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「生きる」を営む主戦力であること-家事・育児と労働について私が思うこと-

家事や育児は時給換算したら・・・
家事や育児がどれほどの労働か・・・

という議論をたまに見かけるのですが、個人的にはあまりその論調に馴染めずにいます。
質の違うものを横に並べようとしているような、違和感を抱いてしまうのです。

労働とは、家事や育児とはどんな営みなのでしょうか。

家事・育児は「労働」か

土木・建設業をはじめとした、肉体労働
マーケティングや経理、企画といった、頭脳労働
保育、医療、介護、接客といった、感情労働

こうした営みはすべて「賃金を得ること」を目的としている「労働」と呼ばれます。

では、家事や育児はどんな営みなのでしょう?

家事や育児はそもそも「賃金を得ること」を目的としていません。

家事や育児は「労働」ではなく「生きるを直接的に支える」営みである。

これが私の考え方です。

そして、労働は「生きるために必要な物資や場所を手に入れるための貨幣を得る」という営みだと思っています。

図で考える「労働」と「家事や育児」の違い

少し分かりづらいので、図にしてみました。

まず、育児(または介護)。
一人で「生きる」が出来ない家族の「生きる」を支える営みが育児や介護。

次に家事。
生きるために必要な「食べる」や「清潔にする」といったことを達成するための「生きるの補助」的な営みだと思います。

そして労働。
貨幣経済の中で、生きるために必要な食べるものや、清潔でいるためのサービスや場所を手に入れるための貨幣を得るための営み。

家事・育児は貨幣換算する営みなのか

家事や育児は時給換算したら・・・
家事や育児がどれほどの労働か・・・

これは、貨幣経済であるか否かを問わず必要な営みである家事や育児を、貨幣経済基準に換算するということなのだと思います。

貨幣経済を生きる者にとって、より多くの貨幣を持つことは豊かさの象徴であり、貨幣をもたらす者は偉い、より尊重されるべきだという思想に陥りがちです。

ですが、貨幣があってもなくても「生きる」営みはそこに存在し続けているのです。

外で労働のよってパートナーが貨幣を得てきてくれるからこそ、豊かな暮らしができる。
貨幣を得るために日々頑張ってくれている。
それは尊敬に値するし、敬意を持って感謝を伝えるべきことです。

でも、主婦/主夫はパートナーが貨幣を得るために外に出ている間に、家族の「生きる」のためのエッセンシャルな営みを維持しているのです。
それは、貨幣に換算できない、尊く、重い責任を伴う営みではないでしょうか。

貨幣を得る営みである労働を軽視するつもりはありません。
ですが、労働と家事・育児は同じ基準で計れないことのように思うのです。

「生きる」という休みなき営みの中で

「生きる」という営みに、休日はありません。
命がある限り続くのが「生きる」。そのための絶対必要な営みが家事や育児、介護です。

「私だって一日家事や育児をして疲れているんだ、帰ってきたら家事や育児を手伝ってほしい」
「それをいうなら私だって外で一日働いてクタクタだ仕事して帰ってきて、家事までしなければならない道理はない」

生きるための根底的な営みである家事・育児と、貨幣経済を生きるための貨幣を得る営みである労働という、質の違うものを同じ枠組みで比べようとするからこんな会話になってしまうのではないでしょうか。

外で給料をもらってくるパートナーは、仕事をして疲れている。
それは家族の「生きる」を支える営みに参加しない理由にはなりません。

「生きる」を根底的に支える営みは、そもそも家族全員で分担して担うもので、主婦/主夫はパートナーが労働に出ているあいだは一人でそれを支えており、労働にでていたパートナーは帰ってきたら、今度はよりエッセンシャルな「生きる」営みを一緒に支える必要があるでしょう。

かといって一方で、一日中「生きる」を支えてきた主夫/主婦は、労働を担うパートナーより偉いのでしょうか。

それも違います。

労働は労働で、この貨幣経済において、「生きる」を支える大切な営みの一つです。
お金がなければ食べるものが買えないし、家に住めないし、お風呂にだって入れないのが我々の今生きている社会です。

それぞれに、質の違うところで、「生きる」営みを行って合流してくるだけのことなのです。
「生きる」営みにおいてどちらが偉い・リーダーということもないし、どちらが主力でどちらが副戦力ということもない。
家族全員が「生きる」営みにおいては主戦力です。

だから、外で働いてきたパートナーに家事や育児を任せることを申し訳なく思う必要はないし、「手伝って」もらうと思う必要もないのです。

「外での労働をしてきてくれてありがとう、おかげで今日も美味しいご飯が食べられるよ。ここからは一緒に家族の『生きる』営みを2本柱でを支えようね。」

外で労働してきて疲れているときにも、主戦力である。
それは、「どんなに疲れていてもやりたくもない家事を喜んでやらなければならない」ということではありません。

家事や育児のどの部分を自分が担うかはいつでも相談して決めていいと思います。

「今日は仕事で人と接することに少し疲れてしまったので、育児は任せて家事のほうを担わせてもらいたい」

お互いにそんな風に言えたら、上に書いたような諍いは起きないのではないでしょうか。

共働きだったらどうなる?

ここまでシングルインカムの家庭を主に想定していましたが、ダブルインカム(共働き)家庭ではどうでしょう?

我が家は共働きですが、私達は共働きすることで得た賃金を元手に、日中の育児を保育園に料金を支払うことで外部委託し、家事は家電に任せるか帰ってきてから巻き返すことで「生きる」という営みを回しています。

夫が料理すると食事が飲み屋のつまみばかりになってしまうので料理は私が、
私が子供の相手をしているとすぐにケンカになるので娘の相手や世話は夫が
という分担になることが多いですが、全部夫がやる日もあれば全部私がやる日もあります。

私か夫、どちらかがメインでどちらかがサブの家事の担い手ということもなく、得意なこと、今日の自分のコンディションでできそうなことを分担しています。

共働きだと「両方働いているからはんぶんこしようね」が成立しやすいように見えますが、どちらかがメインの家事の担い手と認識していて「働いているのに家事も育児も自分ばっかり!!」という状態に陥っている家庭も多いような気がします。

私の「ワーママ」としての葛藤を書いた記事もよろしければご覧ください。

おわりに

繰り返しになりますが、シングルインカムだろうがダブルインカムだろうが、どこまで行っても私達は「生きる」という営みから逃れることは出来なくて、何らかの方法で回し続けなければならないし、「生きる」営みに休みなどなく、また家族の構成員である以上全員が「生きる」営みの主戦力でいる必要があります。

あなたは、外で仕事をしている以外の時間、家事や育児においても主戦力となれていますか?
あなたのパートナーは家族でいる時間の「生きる」の主戦力でいてくれていますか?

もしそうでなかったら、
お互いの担う営みに敬意と感謝を伝えた上で、一緒に主戦力として家事や育児を担うことを提案してみてはどうでしょう?

家事や育児も労働も、Give&Takeの営みだと私は思っています。

労働は、行いに対して「金銭」という分かりやすい報酬があり、一方家事や育児は愛を与え生きるを支えることで「愛の喜び」を得る行いだと思うのです。

「愛の喜び」というのは非常に曖昧で分かりづらく、心のコンディションによって上手に受け取れたり上手に受け取れなかったりするので「Giveばっかりだ。」と見えてしまいがちですし、何も生み出していないように見えてしまうのです。

目には見えないもの、お金に換えられないものを生み出している営みか、目に見えるものを生み出している営みか。

生きるを支えるよりベーシックな営みか、貨幣経済の枠組みにおける生きるを支える営みか。

これが家事・育児と労働の違いかなと私は思っています。

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