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「masa英文法」 - what

英語学習の初期から付き合ってきた what 。
やり直し英語をする前の what の解釈は、単純に「何」である。

やり直し始めたあとは、
関係詞の what が出てきたあたりからボンヤリしてきた。

関係詞の which, what どちらを使えばいいの?
便利そうだから全部 what でも良いのかな?
いやいや which は省略できるから、もっと便利かな?

などと、使い方をハッキリ決められずにいたものだ。
長い付き合いのはずなのに、なぜかボンヤリしてきた what。
学習中に見かけるたびに、ちょっと気になる存在になっていた。

そんな中で、偶然、辞典で somewhat という語に出会った。
辞典で調べると、someの後に語をとって一体化した語は、
思っていた程には無く、10個程度しかなかった。

それなのに、そこに somewhat があるのだ!
somewhichは無いのに。

what について考察してみようと思ったのは、
そのようなキッカケだった。

調べてみると、独自用語も含めると
疑問詞, 感嘆詞, 関係詞, 代名詞, 代形詞, 代文詞, 代副詞
のように何にでも使えそうな語であることがわかった。
(例文を見て、自分でこのように使えそうと感じただけ)

そこで、出会った例文が次のようなものだ。
    What a beautiful day!

今までにも何度か見たことがある例文だ。
何てこともない例文だったはずなのだが、
考察を始めてから改めて見てみると
別の見え方が感じられるようになったのだ。

very でもない、so でもない、あ〜〜っ
  「(言葉にできない)素晴らしい1日」って言いたいのに!
その表現の仕方を思いつけない
 

そんな表現をするときのための、代用とする what ではないのか。
先の例文のwhat は感嘆詞であるが「代副詞」でもあると思ったのだ。

これが、masa英文法のwhat定義に導いてくれた。
私は、以下のように定義してみた。

what =「英語では言い表せない(表現できない)何か。」

        よくわからない、
        言葉が見つからない、
        敢えて言いたくない(嫌なものなど)、
        思わせぶりな、
        強調したい、

そのような「何か」であり、
名詞、形容詞、副詞、文(動詞含む)、
「代用」することができる1語、「(表現不可)代用詞」。

これによって、
関係詞の which, what の使い分けが次のように出来るようになったのだ。

この定義のwhatとして使えない時に、
whichを使う(関係詞の場合は省略になることが多いと思う)

わざわざ定義しなくても、もしかしたら感覚で理解して
使い分けできていた可能性もある。

だが、定義があることで、さらに考察が進められるのだ。
私にとっては、これが重要なことなのである。

考察を進めると、この定義から、私の疑問の1つだった
  関係詞のwhatが「なぜ不完全文にならないのか」が見えてくる。

   「よく分からない」を表現する方法だから、
       「明確な名詞」を代用修飾することが出来ないのだ

  だから、what自身が「何か」という名詞に成るしかなかったのである。
        「何かの」を表現する関係形容詞whatも同様である。


このように、自分の定義があることで「見える世界が変わる」のだ。
ネットや書籍の情報を見る場合でも同じことが言える。

自分の定義「xxxx英文法」を前提に、ネットや書籍の情報を見るから、
「定義を基準」にして「情報の要否が判断できる」ようになり、
無差別に情報を集める必要がなくなって学習効率がよくなるのである。

  あれっ?、こういう考え方もあるのか、
    だったら自分の定義も変えた方がいいかな。
  あっ!、こういう英文表現の仕方もあったのか、
    だったら自分の定義は間違えていた。見直しが必要だ。
  この情報は自分の定義とは違うけど、この考え方は面白いな。
    あっちの定義は、この考え方で見直してみようかな。
  この人の考え方は、自分の定義に近い考え方だな。
    この人の情報は、一通りチェックしておこう!
  この人は自分の定義に合わない考え方をしているな。
    この人の情報は、参考程度に眺めるだけにしておこう。

今まで何となく見ていた情報から、このような気づきを多く得て、
「xxxx英文法の定義」を進化&更新させやすい環境を得ることができる。

それはイコール、自分の英語力の向上につながる。

  「xxxx英文法の定義」とは、
    自分が実際に英語を使う際の定義
であるからだ。

定義というものは、曖昧ではあってもブレることはない。
ブレるのは自分の考えである。ブレた考えに至ったならば、
それは定義が合わなくなっていると考えられる。
定義を見直した方がよい。

だから、学習において「定義を基準」にできるのだ。
以上が、自分の定義を持つことをオススメする理由である。


ただ、これは英語学習に限った話ではないようだ。

この記事を書いていて、
どこかの書籍で「東大生のノート」を紹介していたのを思い出した。

その東大生のノートは、自分の教科書を作るかのように自分の考え方など
を記述していたのだ。まさしく学習の「基準となる自分の定義」である。

思えばノートには2種類の役割があったのだろう。
 ①得た情報を失くさないように「メモ」するため
 ②自分が学習で活用するための「基準を定義」するため

私の学生時代は、ほとんど①の方法でしかノートを使って
いなかったように思う。

  黒板の内容を写しとってメモするだけ。
  その「先生の定義」としてのメモ(ノート)を眺めるだけ。
  (試験については「先生の定義」として試験勉強で使った)

やり直し英語を始めて年齢を重ねていたのもあるが、
今は②の方法でノートを使って「基準となる自分の定義」をしている。

この差が、学習効果の差に現れているのではないかと推測している。

学校や塾などの先生とは、教えてくれる人というよりも、
「基準となる自分の定義」作りをサポートしてくれる存在なのだろう。

師事する自分から見た場合は「定義するための知識」を得るための存在だ。
言葉は悪いが、知識面での先生とは、ネットや書籍の発信者と違いはない。
だが、直接質問できて、先生の見解を聞かせてくれるありがたい存在である。
(一緒に悩んでくれて調べてくれたりする先生なら、とても得難い人なのだ)

学生時代に、もっと有用な情報をいろいろ引き出して、
自分の定義にしておけば良かったな、と思ったりしている。

とはいえ、今は「英語を実際に使えるようになりたい」という目的が
学習のモチベーションになっているが、学生の頃の「試験のため」では、
モチベーションに出来なかっただろうと思う。
遊びたいさかりに学習目的って、なかなか難しかったかもしれない。



⭐️「xxxx英文法」は、記事「xxxx英文法」についてを参照してください。

⭐️本記事は、プロフィール記事に述べた意図により紹介しているものです。
   記事は内容の正確性を提供するのではなく、
   考察のヒントとなる視点紹介が目的です。


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