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『ネオンサイン』

いつの間にか西口の方まで歩いていた。
3次会に誘われていた。
歌舞伎町の雑踏の中を、友人は10人ほどの仲間を引き連れて歩いていた。
時々誰かが奇声をあげた。
少し離れて歩きながら、気づかれないように駅に向かった。

夜になるとパーカーだけでは肌寒い季節だった。
肩をすぼめて歩いていても、不思議ではない。
自分でも、寒さからなのか、惨めさからなのか、わからなくなっていた。
それに酔っていた。

金曜の夜で、タクシーはなかなかつかまらなかった。
タクシー乗り場には長い列ができていた。
そこには並ばずに歩きだす。
しばらく歩き続けていると、運よくコンビニの角からタクシーが曲がってきた。

郊外の駅名を告げる。
「甲州街道から行ってください」
行き先までの道路も伝えた方が、田舎者と思われなくていいぞ。
上京した時の先輩のアドバイスをなぜか守っている。

ゆるめの暖房が心地よい。

「今日はご友人とですか」
走りだすと運転手は聞いてきた。
顔は見えないが、50歳を過ぎたあたりか。
「まあ、そうです」
「けっこう、飲まれましたね」
自分ではそこまでとは思っていなかった。
「気分が悪くなったら、言ってくださいね」

「友人が演劇を学生のころからやっていて…今日は彼の劇団の講演の打ち上げだったんですよ」
「そうですか。演劇なんてなかなか敷居が高くて見ることはないですねえ」
「いや、演劇といっても、大したものじゃないですよ。子供の学芸会に毛の生えたようなもんです」
「でも、学生時代から続けてらっしゃるのはすごいことですよ」

確かにすごいことだ。
それに学芸会どころか、客席には見たことのある俳優も何人か座っていた。
あいつは夢に着実に近づいている。
最初の頃は頼まれて脚本を書いていたが、次第に頼まれなくなった。
「お前は、自分の小説に集中しろよ」

「お客さんは、やられないんですか。その、演劇を」
「いや、僕は小説の方で」
「作家ですね」
「いや、僕はまだまだ素人ですから」

あいつはよく言っていた。
「俺は演劇で、お前は文学で、2人で日本を変えようぜ」
いつの頃からか、あいつの横顔が後ろ姿に変わり始めた。
今ではどれがあいつの後ろ姿なのかもわからなくなっている。

「実際、作家の方も時々乗せることがありますよ」
「そうですか」
「お客さんも早く有名になってくださいよ」
「アルバイトをしながらなので、なかなかです」

そうだ。
故郷を出てくる時には、小説家として成功したいと考えていた。
今では、ただ有名になりたかっただけではなかったかと疑っている。
心の底から表現したいものなど、自分にあったのだろうか。
自分ではわかっている。何もかも。
もうこの身体からはどんな言葉も出てこないのだ。

人生は使い切りだ。

タクシーは都心を抜け出して順調に走り続けている。

俺はあいつのように情熱をかたむけたことなどあっただろうか。

俺に情熱などあったのか。
問いかけなくても、わかっている。

わかっているはずだ。

タクシーはゆっくり走るトラックを追い越した。このあたりは建物が途切れて少し暗くなっている。

「あきらめようと思っているんです」
ふとつぶやいていた。
確かに酔っていた。タクシーの運転手にこんなことを話しだすなんて。
「あきらめて故郷に帰ろうと思うんです」
方向指示器の音がセリフの後の3点リーダーのように車内に浮かぶ。
運転手は、車線変更しながら答えた。
「そうですか。そんな時ってありますよねえ」

どこか別の道路からサイレン。
自分の書いた言葉が深夜にタクシーに乗って訪ねてくる。
そんな夢を見たことを思い出した。

「私たちもね、あきらめて早めに車庫に帰るでしょ」
運転手はチラッとルームミラーを見た。
「それで、後から帰ってきたやつが最後に遠くに行ってたりすると、後悔するんですよ。ねばったからといって、その客が自分にあたるとも限らないのに。あるんですよ、そんなときが」

見慣れた建物が出てきた。目的地に近づいている。
このあたりから道路は線路と並行する。
停車する場所を伝えた。

「例えばあのネオンサイン、見えますか」
運転手が通りの向こうを指差す。
「あの、ネバーギブアップって書いてある赤いネオンサイン」
確かに、何の看板かはわからないが、Never Give upと読める。
「あんなネオンサインを見て、ああ、もう少し頑張らなきゃって思うんですよ、私なんか」

タクシーは静かに停車した。

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