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『夜と桜と指輪と彼と』

あろうことか、彼は一度出しかけた指輪を引っ込めてしまったのだ。
付き合いは長いから、大体わかっていた。
お互いにそろそろかなという雰囲気はあった。
彼が、あらたまって予定を聞いてきた時からわかっていた。
そんなことは、今までなかったから。
だから、私も覚悟は決めていた。
彼に恥をかかせるつもりはなかった。
それが、あろうことか…

私が高校2年の時に、彼は新入部員として入ってきた。
私は、野球部のマネージャーだった。
彼は、私立のそこそこの学校に、野球の特待生として進学するはずだった。
しかし、直前になって、自信がないと断ったらしい。
それで、公立のこの何の特色もない高校に入学してきた。

野球部では、先輩たちがソワソワしていた。
そこそこの私立の野球部にスカウトされた投手が入ってくるのだ。
3年生のエースは、急に無口になったりした。
しかし、1週間後の紅白戦で、そのソワソワはため息に変わった。

その日初めて本格的に投球練習をした彼は、キャッチャーのミットを何度も弾き飛ばした。
そして、紅白戦の最終回、彼がマウンドに上がった。
どこからともなく、おおーという声が聞こえてきそうだった。
しかし…
顔面蒼白という言葉を知ってはいた。
それが、ああいう顔だとその時に初めて理解した。
彼の投げた球は、バックネットを直撃し、カーブは曲がるどころか、バッターの背中のはるか後ろを通過した。
つまり、彼はノミの心臓だったのだ。
いや、ノミの方がもう少し上手く立ち回るだろうと思われた。
名もなき公立高校の野球部に降って湧いた春の夢は、わずか1週間で散り果ててしまった。

私は、卒業後、教師を目指して大学に進学した。
卒業式の前の日に、彼に呼び出された。
駅前で待ち合わせした。
喫茶店に誘おうともせずに、彼はいきなり言った。
「先輩が好きです」
こいつ、ノミの心臓の癖にと思った。
勇気を出すところが違うだろ。
そして、いきなり、
「ずっと、先輩とキスしたかったんです」
と言い出した時には、こいつは、多分人生で力の入れどころを間違えるやつだと思った。
もちろん、彼の恋は、はかなく終わった。

しかし、力の入れどころを間違えるやつも、たまにはまぐれ当たりすることがある。
私が、大学の3年の時に、偶然再会した。
彼は、高校を卒業後、運送会社の事務職として働いていた。
ちょうど私が教職の道に進むべきか迷っている時だった。
居酒屋で、酎ハイを飲みながら彼は言った。
「僕なんか、結局エースにもなれなかったし、先輩とも付き合えなかったし、キスもできなかったじゃないですか」
ですか?じゃないよと思ったが黙っていた。
「で、今の僕の楽しみって、休みの日に会社の仲間とやる草野球くらいですよ。あれなら、僕も緊張せずに投げられる。それに、そこそこの活躍もできるんです」
「よかったじゃない」
「ええ、そうですよ」と酎ハイをひと口。
「だけど、それだけなんです。別に今の仕事は、憧れて、夢見てついた仕事じゃないです。僕の夢なんて、今度の試合では完封できるかなとか、そんなことですよ、しかも、ただの草野球で。でもね」
彼はまた酎ハイを飲んだ。
「でもね先輩には夢があって、しかも手が届く夢じゃないですか。叶えようと思えば、叶えられる夢じゃないですか。だったら、叶えてから考えればって、僕なんかは思うわけです」
彼が、酎ハイのグラスにまた手を伸ばしたので、私は言った。
「さっきから飲んでるそれ、私のグラスだよ」

それから、私たちは時々会うようになった。
私は、大学を卒業すると、2年間、塾の講師をしていた。
今は中学校で国語を教えている。
彼は、同じ会社で働き続けて、肩書きもついてきた。
ある時から、彼が私にタメ口で話す、そんな関係になった。
タメ口を完全に受け入れた訳ではなないが、それまで敬語を使い続けたことは認めてやっている。

そして、今日だ。

私が店に着いた時には、彼は既に飲み始めていた。
これはやけ酒の飲み方だとすぐに気づいた。
完全に彼の愚痴に付き合う形になった。
今日、会社を辞めてきたといきなり切り出した。
上司と喧嘩して、辞表を叩きつけてきたらしい。
「その時に、私の顔は思い出さなかった?」
「ごめん」としか言わない。
こんな日にこんなことをしでかすとは、未だに力の入れどころがわからないのか。
「こんな日」というのは、この段階では私の想像でしかなかったが。
少し、沈黙が続いた後、
「この指輪」と言って、ネイビーブルーのケースを取り出した。
私もつい、手を伸ばしてしまった。一生の不覚だ。
こんな状況ではあるが、ついに来たかと思ったのだ。
「こんな日」という予感は当たっていたと。
しかし、私の顔も見ずに、彼はそれを引っ込めた。
あろうことか。
「次の仕事が決まってからにするよ」

太っているわけではないが、酔いつぶれた男の体は重かった。
何とか、近くの公園まで引きずっていくと、ベンチに仰向けに寝かせた。
「さてと」
私は声に出して呟くと、彼の上に馬乗りになった。
「おい」
彼の胸ぐらを両手でつかんだ。
「ヒャい」
返事ともしゃっくりともつかない声を出した。
「おい」
もう一度声をかけた。
うっすらと目があく。
「助けてほしい?」
「ヒャい」
「支えてほしい?」
「ヒャい」
「じゃあ、その指輪を渡しなさい」
「え?」
「え、じゃないだろう。叶えられる夢は叶えなさい。さ、早く渡しなさい」
「あ、ヒャい」
彼は、指輪を差し出した。
私は、その時初めて気がついた。
こんな小さな公園の、ライトアップもされていない桜でも、同じようにきれいなんだと。
そして、考えた。彼の上に馬乗りになったままで。
さて、今夜はこれからどうすればいいだろうか。





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