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CHILDREN OF BODOM の真実

※"The secret of the Children of Bodom: Janne, Henkka and Jaska reveal what really happened" の翻訳記事です。COB にいったい何が起こったのか?中毒という病気の恐ろしさ、バンドにまつわるリアルで難しいお金の話、兄弟のようなメンバー間の愛憎。残された3人が、Alexi の家族のサポートも受けながら真摯に答えた非常に重要なインタビューだと思います。Alexi に対する敬意と、優しさと、やるせなさが痛いほど伝わってきますね…

CHILDREN OF BODOM は、Alexi Laiho が説明したような、あるいは一部のファンが推測したような理由で解散したのではない。Janne Wirman、Henkka Seppälä、Jaska Raatikainen がその証拠となるメールの会話を見せ、実際に何が起こったかを語りました。

「Alexi の死を聞いた瞬間、その場に倒れそうになった…」

「座ってと言われた瞬間、すぐにわかったよ…」

「私はそうなることを恐れていた。電話がかかってきたとき、私はただ彼の死を伝えないでくれと祈った。私はただ、そうなることを恐れていたんだ…」

Janne Wirman、Henkka 'Blacksmith' Seppälä、Jaska Raatikainen は、CHILDREN OF BODOM のキーボードプレーヤー、ベースプレーヤー、ドラマーで、かつてアルバムを累計250万枚近く売りあげたビッグバンドの一部でした。この言葉は、彼らの友人であり、バンド仲間であり、かつて争いもした Alexi Laiho(1979-2020)が2020年12月に死去したときの自分たちを振り返ったものです。

Alexi の死について、この3人が共同インタビューに応じるのは今回がはじめて。

「結局、バンド解散についてインタビューに答えたのは Alexi だけで、彼のバージョンは真実からはかけ離れていた」

「Alexi の死後、長い間喪に服していたが、今になってようやく "記録" を正すために歩み出したんだ」

「ファンには何が起こったのか知る権利がある」

解散の理由は、Alexi が語った "3人のメンバーが家庭の事情で国際的なツアーをやめたかったから" ではないと、残された3人は語ります。

「私たちはそのことについて、家族に対しても申し訳ないと思っていたんだ。彼らはいつも僕らの国際的なキャリアを支えてくれていたからね」

「終焉の究極の理由は、Alexi の薬物乱用で、それがバンド解散の1年後、最終的に彼が死亡したことにつながっている。死亡診断書には、肝臓の脂肪変性と膵臓の脂肪組織形成が記されている。また、彼の体内からはオピオイドが検出された」

「中毒は病気であり、その病気のせいで彼は私たちのビジネス・ベンチャーにおける活動の中で私たちの信頼を破壊したんだ。でも彼は多くのことを謝罪してくれたし、バンドが解散した後も一緒に仕事をしたんだ」

COB における中心的なカルテットは10代で結成され、バンドのデビューアルバムの後、バックアップギタリストだけが変わっていきました。最初は Alexander Kuoppala、次に Roope Latvala、最後に Daniel Freyberg。アルバムはフィンランド、ドイツ、日本など様々な国でトップ10入りを果たし、"Blooddrunk" はアメリカで22位を記録。商業的でないジャンルとみなされていたエクストリーム・メタルにとって大きな功績となりました。

Alexi は作詞・作曲家として印税でかなりの収入を得ていましたが、2003年にバンドのために有限責任会社 AA & Sewira Consulting Oy(以下、LLC)を設立し、ライブや商品などその他の収入はすべて折半することに落ち着きます。

「Alexi はバンドのことしか考えていなかった」と Jaska は言います。主要なツアーやマネージャーの交代は、多数決で民主的に決定されました。収入はうなぎ上りに増えていきます。LLCはバンドメンバーに最大8,000ユーロの月給を支払い、さらに数万ユーロを配当金として支払っていたのです。

Henkka は Alexi Laiho が「良くも悪くも地獄のような頑固者だった」と回想しています。Alexi は当初、自身の薬物乱用について大胆に語っていました。しかし、2008年、COB が SLIPKNOT のツアーのサポートアクトを務めた頃から、それは彼の音楽活動に深刻な打撃を与えるようになりました。2010年代初頭、Alexi は自分が過ちを犯したことを認め、もうツアー中に酒を飲むことはしないとバンドメンバーに約束します。
彼は数年間その約束を守り、2012年時点では他の薬物乱用も控えていました。

「シラフのときの Alexi は、本当にポジティブでハッピーだった」と Janne は振り返ります。

「彼は楽しくてリラックスしていて、コメディを見るのが好きだったよ。よくバスの中で『となりのサインフェルド』を観て、キャッキャと笑っていたんだ」

バンドは Roope Latvala が解雇された2015年に初めて乖離し始めました。

「Roope が職務、つまりリハーサルを行わないので Alexi がイライラし、口頭での警告、正式な警告、そして最終的には解雇という手法を取らざるを得なかった」

Roope 自身は、インタビューで、自分の解雇はまったくの驚きだったと強弁していますが。

その年、2015年、Alexi は創作力の絶頂にあり、ヘルシンキ・フェスティバルのために野心的な "100guitarsfromHEL" を考案していたところでした。

「それなのに、なぜ2016年に再び崩壊しはじめた (薬や酒にのめりこんだ) のか、不思議でならないんだよ」と、Janne はため息をつきます。

2017年に、Alexi は収入が減少していることを訴えました。"会社から身を引くことも考えた"と2017年12月4日に書いています。

Janne Wirmanは、ツアーが迫っているときに、LLC がバンドメンバー全員への給与の支払いを何度か滞らせたことがあったと振り返ります。「だけど、ツアーからの収入が入ったときに、すべての滞貨が支払われていたんだ」

残された3人は文書と数百通のメールを示しました。それによると、金融危機やストリーミングによるレコード売上の減少にもかかわらず、2016年と2017年にはLLCが年間平均約50万ユーロの収入をあげていたことがわかります。メンバーの月給は、売り上げが減少傾向にあるため、最初は5,000ユーロに、その後は4,500ユーロに減額されていたそうです。一方で、2016年には会社の業績が好調だったため、給料の数カ月分に相当するボーナスが支給されていました。しかし、その金額は Alexi にとって十分ではなかったのです。2018年6月5日、彼はメールで会社に対して辞表を提出しました。

"I have no choice but quit the fuckin band. U can post this to everyone" 「俺はもうこのクソバンドを辞めるしかねえ。公表すればいいだろ?」と Alexi はメールには書き、「破産した」とも付け加えました。

それは誇張でしょうが、他のバンド・メンバーはびくびくしていました。彼らは住宅ローンを抱えていて、LLC には、完成間近のアルバムを、受け取った前払い金と引き換えにレコード会社に納品するなどの契約上の約束もあったからです。

マネージャーが、Alexi にそのことを念押しすると、こう言われたそうです。「俺個人がやらなくなったら、みんなレコード会社から訴えられるってこと?いや、そんなことは前にもあったよ...つまり、メンバーには辞める人もいるんだ。もしそうなったら、俺はあいつらのために責任を取って刑務所に入るよ。あいつらは苦しむべきじゃないんだ」

バンドの不安はつのるばかりでした。Alexi は、第二の故郷であるオーストラリアにいる時はずっと「辞めたい」と思っていました。フィンランドにいる時は、「もうやめたい」と思いながら、「続けたい」とも思っていました。

「Alexi からのメッセージを見るたびに、心臓がバクバクするほどだったんだ…」と Henkka は振り返ります。

2018年7月7日、Alexi は事態を解決するためのメールを送りました。「俺は物事を未完成のままにしておきたくないし、特にツアーとツアーの間にだけ解放されたくもない。10年前と同じような大金を得られるとは思っていないし、俺は時々我慢できないほど衝動的なクソ野郎になることもあるし、特に精神的に疲れているときはすべてがクソになると簡単に爆発してしまう(俺はそれに取り組まなければならない)。だから、俺が言ったことの裏には、たしかに俺がどう感じているかという真実があるけれど、だからといって誰かを責めることを正当化するものは何もないんだよ」

2019年3月にアルバム "Hexed" がリリースされ、Alexi の40歳の誕生日にはジャーナリストのペトリ・シラスが編集した Alexi の自伝が出版されました。

「私たちはあえてこの本を読まなかったんだ。しかし、聞いたところでは、とてもよくまとまっていたそうた」と3人は言います。

2019年3月と4月のアメリカ・ツアーで Alexi は危険なほど体重が減り、ライブは約束より短い時間で終わらざるを得ませんでした。

ニューヨークで、彼らのマネージャーは Alexi の薬物乱用を議題にあげます。Alexi はリハビリを拒否しましたが、医師の診察を受けることには同意しました。糖尿病と診断され、処方された薬で多少は楽になりました。

Alexi は、もう一枚一緒にアルバムを作る用意があると言い、バンドは2、3年の "お別れツアー" を行って、コントロールされた形で解散させるという提案に「OK」と返答しました。

しかし、その話し合いの場に Alexi は来なかったのです。その結果、誤解と "fuck off" のメッセージの連鎖が起こりました。しかし、それらも結局は過去のものとなりました。

そして、2019年8月がやってきます。

あの夏の半ば、フィンランド特許登録庁は、Alexi の代理人から、Alexi に対する CHILDREN OF BODOM の名称登録に関する申請を受理しました。LLCの法律顧問は、8月にこのことに気づきました。Alexi がバンドのソングライターでありリーダーであるにもかかわらず、これはバンドのLLCが管理している名前とブランドを乗っ取ろうとする試みであると。

Alexi は、正式な信用失墜の通知とともに、"Children of Bodom" という名称の登録申請を、Alexi を含むバンドの中心メンバー4人が所有するLLCに1週間以内にサインするよう要求されました。そうでなければ、LLC との雇用契約を解除し、CHILDREN OF BODOM から解雇されることになると。

Alexi はこの文言に激怒しましたが、バンド名がLLCに帰属していることは認めました。

9月4日、彼は申請を取り消します。10枚のアルバムと22年間のバンド活動の歴史があるだけに、他のメンバーにとってもこれは深刻な問題でしたが、彼らも穏便に済ませました。

2019年10月のロシア・ツアーで Alexi は「2008年に戻ったようにボトルを空けていた」とトリオは振り返ります。彼のパフォーマンスは低下し、彼らのマネージャーは再び介入する必要がありました。Alexi はこう答えます。「俺は薬のせいで悪魔になったのか?みんなの前で俺に恥をかかせやがって。俺は病気になったんだぞ?」それから彼は、他のバンド・メンバーが使ったと思われる酩酊物質や薬を片っ端から挙げていきました。

「Alexi には、ギグの前に朝食から酒を飲むなんて普通にありえないって言ったし、ステージに上がる前にいつものようにギターでウォームアップもしないなんてと忠告した」と Jaska は回想します。Alexi は、家族の誰かが病気で、悲しいから酒を飲んでいるのだと言いました。

「それはわかるが、このライブを台無しにしているのは救いようがない。少し寝よう。また明日」と Jaska は Alexi に優しく言いました。

しかしその夜、Alexi は酔った勢いでバンドマネージャーや他のバンドメンバーに悪質なメールを送ってしまいます。その中の一通で、彼は Henkka と Janne をサンクトペテルブルグのコンサートの後、直ちに解雇すると宣言してしまうのです。

「Alexi のせいではなく、病気のせいだ」と Janne は結論づけました。

翌日、Alexi は謝罪し、ツアーの最後のコンサートのために飲酒を止めました。

「彼は2日間、手が震えていたけど、モスクワとサンクトペテルブルグのライブはうまくいった」

彼らはツアーの主催者にバンドが解散することを知らせました。Alexi は、CHILDREN OF BODOM の物語をこんな風に終わらせたくはなかったと反省していました。

12月に予定されていたフィンランドでのライブはどうなるのか、オーガナイザーはこう尋ねます。バンドの他のメンバーが Alexi と一緒に演奏するにはどうしたらいいのだろう?

彼らは、数年前からの Alexi の希望を満たすため、彼から LLC の権利を買い取ることにします。ツアー代は主催者から彼に直接支払われることになりました。「これによって、私たち3人は、LLCのビジネスを自由に続けることができるようになった」と Janne は言います。

Alexi には当然、自分の音楽の権利を持ち、演奏やレコードの売り上げに応じて、これまで通り印税が支払われる。売却したのは、バンド名と商品化権を持つLLCの持ち株です。

フィンランドでのライブを最後にバンドは解散するとの宣言が出されました。Alexi は休暇を取り、ツアー中ずっとシラフのままでした。彼はここにきて、Alexi Laiho にしかできないような演奏と絶叫をライブ中続けたのです。

それは、バンドの誰もが望んでいたよりも良い結末でした。

Alexi は解散後も音楽を作り続けたかったのですが、トリオによれば、彼の弁護士とLLCの法律顧問が合意さえすれば、"Children of Bodom" という名前を使う許可も彼は簡単に得ることができたのだといいます。しかし、そのような要請は来ませんでした。

「Alexi は賢いから、自分のバンドを BODOM AFTER MIDNIGHT と呼んでもいいかと尋ねてきたけど、我々はもちろん構わないと答えたよ」 そう Janne は言います。

2020年初頭、Alexi と Janne は心のこもったメッセージを交換し、パンデミック発生後は COB のフェイスマスクを考案し、Alexi がポーズをとって写真を撮ってくれたそうです。
「COB の新しいショップを立ち上げようとしたとき、Alexi には以前のようにいくつかの製品の4分の1のシェアで参加してもらった。彼は最期まで密接に関わってくれたんだ」と Henkka は言います。

Alexi と何十年も一緒に音楽を作る機会を持てたことを光栄に思うと、最後にトリオは強調します。彼らの関係は友情というよりも兄弟愛に近いものでした。だからこそ、バンドの終わりはとてもトラウマになるものでした。セラピーさえ必要でした。

現在、Henkka は政治学の学位を取得し、教職から音楽活動に戻り、Disco Ensemble や Lapko などの成功したミュージシャンを含む MOON SHOT というバンドで活動しています。現在、ヨーロッパツアーを計画中。

Jaska は、セカンドアルバムを制作中の MERCURY CIRCLE でプレイしています。

Janne はアールト大学で建築を学んでいます。

「そして、今もLLCのために働いている」と Janne は言います。「倉庫には、ファンが興味を持ちそうなものがいろいろとあるんだよね。CHILDREN OF BODOM の博物館兼バーを作るのが夢なんだ」

トリオは現在、Alexi の遺族と共同で、2022年10月にエスポー文化センターで展示される CHILDREN OF BODOM に関する写真展を編集しているところです。

「私たち家族は3人に全面的なサポートをしているの」と、Alexi の姉 Anna が遺族代表として語っています。

「Alexi を偲んで、ささやかな企画一緒にできるのは、心強いことよ」

Anna Laiho は、2020年秋に弟を救出するための最後の試みについて話すことに同意しました。彼女と Alexi のオーストラリア人の妻 Kerry、そして数人の親しい友人たちは、再び彼に専門家の助けを求めるよう話しましたが、Alexi は拒否しました。

「彼はいつも人を助けようとする、温かく思いやりのある人だったわ。でも、彼は自分の悪魔とは一人で戦いたかったの。彼は自分自身で選択したかったの。良くも悪くもね」


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