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これから住む祖母の家は道を占拠した武士の家

江戸時代の地図から祖母の家の成り立ちをみてみる

祖母曰く、押し入れの裏だったかどこかを掃除してみたら、明治時代の新聞が出てきたから100年くらい建っているとのこと。町家の専門家にも見てもらったところ、2階の和室のディテールが明治時代のデザインなのだそう。明治と言っても、江戸から明治は、忘れがちだけど、当たり前に繋がっているので、江戸時代の職人さんの仕事らしい。

では、江戸時代にはどうだったのかと、江戸時代の地図(1668)で確認してみた。金沢は、戦災にも震災にもあっていないので、江戸時代からの都市の構造がそのまま残っている。すると、現在の祖母の家とお隣の家の2軒はなく、そこは道が広くなった広見のような場所だった。お隣の家とは対のようなデザインで、たぶん同じ頃に建てられたのだろうなと、外から見ていてもなんとなく想像はついた。道を占拠して建った家…。家が建てられた経緯はどんなものだったのだろう。きっと人口が増えていく中で、まさしく隙をついて建てられたのだろうな。

祖母の家を、そして日本の伝統的な工法で建てられた木造住宅をなんでもかんでも町家と呼ぶことに少し抵抗がある。私が京都で大学生をしていた20年ほど前は、
「京都の『まちや』だけが町“屋“ではなく町“家”と書かれるんです〜」と聞いた。これぞ京都のプライドと感心したのを覚えている。確かに当時「まちや」をパソコンで変換するとまず「町屋」と出てきて、「町家」とは出てこなかった。「町」を入力して「家」を入力していた。けれど、今では「町屋」と書かれるほうが珍しいし、もちろん変換しても「町家」が出てくる。

ただ、祖母の家は商売をしていた訳でもなく、建築的にも坪庭があって前面にミセがあるような町家(町屋)ではない。白漆喰の外壁に梁が見える妻入り大屋根の家だから、武家系かなとは思う。再び江戸時代の地図(1668)を見ると、祖母の家の場所は、武士が住んでいたエリアと商人が住んでいたエリアの間になっている。武家系の住宅が建っていてもおかしくない! ただ武家系という言葉って曖昧。“武家住宅“と言うと、なんだか書院造りの立派なものを想像してしまうし、”民家“というと今度は東北あたりの茅葺き屋根の馬屋があるような住宅を想像してしまう。海外で、祖母の家を説明すると“サムライハウス”となって、“ワオ!”とびっくりされる。うーん。

金澤町家の中での武士系住宅に位置付けられそう

ちなみに、金沢で改修をしようといろいろ調べると「金澤町家」という言葉をよく聞く(なぜ「金沢」ではなく「金澤」なのか、これも不思議というか違和感を感じるのだけれど)。金澤町家は、NPO法人金澤町家によると『金沢市内の昭和25年(1950)以前に建てられた建築物です。町人の職住併用住宅又は専用住宅の様式を継承した「町家」の他、武士住宅の様式を継承した「武士系住宅」、昭和戦前期頃までに建てられた西洋の建築様式や技術の影響を受けた「近代和風住宅」のいずれかの建築様式を有する建物の総称です。』ということで、かなりばくっ!としたもののよう。なので、祖母の家は金澤町家の武士系住宅になるのかな?

さらに、武士系住宅とは同サイトによると『武家屋敷や足軽住宅の流れを継承し、
門や土塀が設けられていることなどの特徴があります。』と書いてある。武家屋敷はなんとなくわかるけれど、足軽住宅というのがいまいちわからない。金沢市の足軽資料館に行ってみたものの、祖母の家とは違うようだ。というか、こんな家残っていないよな、という感じのものだった。

ではでは、一般財団法人石川県建築住宅センターによると、武家住宅は『妻入りの主屋の妻壁は白壁に束と梁とで構成され』と書いてある。ものすごく立派だけれど、この旧平尾家が近いのだろう。ということで、どうやら武家住宅な感じとわかってきたけれど、武家住宅が一体どんなものかわからない。学生時代に使った(と言っても、ほとんど覚えていないけれど)、彰国社の日本建築図集を引っ張りだして調べると、書院造りや民家は載っているけれど、ここでいう武家住宅は載っていない!ペットを飼っているのに、一体何の動物かわからないような気持ち。わからなくても付き合っていけるだろうけど、わかればもっと楽しいはずなのだ。

いろいろ探して、ようやく「SD選書 金沢の町家」(鹿島出版会,S58,島村昇)という本を見つけた。きっとこの本になら載っている!(に違いない)
 

2013年12月3日 

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