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(その1)論理性序論。(説明の本質に対する若干の考察)

 論理においてまず重要なのは、「個々の事象を根幹から理解した上で、それらは何において、何をもってそれらと関連しているのか明確に把握すること」だと思う。というのも、実のところ全ての事象というのには必ず、「ある共通の何かしらの前提があって、そしてそれこそが一つの事象から演繹的(えんえきてき)に次の論へと移行して最終的に論全体を構築するから」である。つまり、まずそういった「論理の根底を成し、そしてなおかつ論理を可能にするそれ」を把握することから論理は始めなくてはいけないのである。(まあ、何事においてもそうである)論理性においてはまず、「万物共通の事情を認識する」ことから始めなくてはいけないのである。(まあ、ここに純粋認識や経験的認識や、唯物論や実在論を織り交ぜて、そもそも論理を成す、いや万物を成すそれらを考察することはしないで、ここではそれらを毅然(きぜん)とした態度で無視して、論理はなにはともあれ人間の理性で為しうる知的活動であると、ここで断じておく)
 元来論理は完成されたものとして存在してるのか、それとも構築されてなおかつ主観的にも客観的にも完成されたものとして出来上がるのか。完璧とまではいかなくとも十分な説明はどこまで可能なのだろうか。(というのも、人間の理解力には絶対限界があってそしてそれというのは、客観的視点から論理を組み立てることをしなくては他人に説明をして納得させることは無理だからである)教師の説明はなぜ理解されたのか。それは恐らく、「普遍性」を立証したからだろう。つまり教師はその生徒の中から「教師自身が理解していてなおかつその生徒も理解していることを理解できるように説明したことで、結果的にその生徒の中から普遍性を引き出せた」とうことに過ぎないだろう。つまり論理上でまず一つ必要なのは、「相手が何を知っていて理解できるのか」を知ることである。とりあえずここでは、それしか言わない。

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