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対岸の火事は目には見えない

※このnoteは、米澤穂信(2015)『王とサーカス』(東京創元社)の内容に言及しつつ、それを踏まえた考察を文章にしたので、いわゆるネタバレを含むものでもあります、閲覧の際はご注意ください。こちらの書籍を読んだことのない方にも読めるような文章ですので、そちらに関してはご安心ください。

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「写真は、第一報は、それ自体だけで解釈されてしまう。いまわたしが戻って鎮圧の様子を撮れば、その写真はわたしの意思を離れて、残酷さを鑑賞するものに成り果てる。」

これは、『王とサーカス』において、主人公の記者が、ネパールでの暴動を取材しようとしていた時の描写である。
本作は、2001年に実際に起こったネパールでの王族殺人事件を題材に、主人公の記者、太刀洗万智(たちあらいまち)が遭遇する2つの事件とそれを取り巻く彼女の葛藤や様々な社会問題を取り上げたフィクションである。フィクションでありながら、僕はこれを読んだのち、自らのあらゆる側面に対してナイフを突き立てられた感覚に陥った。

本作の中心となるのは、実際にネパールで起きた王族殺人事件、そしてその直後に起きる変死体の事件である。フリーの記者、太刀洗万智は、この2つの事件を追いながら、自らに対して「報道とは何か?」「なぜわたしは知ろうとするのか?」「誰のために書くのか?」といった葛藤に直面する。
ネパール王族殺人事件、通称「ナラヤンヒティ王宮事件」については、インターネットで調べてもらえればわかるように、実際の事件の真相も、20年近くたった今も明らかにされていない。彼女が向き合う問題は、この2つの事件の発生を境に加速していく。

僕はこの本に偶然出会ったのではなく、もともと著者米澤穂信さんのファンであり、本作も、今までの米澤ワールドを期待した上で読もうと思っていた。代表作に『インシテミル』(2007)(文藝春秋)『氷菓』(2001)(角川書店)などがあり、いわゆるミステリー作家として有名な文筆家である。
ミステリーといえば、かの有名なコナン・ドイルやアガサ・クリスティ、現代日本作家では、東野圭吾や宮部みゆきといった方が挙げられるが、それらは「推理小説」や「サスペンス」という形で、広く扱われることが多い。物語の醍醐味は、作中に仕掛けられた謎解きや、どんでん返しだったりするパターンが定石ではあるが、僕も例に漏れず、本作ではこれらのような華麗な謎解きを期待していた。
しかし、僕はこの予想を完全に裏切られる形で本を閉じることになる。

冒頭の引用に戻ろう。本作のテーマとして強く提示されているものは「メディアとは何か?」である。

「写真は、第一報は、それ自体だけで解釈されてしまう。いまわたしが戻って鎮圧の様子を撮れば、その写真はわたしの意思を離れて、残酷さを鑑賞するものに成り果てる。」

王族殺人事件では、王と王妃、そしてその血族らが皇太子によって殺害されたという経緯がある。上記の文章は、その後情報をひた隠しにする政府の対応に不信感を持った市民が暴動を起こし、それに警察が鎮圧を始めたシーンである。主人公の太刀洗は、これを撮影しようともがくが、同時にこのような葛藤とも向き合う。「ウケそうな衝撃的な写真」、つまりこの場合だと、市民をいたぶる警察の姿を残した写真、人々はこれを見てどう思うか?という、いたってシンプルな問いである。このケースにおいて興味深いのは、これは日本人にとっては遠い遠い別世界で起きている事件であるということである。彼女は当然、日本人に向けて記事を書く。
「ネパール政府はこんなにひどいのか!」
「市民がかわいそう」
そう、思うに違いない。もちろん僕もそんな悲惨な状況を見たら、そう、思うに違いない。

彼女はこの前日、一人の軍人と会っていた。王族殺しの真相を知るかもしれぬ人間と直接会えるとあって、記者として昂奮していたのだろう。
しかし、そんな彼女を、彼はこう下した。

「タチアライ。お前はサーカスの座長だ。お前の書くものはサーカスの演し物だ。我々の王の死は、とっておきのメインイベントというわけだ」

この言葉には、僕もうろたえざるをえなかった。写真を撮るものとして、表現者として、この言葉は重くのしかかった。
彼の、国を守る誇り高き軍人としての、ネパール王の死を、関係のないよそ者への演しものにしたくないという覚悟たる所以であろう。
現代のジャーナリズムを強く殴りつける言葉である。そして、これは何も報道を生業にするものだけに投げられた言葉ではないということだ。
サーカスというのは、座長、演者、そして観客によって成り立つ世界である。
この言葉が批判するは、座長の脚本だけでなく、ハラハラドキドキのこのサーカスを眺め、楽しむ観客たちが損害を被らないことである。
つまり、王族殺しという、とんでもなくセンセーショナルでショッキングな出来事、これを報道すること。また、その暴動を鎮圧する非情な様子、これを報道すること。それらは、対岸にいる我々、つまり日本人からすれば痛くもかゆくもない出来事である。
いや、まず間違いなくこの出来事自体は痛切で、人が傷つき、命を落とすということは許されないことである。そんなことは僕もわかっている。
しかし、この報道を見た我々は何かをするであろうか?我々は「ひどいニュースだった」といって、この悲劇を、対岸の娯楽として消費してはいまいか、という問題意識である。

これまでの筆者が描写し、浮き彫りになった問題、そして僕が咀嚼したこれらの表現を見て、何か思い当たる節はないだろうか?
僕はピンときてしまった。
この本は、現代のSNSが孕む匿名性、またその攻撃性に対して皮肉を投げかけているのではないかという点である。
SNSの中にいれば、自らが脅かされず情報に近づくことができる。これはサーカスの観客と同じ構図である、海外の報道を見る我々である。
そして、SNSでは自己という存在が匿名性を保ったまま、自由に行き来することができる。悲劇を見て、「かわいそう」と言うことも「自己責任だ」とも言える。しかし、我々はそれで傷つくことはない、なぜなら対岸の火事だから。

物語はこのあと、新たな事件とともに急展開を迎えるのだが、その詳細については割愛する。しかし、太刀洗は、記者として、また一人の人間として、何度も裏切りにあう。ある軍人の、ネパールをサーカスにさせまいとする誇り、ある破戒僧による、ありがたい説教、ある少年の、その瞳に映る無邪気な心。
全てが真実であり、また全てが嘘だった。
一人の表現者として、僕もこの展開には心を痛めたが、同時にこれは、「「知」とは自らにとって何であるか」、そして「真実とは歪められ、それ自体の意味を失い出す」ということを示してもいた。

メディアによる誇張表現や印象操作、抑圧、隠蔽。これらは何も報道の世界だけではない。近所の噂話も、Twitterで見かけた痛烈な事件も、全部が全部真実になりうるし真実ではないのである。そして、それらを鵜呑みにして、「ひどい事件だ」
「考えさせられた」
と、人はまたTwitterに書き込むのである。
それを止めることはできない。そして、報道の必然性そのものに対して疑問を抱くことも、これはこれで難しい。「メディアはクソだ!」と一蹴したところで、この構造もサーカスの観客に他ならない。全て脚本通りなのだ。

大切なのは、「考えさせられた」で終わりにしてはいけないということだ。
考えさせられたのであれば、それから考え続けねばならないということである。自らにとっての隠された真実とは何か、信念はなんなのか、知を絞り出し、そして培い、向き合い続けるしかない。

太刀洗は作中で、このようにも言っている。

何を書くか決めることは、何を書かないのかを決めることでもある。

これは写真を撮るものとしても重要になってくる命題でもある。何かを写すということは、何かを写さないということだ。写真というのは、ありのままの対象物を写すという極めて自然主義的な装置に見えて、逆説的に撮影者の意図により、恣意的に対象が絞られているものである。つまり、ある一点からみれば、確かにその対象が存在することは真だが、それ以外のものが存在しないということは偽である。例えば壁を写したとして、しかしながらその奥に広がる世界は確かに写真にも写っているが、壁により、目には見えない。
一人のしがない写真屋さんとして、これは一生向き合うジレンマであり、矛盾であると思う。
何を撮り、何を撮らないのか、そしてその選択がどんな影響をもたらすのか。情熱的な愛を写したとして、その写真を見たものは「きっとこのカップルはずっとうまくいっている」と思わせてしまうのも、なかなかどうしてそれはそれで問題ではないのかと思う時も、たまにある。
逆に冒頭の引用のように、悲劇や悲惨な様子を撮影することは、ある意味で同情を誘うのにもってこいであり、これも真実を写しているとは言えない。

「写真は深く考えてやるものではない」というツッコミが入りそうだが、深く考えないからこそ我々はこのジレンマを打破することができないのだ。「知」を持たないこと、「知らなかった」ということそのものが罪なのではない。「考えさせられた」と言って、「知」を諦めてしまうことに問題の核があると、僕は思う。
と同時に、「知ること」によって傷つくものもある。先ほど言ったように、「知る」という行為によって、ひいては伝えるということによって、対象をサーカスにしてしまうのではないかという点である。
でも、だからこそ、「知」を諦めてはいけないのだ。
答えのない問題である、最適解も今は最適かはわからない。しかし、この問題により上位の解をあてがっていくためには、パズルを完成形に近づけていくには、やはり知を獲得し、そしてそれを伝え広めていかなくてはならないのも事実である。

SNSには今日も、多くの写真、文章、動画が投稿される。
「ひどい事件だ」
「動画を載せるなんて不謹慎だ」
「メディアは卑劣だ」
そんな文章とともに、今日も悲劇は消費され、対岸にいる我々は心を痛めつつ、その火事に巻き込まれることはない。

SNSを使うなと言っているんじゃあない、メディアを否定するなと言っているんじゃあない。僕が言いたいのは一つだけだ。

「君は、本当にそれを見たのか?見ていないのなら、本当に考えたのか?」

この本は、僕の家の本棚で埃をかぶっていて、小説を読むこと自体が減っていたため、正直このまま一度とてページがめくられることはないだろうと思っていた。
本とは不思議なものだ、これは確信をもって言えることだが、本とは、本当に必要な本には、出会うべくして出会うものだと思っている。
このタイミングでこの本に出会えたことは、僕にとって非常に大きかった。
写真を撮りながら、SNSを日々眺めながら、また文章を連ねながら、僕にとって「真実」とは何かということについて、改めて「考えさせられた」本だった。

もしかすると、著者も我々読者に対して、この本を読了したのち、このように「考えさせる」ことを皮肉っているのかもしれない。なぜなら小説とは、明らかに別世界の、我々からすれば全く痛くもかゆくもない悲劇であり、喜劇であるのだから。

そして僕自身も、こんな読書感想文を書いておきながら、これを読んだ人々に対して、何か意味ありげなことを伝えたかったように見えて、実は何をも伝えたくはなかったのかもしれない。言葉にすれば、それらはひとりでに意味とポジションを持ち、そして何かを傷つけてしまう。
「知る」とは、リスクのある行いだ。



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