くさそうに振り返る。
 「本当にありがとう。この恩は一生忘れない」
 和泰は一瞬また口元に笑みを浮かべた。
 「馬鹿やろ。そんなもん、面と向かって言うような仲じゃねえだろ」
 和泰はそう言うとまた廊下を歩いていった。
角を曲がる前に背中を向けたまま軽く手を上げていった。



   2.

 役所には数百人の住民が詰めかけていた。建物の中では重傷者へ手当てが施され、人々は暑い日照りを避けるためにそこへ押し寄せた。
由玖斗たちは人々の熱気で逆にむせ返りそうな役所内を避け、外へ出てその日陰に腰を下ろしていた。萌鏡は由玖斗の腕にしがみ付いたまま、泣き疲れたのか子供のように寝息を立てていた。
そこへ看護服姿の暁珠が入り口から出てきて左右を見回すのが見えた。すぐに二人を見つけると側へ寄ってくる。
砂戸羽市が都市勢力化して以来、市内での医療部の人員不足は深刻な問題となっており、その負担は中高生年代の少年少女たちに被せられていた。もちろん暁珠も例外ではなかった。
暁珠は由玖斗の隣へ来るとそこへ自分も腰をかけた。
「暁珠」
由玖斗は哀愁のこもる穏やかな瞳で、暮れゆく空を眺めながら彼女を呼ぶ。
「色々とありがとう」
「ううん・・・。私は私が出来ることをやっただけだから」
暁珠はそこで苦しい表情になると、ちらりと由玖斗へ目を向ける。
「ユキ君、話さないといけないことがあるの・・・」
その先が出てこない。暁珠は何度も口を開いては声を出す勇気がなく、目を泳がせて口をぱくぱくさせた。
「母さんのことだろ・・・?」
はっとして暁珠は顔を上げる。由玖斗の顔には別段嘆くような気配はない。
「やっぱり死んだんだね・・・?」
その問いに暁珠はすぐに答えることができず、苦しい表情で由玖斗から目を背けた。
「二人の様子見ていたら、何となく分かったよ・・・。暁珠は何も言わないし。暁珠が嘘吐けないのも知ってるしね」
「ユキ君・・・」
暁珠が震える声で応える。体も小刻みに震えているようだった。
「ユキ君、ごめんなさい!」
急に暁珠は由玖斗に頭を下げて謝った。由玖斗は少し驚いた表情でゆっくりと彼女へ顔を向ける。
「おばさんが亡くなったのは、私のせいなの・・・」
膝の上で指を交差させた暁珠の手が徐々に震えだす。息の上がったような声で暁珠はゆっくりと語りだした。
それは丁度一ヶ月ほど前のことだった。港町のある海坂町には海外からも多くの物資が輸入されてくる。十分に検査もされないままの輸入品と同時に流行病の病原菌までもが届けられた。小さな町にその輸入品が流通するのにそれほど時間はかからなかった。
萌鏡は無事だった。暁珠も無事だった。暁珠の家族も無事だった。
しかし母はその病に倒れた。病気にかかった者は町でも少なくはなかった。母親は日に日に体力を失い、酷い高熱にうなされる毎日が続いたそうだ。
「おばさんはずっとユキ君のことを呼んでた・・・。それまでもすぐに帰ってくることを信じてた・・・」
暁珠の握り締められた手の甲に涙の雫がぽたりと落ちる。
「薬も無いし、私どうしていいか分からなくって・・・。でも、もっと私がちゃんと看病してたら・・・」
おそらく薬はあったのだろう。しかし都市部への拡大を恐れて薬の確保を先決したのだろうと、由玖斗は心の中で思った。
母親はそのまま意識を取り戻すことなく逝った。最期に由玖斗と出会えた夢でも見たのか、嬉しそうな顔で彼と萌鏡の名を呼んでいたそうだ。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい、ユキ君・・・」
由玖斗は寄りかかっていた硬いコンクリートの壁に頭を預けて真っ赤な空を仰いだ。
長い息を吐く。
「俺が責めるとでも思った?」
暁珠は黙して涙を溢れさせながら俯いたままだった。
「誰のせいなんかでもないよ・・・。皆自分の大切な人を守ろうとして必死なんだ。誰も悪くなんかない・・・。俺が誰かを責めるなら俺自身だよ」
由玖斗は自分に寄りかかる妹の頭を優しく撫でてやった。
「最期の時に、俺は母さんの側にいてやれなかった・・・。こんなに悲しい時に、俺は萌鏡の側にいてやれなかった・・・」
由玖斗は萌鏡から暁珠へと視線を移す。
「だから俺は暁珠に感謝してるよ。俺の出来なかったこと、代わりに全部してくれて。本当にありがとう」
由玖斗はそう言うなり萌鏡の手をそっと解いて立ち上がる。
「何処に行くの?」
暁珠は涙を拭いながら咄嗟に尋ねる。
「・・・家に、帰りたいんだ・・・」
夕日を背にして由玖斗は微笑みながら答えた。
すると萌鏡がすぐに目を覚まし、立ち上がっている由玖斗の手を必死に掴む。
「いや・・・行っちゃいやっ・・・!どこにも行かないで!お願い!」
由玖斗はヒステリック気味に叫ぶ妹の前にそっとしゃがみ込む。
「萌鏡・・・ごめんな、色々と・・・。でもな、いつまでもこのままじゃ駄目なんだ」
 由玖斗の声にいささか厳しさが含まれる。
 「こんな時代なんだ・・・。今のこの世界を生きていくには自分一人で立てる強さがないといけないんだ。分かるよな?」
 しかし萌鏡は駄々をこねる子供のように泣きじゃくって、首を横に振りながら由玖斗の手を放さない。
 「萌鏡・・・」
 由玖斗が弱ったような声を出して暁珠を見やる。暁珠は萌鏡の背に覆いかぶさるように抱くと優しく彼女の手を解かす。それから由玖斗の顔を見やる。
 由玖斗は、今萌鏡が追坂町の外れにある暁珠の親戚の下で、暁珠の家族共々世話になっていることを知り、親戚の人に礼を言ってほしいと伝えた。そしてそのまま萌鏡のことは暁珠に任せ、自分はまだ煙の上がる街へと出ていった。

 幼い頃から見慣れた町。
しかしかつての姿とはかけ離れた光景。
由玖斗は変わり果てた故郷の姿を呆然と眺めながら足を進めていた。駄菓子屋の店は閉めきられ、子供たちの賑やかな笑い声はもう聞こえない。シャツ一枚の漁師のおじさんの姿も、もう見られない。夕暮れになると聞こえた「ゆうやけこやけ」の曲も、今はもう流れない。道にはべっとりと血の跡だけが残されていた。
 豹変した道に少し迷いそうになりながらも由玖斗は家にたどり着いた。
そこに家は無かった。
その辺り一体は火事があったのか、地面ごと焼けて真っ黒になっている。かつて我が家のあった場所には黒々とした炭の塊と化した木材が残されているのみであった。
 由玖斗は感情のない顔のままそこへ近寄った。
木炭を踏みつけると音もなく砕け散り、ふっと黒い粉が少しだけ巻き上がる。
由玖斗はしばらくその場所を見つめた。
 西の空に沈みきった日の残り火を喰らうように、東から恐ろしい闇が迫っている。生暖かい風が、さっと吹き渡って周りの茂みを騒がした。

体に気をつけて 何が何でも帰ってきなさい

本当に突然、止めどなく涙が溢れた。顎からぽたぽたと何滴も何滴も雫が落ちていく。こうなるともう自分ではどうすることも出来ない。その場へ力なく膝を突き、前のめりになる体に片手を突いて何とか支える。不意に声が漏れる。それを何とか抑えようと大きく息をしながら耐え忍ぶ。しかし視界に投影されるのはかつての母の姿だけだった。
 由玖斗はとうとう声を荒げて泣き出した。何もない場所で彼の叫び声は何処までも届くほどよく通った。
鍛え上げられた拳を力の限り地面へ打ち付ける。
硬く残った木片の痛みも無視して地面を殴り続けた。
皮膚が裂けて血が流れる。
それでも拳を止めることができない。

 がさっ。背後に気配を感じると同時に、由玖斗は物凄い形相で腰から拳銃を抜くと音の方へ素早く向ける。
 びくりとして暁珠が体を強張らせた。
由玖斗は酷く悲しそうな顔でゆっくりと銃口を下げると腰へ戻す。激しく息を切らし、その場へ尻餅つくと頭を垂れた。
暁珠はゆっくりと由玖斗に近づくと彼の小刻みに揺れる肩を優しく抱いた。由玖斗の押さえ込む泣き声を聞いている内に、暁珠自身も目頭が熱くなり始めた。
しばらくただそうしたままじっとしていた。


 異変にいち早く気付いたのはやはり由玖斗だった。
暁珠の腕を解いて立ち上がろうとする。その時、闇から放たれる無数のレーザーポインターの赤い点が自分たちの体を漂っているのに気付いた。
 夕闇の中から銃を構えた複数の兵士が姿を現すと、暁珠が短く悲鳴を上げた。
 「騒ぐな」
 兵士の一人が短く言う。
 背後の気配に振り返ったときには暁珠が既に一人に羽交い絞めにされていた。
 「暁珠!」
 背中に硬くて冷たい筒が突きつけられた。
 「黙って車に乗れ」
 由玖斗は暁珠を人質に取られ、仕方なく兵士たちの指示に従った。
 二人は手を後ろに縛られて目隠しをされると銃を突きつけられるままに歩かされ、停められていた73式中型トラックの荷台へ押し込まれた。
 荷台に兵士が何人か同乗し、トラックのエンジンがかかる。
がたがたの山道をトラックは由玖斗と暁珠の不安を乗せたまま走っていった。

 「はい。私が麻宮暁珠と永見萌鏡の二名を追坂町へ避難させたときには、永見一等空士の姿はありました」
 井澤大尉に呼び出された和泰は、日が暮れても帰ってこない由玖斗について知っていることを答えた。
 「麻宮暁珠の在所に連絡したところ、永見萌鏡を送った後何処かへ出て行ったとのことです」
 椅子に深々と座った大尉は肘掛に肘を突きながら、顎を擦り難しい顔をした。
 「その麻宮という女と永見が一緒にいる可能性はあるな。敗残兵の掃討も始めたばかりであったからな・・・。まぁ、あいつのことだ。そう簡単に殺されるようなことはないだろうが・・・」
 「早速こちらで捜索隊の配備を申請しましょう」
 「いや――」
 大尉の制止に和泰は怪訝な顔を向ける。
 「何も連絡がないことを考えると、やはり敵に拘束されている可能性が高い」
 「ではなおさら急いで救出しなければ――」
 「二人は砂戸羽市外へ運ばれているだろう。つまり他勢力の地へだ。我々はドンパチやりあった直後だ。怪我人の手当ても休養も、武器や装弾の確保も十分ではない。相手の大きさが分からないうちは下手に動かん方がいい」
 顔色も変えず葉巻を取り出して火をつける大尉の態度に、和泰はむっとして拳を握る。
 「まるで大石少佐のようですね」
 軍部違いとは言え上官にそのような口を利けば恐らく懲罰処分ものであるのに、大尉はそれを小さく笑っただけだった。
 「おいおい、自分の上官をとりあげてそれはないだろ?」
 大尉はふうと白い煙を口から吐くと遠い目をした。
 「なぁに、心配はない。俺に任せておけ」

 二時間ほどトラックに揺られてそろそろ腰が痛くなり始めた頃、ようやく振動が急に止んだ。隣の兵士が荷台から降りる気配がする。
 「降りろ」
 肩を銃口で突かれる。由玖斗は荷台から降りて草地の上を踏んだ。すると背後で暁珠の悲鳴が短く上がった。
 「暁珠――」
 咄嗟に口を開いた瞬間、腹に重たい衝撃が走り思わず膝を突く。
 「黙れ」
 耳元で一人が囁く。
 「大丈夫・・・。ちょっと転んだだけ・・・」
 暁珠が声を低くして応えてくれた。
 それからはまた背中に銃を突きつけられたまま何処かへと歩かされた。草の匂いが漂い、辺りでは虫の鳴き声が喧しく聞こえてくる。夏の湿気を含んだ空気がこの異様な状況を更に不快なものにさせる。
 しばらくすると虫の音がくぐもり、何か建物の中に入っていった。階段を下りて進まされるがままに歩いていくと、いきなり背中を蹴り飛ばされ床に叩きつけられた。背後で嘲るような笑い声が聞こえると、バタンッと戸の閉まる音が響く。ガチャリと鍵が閉められ足音は遠のいていった。
 「暁珠っ、暁珠!」
 「大丈夫。近くにいる・・・」
 由玖斗は一まず安堵の溜息をつく。
 「ちょっと待ってろ」
 由玖斗は後ろ手に縛られた縄を解こうと手首をよじるが、何重にも巻かれていていっこうに解けない。そこで腕の輪に無理やり足を通して手を体の前へ持ってきた。
目隠しを下げると、窓一つない土壁の小さな部屋に由玖斗はいた。部屋の中心から垂れるランプ一つの明かりに薄暗く周りが照らされ、隣に横たわったままの暁珠の姿があった。
時間はかかったが何とか口で縄を解くと、すぐに暁珠の目隠しを取ってやり縄を解いた。
「ここ・・・何処だろう・・・?」
暁珠が不安そうな声で呟く。
「見当はついてる。砂戸羽市と大垣市との境から南西へ12キロの辺りだろう・・・」
すると暁珠が驚いた表情で由玖斗を見やる。
「どうして分かるの?」
「訓練したから。体感速度と乗車時間、方向転換の角度を大体で計算・・・」
途中で言葉を切って由玖斗は壁に寄りかかると腰を下ろした。首の力を抜くと頭が後ろへ傾いて壁に当たった。
「ごめん・・・」
呟く。
暁珠がこちらをちらりと目を向ける。
「警戒不足だった。まだ完全な掃討もされていないのに勝手な行動に出て・・・。おまけに暁珠も巻き込んでしまって・・・」
暁珠は由玖斗の隣に座って沈黙を守った。
ランプの光は時折ジッジッといって点滅した。その度に訪れる一瞬の闇が恐怖を増幅させる。暁珠は膝を抱えて頭を垂れたまま動こうとしない。
しばらくすると遠くから二人の足音が近づいてきた。由玖斗が立ち上がると暁珠も顔を上げる。鍵が乱暴に開けられると戸が開き、どかどかと二人が入ってきて由玖斗を拘束した。
「黙って付いて来い」
兵士二人は由玖斗を連れて部屋を出て行った。
「ユキ君!」
暁珠の悲痛な叫びにも、それに応えるのは再び閉められる鍵の音だけだった。
兵士に連れられて由玖斗が入った部屋は先ほどより少し大きく、中心に机と椅子が置かれている。椅子には髪を短く刈り上げた男が一人座ってこちらをにたにたと眺めている。部屋の隅には何か沢山の電気部品の入った箱が無数に置かれている。
「座れ」
後ろの兵士に小突かれて由玖斗は警戒しながら男の向かいに腰掛けた。
「我々は陸軍第九師団第五普通科連隊及び第九通信大隊から成る、烈火隊。私は近藤と言う者だ。今から私の質問に正直に答えれば、二人とも無事に開放してやろう」
近藤と名乗る男が机の上で手を組んで言う。会話の間に兵士二人が由玖斗の体に何かコードの付いた装置を取り付けていく。
「俺は政府軍じゃない。ただの民間人だ」
「そうか。なら何故銃を持っていた?」
「今時銃なんか何処でも安く手に入るだろ?」
「ふむ。確かに・・・」
近藤はあからさまに由玖斗の言うことを信用していなかった。
「ベレッタM950・・・。金のない政府軍が使いそうな銃だ」
近藤は席を立って由玖斗から奪った12センチほどの小さな銃を手にする。
「シングルアクションじゃあ、もしもの一瞬を争う時は不利だな・・・?」
「俺は軍人じゃない」
近藤はつまらなそうな顔をして、由玖斗を連れてきた兵士の一人に合図する。すると兵士がコードのまとまる箱型の装置のレバーを一気に下ろした。
体全体に切り裂かれるような激痛が走る!
由玖斗は短く悲鳴を上げたものの、苦悶の表情のまま近藤を睨みつけた。
近藤がまた合図をすると痛みが一瞬にして消えた。由玖斗は肩で息をしながら頭を垂れた。
「嘘を言えば今のように電流が君の体を流れる。内側から焼き殺されたくなければ素直に質問に答えろ」
感情の無い目で由玖斗を見下ろしながら近藤がゆっくりと近くへ寄ってくる。
「まず所属部隊名と階級から教えてもらおうか?」
「俺は軍人じゃない」
しばらく由玖斗を凝視すると近藤はまた部下の方へちらりと視線を向ける。同時に由玖斗の体を再び激痛が襲う。
「っく・・・が、あぁっ・・・!」
耐え切れず悲鳴が口から漏れた。近藤はもだえ苦しむ由玖斗の声を耳にしながら、ポケットから取り出したライターの汚れをハンカチで拭き取る。それをまた戻しながら合図を送ると部下がスイッチを戻す。
何百キロも駆け抜けたような疲労感が由玖斗の体に伴い、額から冷や汗が噴出して頬を伝う。
「分かっていないようだな。私は君にチャンスを与えてやったんだぞ?」
視界の隅に入ってきた男の足元に目をやりながら、由玖斗はゆっくりと視線を上げてい。近藤と目が合った。
「何なら今すぐにでも女を使ってもいい」
近藤の表情が何か哀れなものを見下すようなものへと変わっていく。
口の端をいやらしく歪ませる。
そんな奴の顔を見ていると由玖斗は思わず吐き気を催した。
同時に胸の底から沸々と真っ赤な怒りが湧き起こる。
今まで感じたこともないような殺意に捕らわれる。
「暁珠に手を出してみろ・・・。貴様ら全員の頭を吹っ飛ばしてやる」
鋭く睨み返す由玖斗へ近藤は嘲りの笑みを見せた。
「それは楽しみだ。しかし今の君には我々を殺すどころかそこから一歩も動くことはできないのだよ」


 次に目が覚めたとき、そこはまだ同じ薄暗い部屋だった。拷問が続くうちにいつの間にか気を失っていたらしい。コードの巻きつけられた腕や足首には酷い火傷の痕が残っている。
 「お目覚めかね、永見一等空士?」
 由玖斗は重い首をゆっくりと持ち上げ、近藤を睨みつけた。
 「おいおい、そんな顔するなよ。あちらのお嬢ちゃんが親切に教えてくれたんだからな」
 「・・・ごめんね、ユキ君。脅されて・・・」
 由玖斗は濁った息をゆっくりと吐き出した。
 「この卑怯者が・・・。共に人革連を葬る使命を負いながら、仲間を裏切るなど・・・」
 由玖斗は歯を食いしばって怒りを静めようとする。
 「仲間ねぇ・・・」
 呟いた近藤の顔が次第に歪んでゆく。
 「我々が敵に包囲され、数百の犠牲を出しながらも何とか退避した後、孤立した我々を誰が助けに来た?」
 怒りに声が震えだす。
 「討伐隊によって更に数十がやられ、食料も不足しまた数十が倒れた。貴様に分かるか!」
 近藤がテーブルを力の限り両手で叩き一瞬跳ね上がらせる。
 「食料も無い、水も無い。極限状態の中で人間が何を成すか」
 近藤は血走った目で由玖斗をねめ回す。
 「死人を喰らうんだよ。殆ど皮だけの腐った肉を食い千切り、濃い血をすする・・・」
 近藤は狂ったように笑みを浮かべ、由玖斗に顔を近づける。
 「あんたも人間を食ったのか?」
 「ここにいる人間の殆どはそうやって生き延びたんだ」
 すると近藤は急に身体を起こし、一変してまともな素振りに戻る。胸ポケットからタバコとライターを取り出し静かに火を着ける。
 「俺たちは仲間を見捨てたりしない」
 口から煙を吐き近藤は目だけをちらりと由玖斗へ向ける。
 「俺たちは最後まで諦めたりしない。たとえそれが無駄だと分かっても」
 近藤は腹を抱えてはしたなく笑い出した。身体を屈しながらまだ長いままのタバコを擦り潰す。そして急に笑いを止めた。
 「つまらんねぇ・・・」
 近藤は辺りを行き来しながら頭を掻きむしる。
 「つまらんつまらんつまらんっ・・・つまらん!」
 叫びながら今度はそのテーブルを蹴り飛ばす。壁で粉砕した欠片が暁珠の近くまで飛び散り、短く彼女が悲鳴を上げた。
 「おい、八十島(やそじま)呼んでこい」
 近藤が言うとすぐに兵の一人が部屋を出ていった。そしてしばらくすると、口にピアスをした目付きの悪い男が一人入ってきた。
 「何すか、近藤さん?」
 「お前、まだ殺し足りないって言ってたな」
 八十島は首を曲げて鳴らしながら頷く。
 「おい。今からこいつと殺りあえ」
 由玖斗は視線を八十島へと移す。
 「近藤さん、こんな死にかけの奴殺ったって簡単すぎますよ」
 「ならゆっくりとなぶり殺してやれ」
 近藤は手荒に由玖斗にかけられていたコードを取り外して立たせた。
 「こんな事して何になる・・・」
 「お前の信じているものなんてくだらねぇって事を教えてやるよ。さぁ、やれ。どちらかが死ぬまで殺しあえ」
 近藤の促しに、八十島が腰からナイフを取り出し一本を由玖斗へ放り投げた。与えられたナイフを手にすると、八十島はゆらゆらと左右に揺れるようにしてナイフを構えた。
 不意に八十島の腕がぶれた!
かと思うと、下から伸び上がるような鋭い突きが由玖斗を襲う。
咄嗟に体を傾けるがナイフの刃が左肩を捕らえた。
痛みが走る。
追い払うようにナイフを持つ腕を薙ぐ。
しかし八十島は攻撃と同時に下がっており、その腕は宙を切るだけだった。八十島が血に濡れた刃を舌で拭う。
その後、二手三手と立て続けに八十島はナイフを繰り出し、その都度由玖斗の体に傷が作られていった。
由玖斗は酷い目眩と体力の消耗により、攻撃を避けるのだけで精一杯のようだった。そんな彼の死闘に思わず暁珠は両手に顔をうずめる。
八十島がにやりとする。
何のテクニックも使わず真正面から鋭く腕を伸ばした。
由玖斗はその一瞬にかけていた。
八十島の突きを受け入れるように体を脇へ僅かに逸らす。
開いた右脇で八十島の腕を挟みこんだ。
左手で頭を掴み、足を払いながら下へ押し込む。
体制を崩し倒れこむ八十島の腰から同時に拳銃を引き抜く。
八十島が地面へ背中から叩きつけられたと同時に、由玖斗は引き金に指をかけて銃口を彼に突き付けていた。あまりの一瞬の出来事に八十島の眼が大きく見開いたまま由玖斗を凝視している。部屋の中は時が止まったかのように無音となった。
短い沈黙を近藤の拍手の音が破る。
「大したものだ・・・。どうした?殺れよ」
八十島が驚愕の顔を近藤へ向けた。由玖斗も視線だけを彼へ向ける。
「言っただろ。どちらかが死ぬまで殺しあえ、と」
近藤は何の躊躇もなく平然と言い放った。
由玖斗はナイフを持つ手を八十島に突き付けて銃口は近藤へと向けた。
「おいおい、ここで私を殺してどうする。お前の立場が一層悪くなるだけだぞ?」
近藤は薄ら笑いを浮かべながら続ける。
「こいつは女を見つければレイプし子供を見つけても虫のように殺す。このままだとあのお嬢ちゃんもどうなるか分からないぞ?」
「こ、近藤さんっ・・・何言ってんすか・・・」
 八十島の顔からどんどん血の気が引いていく。
 「こいつを殺せば世の中も少しは安全になるんじゃないか?」
 近藤の血走った目玉が由玖斗を貫く。
 「あっ・・・止めてくれっ・・・」
 八十島の荒い息遣いが伝わってくる。
 「た、頼むっ・・・殺さないでくれ・・・!」
 その声は堪らなく虫唾の走るものだった。
由玖斗は近藤を睨みつけたまま、腕を水平に動かして銃口を八十島へ向けた。
 タンッ――
 頬を暖かいものが濡らす。乾いた音が狭い部屋に木霊する中、八十島の体が視界の端で崩れ落ちた。
 暁珠は呆然と由玖斗の背中を見つめていた。
由玖斗の腕がまた動く。
その瞬間、また銃声が轟き、由玖斗の腕から銃が弾き飛ばされた。由玖斗が短く声を漏らして膝をつき、血の流れる右手を押さえる。
 「さて。次は何を信じる?」
 冷たく硬い感触が由玖斗の額に感じられた。
 近藤の顔を見上げた瞬間だった。
彼の頭は文字通り吹き飛んだ。
 真っ赤な血しぶきを上げながら近藤が横へ飛ばされる。
 誰かが肩を叩いている。
瞳が物を映しても脳で捉えることができない。
一体何が起こった?
 「――キ・・・ユキ!」
 ようやく耳に音が戻ってきた。それと同時に目の前の顔が見えてきた。
 「か・・・ずや・・・」
 幾分厳しい顔の和泰が由玖斗の体を支えていた。
 「おう。まったく。手間のかかる野郎だぜ、お前は」
 和泰に抱えられながら由玖斗は立ち上がった。
 「大丈夫。少し貧血なだけだ・・・」
 由玖斗は頭を振ると部屋の隅にいる暁珠へと近づいた。暁珠の丸い目が赤く染まった由玖斗の顔を凝視する。助け起こそうと差し出された手に、暁珠の体が一瞬震えて後ろへ退いた。由玖斗は無言でゆっくりとその手を下ろした。
 「彼女、お願いします」
 近くにいたもう一人の仲間に言うと、由玖斗は暁珠に背を向けた。テーブルの残骸にまみれたベレッタを拾い上げながらスライドを引き、和泰と共に部屋を出る。何故だか、さっきよりも由玖斗の頭はずっと冴えていた。


 和泰の話によると捜索隊の派遣はさほど難しくはなかったそうだ。由玖斗たちが拉致される現場までも目撃されていた。
二人が拘束されていた大垣(おおがき)市には既に陸軍第九師団第二十一普通科連隊、第九特科連隊、第九戦車大隊、そして密輸入による戦闘機隊から成る「金剛」という強大な武装集団の勢力化であった。そこへ「烈火隊」の近藤たちが侵入していたのだ。「金剛」も他勢力との抗争中であった上、近藤らは政府軍との戦いで敗残した者たちであった事から、「金剛」もしばらくは放っておいたのだ。井澤大尉はそこへ目をつけ、「金剛」へ武器弾薬の売買を促し、さもなければ進軍すると半ば強引に持ちかけたのだ。「金剛」側も本気で政府軍が攻撃してくるとは思っていなかっただろうが、もし仮に攻撃を仕掛けてきたのなら、その戦いで負けることはないだろうが大打撃を受けるのは必定であった。現在抗争中の敵勢力がその好機を逃すはずもないであろう。結局「金剛」も求めに応じ大尉は極秘に武器を調達すると、由玖斗たちの救出と共に「烈火隊」を完全に排除したのだ。
夜も更け真っ黒な空からはパラパラと小雨が振り出していた。暁珠は政府軍のトラックで萌鏡の待つ役所へと送られた。由玖斗は車内で治療を受けながら、そのまま本部のある砂戸羽市空軍基地へと向かった。それまでの疲労がどっと溢れ、由玖斗は何も考える余力もないままトラックに揺られて暫しの睡眠をとった。
基地へ着いた由玖斗は大尉の割り当てられた自室へ直接来るよう伝えられた。重い足を引きずるようにして向かい、軽く身なりを整えてからノックする。
「入れ」
由玖斗は失礼します、と頭を下げながら部屋へと入った。精一杯平静を取り繕いながらきびきびとした足取りで大尉の座る椅子と机の前に立ち敬礼をする。大尉の背後にある窓ガラスを激しく雨粒が打っていた。
大尉は咥えていた葉巻から口を離すと煙をゆっくりと吐き出した。
「この大馬鹿者!」
開口一番大尉の罵声が由玖斗の身を芯から振動させる。
「貴様・・・。地上に降りたとき俺は何と言った」
「はっ。油断はするなと仰いました」
由玖斗は正面から目線を外さずに答えた。
「そうだろうが!」
大尉は両手で机を叩きながら立ち上がる。後ろに飛ばされた椅子がひっくり返って沈黙の部屋の中で音を立てた。
「百を越える敵に対し三十の奇襲作戦として、五名の犠牲はほぼ完全勝利と言っていいだろう、しかし貴様の為にその五名は命を失った」
「・・・はっ」
由玖斗は少し唇を噛んで視線を泳がせる。その頬を強烈な拳が襲った。由玖斗は殴り飛ばされて二三歩後ろへよろけた。すぐに体勢を立て直し直立不動に戻る。
 「いいか。貴様はエースだ。俺は貴様を担ぐつもりはない。これはただ戦果記録に基づいた結果だ。貴様の力は今必要とされている。」
 大尉は机を焦がしていた葉巻を灰皿で揉み消すと由玖斗の前へ立った。
「貴様の力で多くの人間を救うことが出来る。同時に多くの人間を殺すこともできる。今回貴様の軽率な行いが死ななくてよかった人間を五人も殺した。その事をもっとよく考えろ」
「・・・はっ」
由玖斗は涙声で短く答えた。熱い目頭を力の限り押し開く。
「もういい。行け」
由玖斗は敬礼すると踵を返し、逃げるように大尉の部屋から出て行った。そのまま宿舎へ帰る気がせず、由玖斗は土砂降りの中滑走路を横切って格納庫へと向かった。
水を吸った衣服が足枷のように重い足取りを更に重くする。激しいスコールは由玖斗の体を上から下までずぶ濡れにしていた。終に足を運ぶ気力さえ萎えてしまった。途端に両足から力が抜け、膝からコンクリートに崩れ落ちた。水の溜まった硬い地面にしぶきを上げながら両手を突く。体が震えた。もう涙なのか雨なのか分からない雫が由玖斗の顎から止めどなく滴る。締め付ける喉元から必死に緩やかな呼吸を装う。ここで自分が泣いていると自覚したくはなかった。
由玖斗の低い唸るような声は地面に叩きつけられた雨音によって掻き消され、誰一人それに気付く者などいなかった。

 次の日、まだ静かな役所で朝日を眺めていた暁珠の携帯電話が鳴った。画面は「ユキ君」の三文字を浮かべていた。酷く鈍い動きで暁珠は受話ボタンに指をかけながら携帯を耳元へ持っていく。まるでその短い時間の内に受信音が止むのを願うように。
 ボタンを押す。
電話の向こうから少し緊張した息遣いが感じられた。しかし何も言葉を発することはない。暁珠も一度軽く口を開けて、また閉じてしまった。
 しばらくの沈黙の間にも東の空を真赤に染め上げる日の光は、彼女のいる廊下を明るく照らし続ける。
 「暁珠」
 やっと聞こえたその声には疲労の色が隠しきれていなかった。
 「・・・なぁに?」
 意を決して口から出た声は微かに震えていた。
 「あと三十分後に発つことになった」
 「そう・・・」
 暁珠は何かもどかしい気持ちを抱えたまま、しかし言葉にならないその思いを声に出すことが出来ない。
 「また萌鏡の面倒頼む。おじさんたちにもよろしく伝えて」
 「うん・・・」
 「今度はいつ会えるか分からない。もしかしたら会える会えない以前に俺は・・・」
 「ん・・・」
 違うっ。
そんな事じゃない、私が言いたいのは。
私が伝えたいのは・・・。
 「だから・・・少しの間、俺のことは忘れてほしい」
 思わぬ展開に暁珠は言葉を失った。
 「暁珠には暁珠の今を精一杯に生きてほしいんだ。大丈夫。別に怒ってるからこんな事言ってるんじゃないよ」
 語尾に少しだけ優しさが混じっていた。
 「じゃあ・・・どうして・・・?」
 答えは分かっていた。
あの時、彼の手を避けてしまった時から。
 「暁珠と俺は・・・生きる世界が違うから。俺も俺の今を精一杯生きたい。このままだと俺は色んな人を不幸にしてしまう」
 くぐもった声が若干震えている。
 「私は・・・?私は、不幸になってもいいの?」
 暁珠の問いかけに由玖斗は答えることが出来なかった。
 「俺の事は忘れてくれ。でも・・・待っていてほしい。俺の我がままを聞いてくれるなら」
 暁珠は涙を溜めた瞳を朝日に向けたまま、何度も頷いた。
 ずるいよ。
 「うん・・・。待ってるよ。ずっと待ってるよ。ユキ君の列車を見送った時からずっと・・・ずっと・・・」
 受話器の向こうから震える息遣いが聞こえる。
 「じゃあ・・・また、いつか。暁珠・・・」
 「・・・うん。また、いつか。ユキ君・・・」
 少しの間名残惜しそうな沈黙の後、電話は切れた。
ツー、ツー、ツー―――
 由玖斗は通話時間と料金の画面が待ち受けに変わるまで携帯を眺めていた。待ち受けの中の由玖斗と暁珠は幸せそうで無邪気な笑顔を満面に、画面を覗き込む由玖徒を見つめ返していた。
 ふと、窓から差し込む朝日へ目を向けた。


つづく

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