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子どもと一緒に家づくり –空き地編– 閉じているけれど開いている
空き地をどうしよういろんな因果が巡りめぐって、空き地を手に入れた私。祖母からのご近所づきあいと、これからの長いお付き合いに泥を塗ってはいけない。さらに三叉路の一面だからとても目立つ。早速、柵を娘と自作しようと考えた。人通りもそこそこなので、ゴミが捨てられたり、車を停められたりしたらとても困るのだ。建築士さんには「柵をつくることにしましたー。」と軽く伝えたところ、お手伝いしてくれることに!なんと心強
もっとみるお隣の町家、なんと因果なことだろう
祖母の家に住むという自分の未来になかなか向き合うことができずに、ぐだぐだしていたときに、前に進まざるを得ない決定的なことが起きた。お隣の家が売りに出されるのだ。
お隣の家は、祖母の家の10年ほど後に建てられた家で(なので築90年くらい?)、三叉路のとんがった部分にあり、その前面の道は広場のように広くなっていて、ものすごくシンボリックな場所にある。まわりの空間にめちゃくちゃ影響がある場所だ。祖母の
私にとって家をつくること
祖母の家の改修について記録しようと始めたブログは半年くらいで書くことをやめて、その2年後に一つだけ書いて、そしてまたやめてしまった。「さあ、動こう!!」と締めている割には、それっきりなのだ。
育休から復帰して、久しぶりの仕事と育児の両立になかなか苦戦し、すっかりブログの更新をサボっていた。というより、きっと祖母の家のことを二の次にしていたんだろう。いろいろ理由や言い訳は挙げることはできるんだろう
SD選書「金沢の町家」のまとめ的な
「金沢の町家」(島村昇、SD選書、1983)を読んで、実際の町家を見ると、いろんなことが見えてきておもしろい。
一般的に金沢の町家は、トオリニワと呼ばれる土間部分が、建物正面から順に並ぶミセ、チャノマ、ザシキなどをつなげるように、建物の奥にずずっとのびる。そこに台所やお風呂などが置かれる。ザシキの奥には、セドという解放空間があって、
その奥に蔵や物置が置かれる。トオリニワは敷地奥の蔵や物置まで続
ついに見つけた!祖母の家は前面突き出しドマ型
「金沢の町家」(島村昇 1983 SD選書)は、タイトル通り、商売をしている建物である町家についての記述が主であったけれど、ところどころで、武士系の住宅にも触れられていた。
どうやら、祖母の家は「前面突き出しドマ型」になるようだ。この型は、明治からつくられるようになり、大正昭和戦前期に急速に増えたそう。明治初期の祖母の家は、当時の最先端だったのだ!祖母は、このドマ部分を一部残して、床を上げて台所
これから住む祖母の家は道を占拠した武士の家
江戸時代の地図から祖母の家の成り立ちをみてみる祖母曰く、押し入れの裏だったかどこかを掃除してみたら、明治時代の新聞が出てきたから100年くらい建っているとのこと。町家の専門家にも見てもらったところ、2階の和室のディテールが明治時代のデザインなのだそう。明治と言っても、江戸から明治は、忘れがちだけど、当たり前に繋がっているので、江戸時代の職人さんの仕事らしい。
では、江戸時代にはどうだったのかと、
伝統的な家に住むということ、イタリア人のマルコはどう考える?
私の疑問純粋な疑問がある。
私はイタリアでは、200年は建っているだろうアパートに住んでいた。
最初のアパートは、屋根裏部屋だったせいもあり、水圧が低くて、バスタブにお湯を入れるには何十分もかかったし、シャンプーもなかなか洗い流せなかった。
次のアパートは、天井が3mはあったので、冬はとても寒くて、ホットワインをいつも飲んで体を暖めていた。友達には、唇がいつも赤紫色だと笑われていた。
やっぱりイタ
町家に住むことは我慢すること?
私が一番気になることは、町家に住むにはたくさんのことを我慢しなければいけないのか、ということ。冬は寒いし、何かとお手入れも大変、畳で床座などなど。
「町家に住むということは、文化を身に纏うということであり、お茶もお花もできて当然どすな」という話も学生時代を過ごした京都でよく聞いた。
なんだか町家に住む人は、文化レベルが高そうだ…。私も、もちろんすてきな暮らしがしたい。でもそれは、季節の移り変わり