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『ボクサーの帰国』

空港に降り立った時には肌寒いなと思った。
あの国も寒かったが、こちらもこの日は同じだった。
トレーナーと2人でタラップを降りる。
出迎えは誰もいない。
出発する時には、ロビーに入りきれないほどの人が集まっていたのに。
「静かだな」
トレーナーは黙って頷いた。
「どうする」
「ジムに行く」
トレーナーは笑顔を忘れてきたようだ。

彼女の姿はない。
何度も視線だけで探した。いることよりも、いないことを確認するように。
俺は休みたいと言いたかったが言えなかった。
人気のない通路に、2人の足音とスーツケースを引きずる音だけが響く。
こちらに駆け寄ろうとした少年を母親が引き留めていた。

タクシーに乗るとトレーナーはジムの場所を告げた。
少し眠りたいと思った。
それでもまた試合のことが浮かんできた。
飛行機の中でも同じだった。

身長でもリーチでも俺の方が優っていた。
相手はサウスポーのハードパンチャー。
難しい相手ではなかった。
こちらは初の挑戦だが、相手も初の防衛戦だった。
打って離れる、いつものアウトボクシングで勝てるはずだった。
俺のフットワークについてこれない。

どうして打ち合った。
トレーナーは何度も聞いてきた。
わからない。
ボクサーだからとしか答えようがない。
とにかく俺は打ち合った。

1度目のダウン。
俺は親父のことを考えていた。毎日、テレビの前に陣取って酔っ払っていた親父のことを。
ケンカに負けて帰ると、いつも殴られた。お袋も俺をかばって殴られた。
お袋が近くの農場を手伝ってもらうわずかな収入が全てだった。
そのほとんどは、親父の酒とギャンプルに消えていく。

14歳になった時、親父に殴られながら、勝てると思った。
だから、俺は殴った。
それ以来、親父の姿は見ていない。
いや、出発する時に俺を見送りに来た空港の群衆の中に見たような気はする。
だからどうということはない。

殴れば人生を変えられる。
そう気づかせてくれたのは親父かもしれないが。
その親父が突然、遠くの方で「立てっ」と叫んだ。

タクシーは乗り心地など考えていそうにない運転だった。
ラジオを消してくれと言ったが、運転手は無視して走り続けた。
助手席に座ったトレーナーが消してくれた。

2度目のダウン。
俺は町の公会堂に設置された小さなリングに立っていた。
子供同士のボクシングでも、勝てば、小遣い程度の金がもらえた。
負けたことはなかった。俺の写真が載った記事をお袋は今でも持っているはずだ。

本格的にボクシングを始めた。
練習は苦しかったが、それ以上に自分が成長することの方が楽しかった。
俺はリーチと得意のフットワークを活かした戦法を身につけた。
打っては離れ、相手のパンチを上体を揺らして外しながら、チャンスには一気にノックアウトする。
戦うたびにランキングは上がっていった。

2年間の兵役中も毎日ボクシングをやっていた。
俺のファンだという上官のおかげだ。
国を出る時、上官は静かに言った。
「軍事命令だ。勝ってこい」

タクシーがどこを走っているのか、分からなかった。
知っているはずなのに、よそよそしい風景が流れていく。
窓を開けたが、土埃がひどかったのですぐに閉めた。

3度目のダウン。
夜の公園で彼女は俺に聞いた。
「チャンピオンになったらどうする」
俺は言った。
「チャンピオンになったら、結婚しよう。大きな家を建てるよ。車も買おう。映画に出てくるヨーロッパのやつだ。子供をいっぱい乗せて突っ走ろう」
「チャンピオンにならなくても、帰ったら結婚しましょう。でも、あなたは負けないわ」

気がつくと俺はレフリーとトレーナーに抱えられてコーナーに戻るところだった。
コーナーで冷たいタオルを顔に押し付けられて、俺は理解した。
全てが、はっきりは知らないが、人生というような奴とか、そんな全てが俺と一緒にマットの下に落っこちていったのを。
この身体にはもう何も残っていないのを。
それでも、空港に着いた時には彼女の姿を探していた。

タクシーは町の古い教会の前で止まった。
トレーナーが振り向いた。
「降りろ」
言われるままにタクシーを降りる。

教会の階段に彼女が立っていた。
どう見ても、誰かのお下がりとしか思えない古いウエディングドレスを着ていた。
こちらを見て、笑っている。

「終わったら、ジムに来い」
トレーナーはそう言うとタクシーを出発させた。
タクシーの立てる土埃を見つめていた。
いつの間にか、彼女が隣にいた。

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