希死念慮と自殺願望と殺害願望について、調べて整理して考えた

今日は希死念慮とか自殺願望とかについて話しつつ、私の中の殺意について話したいと思います。

きっかけは、知り合いに「毎日隙あらば死のうとする。でも直前で体が動かなくなって死ねない」という相談を受けたからです。

毎日希死念慮や隙あらば死のうとするなんて閉鎖病棟入院レベルだと思っていた私はびっくりして、「普通の人はそんなに希死念慮が毎日あるわけじゃないと思います」と断言したんです。

ところが、セルフスキーマ療法のグループラインで聞いてみたら、毎日希死念慮があるという人が結構いて、びっくりしました。希死念慮にもいろいろなレベルがあると思いますが、今日は「自死」をテーマにしつつ、私の中の「殺意」にも焦点を当ててゆるりと考えたいと思いました。

1.希死念慮と自殺願望と自殺企図と自殺未遂のちがい

タイトルの通りなんですが、自殺に関する言葉ってたくさんあって、正直私はあまり使い分けができていません。この中に分類されない自殺に関する現象があるんじゃないかとも思っています。とりあえず、順番に意味を確認して行こうと思います。

希死念慮
希死念慮とは、自らの死を願う気持ちであり、その程度の強弱は幅広い。「ずっと眠りたい」、「消えたい」など消極的に死を意識する心理状態も含まれる。逆に、程度が強く、自殺を明確に意識する場合は自殺念慮と呼ばれる。
著者: 宮本浩司 張 賢徳
帝京大学溝口病院 精神神経科
https://clinicalsup.jp/contentlist/sp/970.html
自殺念慮
振り子が振れるように、死にたい気持ちと生きたい気持ちの揺れが起こり、揺れが大きくなれば大きくなるほど自殺念慮の段階(考えている状態)にとどまれなくなり、ついには自殺企図(自殺行動)に至ります。
いのちとこころの情報サイト
http://www.ktq-kokoro.jp/lecture/1455
自殺願望
何らかの死にたくなってしまう理由を持っていて、それらから解放される方法として自殺を考えてしまうのに対して、希死念慮は特に理由はないけれど、何となく生きているのが苦痛で死んでしまいたいと思うことと区別されているようです。
All About
https://allabout.co.jp/gm/gc/302154/
自殺企図
死ぬことを目的として自分を傷つけたものの、結果として死に至らなかった場合です。自殺企図ではけがが生じることもあれば、生じないこともあります。
自殺行動
自殺既遂と自殺企図(自殺未遂のこと)が含まれます。
自殺既遂
意図的に自分を傷つける行為によって死に至った場合です。
MSDマニュアル家庭版 自殺行動https://www.msdmanuals.com/ja-jp/ホーム/10-心の健康問題/自殺行動と自傷行為/自殺行動


とりあえず簡単にネットで調べてみただけなので信憑性は定かではありませんが、希死念慮と自殺願望の違いを調べていたら自殺念慮という言葉が出てきたり、自殺未遂を調べていたら自殺既遂という言葉が出てきたり、思ったより「自殺」に関する現象は細かく分類されているようです。

2.毎日「死にたい」人はどんな状態なのか

前節の分類を見る限り、「死にたい」には理由がある場合とない場合があるようです。私が「死にたい」とカジュアルに思うときはだいたい理由があり、「どうして死にたいの?」と自分に問いかけると「早く家に帰って布団に入りたいのに満員電車で席に座れもしないから」という答えが返ってきます。これはカジュアル死にたいなので死にたい理由がカジュアル過ぎますが、「生きてる価値がないから」なども理由のある「死にたい」になるようです。

これらの理由のある「死にたい」は「自殺願望」と言われるようです。

一方で、よくわからないけど「なんとなく死にたい」というタイプの「死にたい」は「希死念慮」や「自殺念慮」という願望ではなく念慮というカテゴリーに含まれるようです。希死念慮は「このまま目覚めたくない」「ずっと眠っていたい」「消えたい」などの消極的なものが多く、自殺念慮は行きたいと死にたいの間を行き来するくらい積極性を持った気持ちのようです。

私が思うに、私に相談してきた人やグループラインの人たちは程度の差こそあれ「念慮」にカテゴライズされるタイプの死にたさを持っているようでした。

一方で、私が死にたいと思うときは程度は様々ですが明確に理由があるときです。「早く帰りたいのに帰れないから死にたい」レベルのものから「身体的経済的状況を加味して死ぬべきだと思う」という強い理由があるときもありました。この理由がある私のようなタイプの死にたさは「願望」に分類されるようです。

思うに、世の中の人たちの「死にたい」は様々なレベルの「念慮」と「願望」なのでしょう。

3.私のもつ「殺意」について

私はほとんど「死にたい」と思うことがない人生だったので、少しでも自分が死にたいと思うと入院か?隔離か?監視か?と大げさに対応していた気がします。

私が死にたいと思わなかったのは生育環境にあると思います。虐待サバイバーである私には「死にたい」という気持ちは当時から微塵もありませんでした。むしろ「生きたい。なんとしても生きてこの家を出て、生き残って自由に暮らしてやりたい」という強い気持ちがありました。

死んでたまるか
高校生の頃の自分の中の合い言葉のようになっていました。

「死んでたまるか」の精神は今でも生きていて、私になんらかの害を与えた人(私を傷つけた人)のせいで私が死にたくなるなんて馬鹿げてると思うんです。

「あんな奴らのせいで私が死ななきゃいけないなら、私があいつらを殺そう」

この気持ちを、1と2で分類した言葉で整理すると「殺害願望」になるんだと思います。なんとなく殺したいわけじゃなくて、明確に殺したい理由がある。私の殺意は「願望」にカテゴライズされるようです

ただ、自殺願望が「死にたい」と「生きたい」の振り子であったように、殺害願望も「殺したい」と「救われたい」の振り子であるような気がします。ここで「殺したい」の対概念に「救われたい」を入れたのは「殺したくない」わけではないし「死にたい」わけでもないし「生きたい」わけでもなく、「傷つけられた私というものを無くしたい」という気持ちがあるからだと思いました。

私の中の「殺したい」と「救われたい」の振り子はとても弱く動いていて、「殺したい」に傾きすぎて殺害計画を立てたり実行したりすることはありません。ほとんどが、「殺したいなぁでもダメだよなぁ、なんでこんなに殺したいんだろう」くらいの気持ちです。ある意味とてもカジュアルな殺したさです。

で、ここで疑問なのが、私は「殺害願望」を持っているのか、というところです。今書いたことを見る限り、私は「殺したい」とは思うけど「殺害したい」とは思っていないようです。これは同じ意味の言葉だと言われるかもしれませんが、私の中では明確に違います。

人を傷つける行為には、「殺害」の他にも「傷害」や「暴行」があります。

私は何度か「殺したい」と思った相手にかなり悪質な嫌がらせをしたことがあります。でも、殺さなかった。「死ねばいいのに、殺したい」と思うけど、殺さなかった。これは法律による抑制とかそういうものではないと思うんです。

おそらく、私の中の「殺意」は「殺傷願望」なんだと思います。そして、ほとんどの場合は振り子の幅が狭いから、殺害に至らず傷害で済んでいる。「殺害願望」を弱くするために「傷害行為」をしていると言ってもいいかもしれません。

「傷害行為」をされた相手は当然抗議してきます。その時の私の頭の中はこうです。

「やめてくれ、それ以上私を責めないでくれ、どうしようもなかったんだ、じゃないとあんたを殺しそうだったんだ。殺さないように頑張ったんだ。だからその努力を水の泡にしないでくれ。これ以上攻められたら本当に殺したくなっちゃう

「自分が生き残るためには相手を殺すしかない」というような思いを生育環境で培ってきた私にとって、「殺したい」という気持ちは自分が生き残るための防衛反応であり、殺さなければならないほど脅威的な相手への防衛反応です。
つまり、私は私を傷つけた相手に対して脅威を感じています。まずいことをしたら自分がヤられる、どうにかされると思っています。勝てるか、殺せるかどうかもわからない相手を無計画に殺すことはできません。だから、私は相手がどんなことをされるとどんな反応をするのか把握するために「傷害行為」をするのだと思います。
ここでいう「傷害」も法的な意味の傷害ほど大げさなものではなく、とにかく相手を怖がっているので、ささいなちいさな「傷害」です。そういうちいさな弱い攻撃を繰り返していくうちに、「ここまでなら大丈夫」「ここまでは自分が勝ってる」「ここから先はまずい」と判断するための材料を集めていきます。自分が攻撃されないために、自分から脅威的相手に対して小さく弱い攻撃をする。これが私の防衛行為なんだと思います

この防衛行為が「殺したい」という気持ちに込められた中身で、それは私が誰かに傷つけられて脅威を感じたときに「傷害願望」として私の中に出てきます。

私は今までの人生で私を傷つけてきた幾人もの人に「傷害願望」をもっています。何度かは「願望」に留まらず「傷害企図」「傷害既遂」をしていると思います。

4.あとがき

「傷害願望」「殺害願望」をもっている人たち、「傷害既遂」をしたことある人たちはきっとたくさんいます。その中には同時に「死にたい」と思っている人もいるかもしれないので、必ずしも今回考えたことが万人に当てはまるとは思いません。

私は「傷害願望」が叶わないとき「死にたい」という「自殺願望」が現れます。電車の中で「死にたい」と「殺したい」を行き来することもなんどもあります。でも、最終的に「殺したい」に落ち着いてます。

自分が死ぬのはすごく簡単なことで、あまりにも簡単すぎて、「自殺願望」を自分に許してしまったら簡単に死んでしまうと思う。だから私は自分を殺さないために「殺したい」という「傷害願望」を持つんだと思います。

おわり。

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