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小学生の頃からの夢だった築100年の祖母の家に住むために改修を始めました。改修すること…

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小学生の頃からの夢だった築100年の祖母の家に住むために改修を始めました。改修することで浮かんでくる疑問や思いを留めていきます。祖母の家は、金沢の用水沿いの武家住宅。たまに、能登の集落の話も。

最近の記事

赤い集落と通り道

赤い集落何年か前に、調査の仕事で能登の海沿いの集落をずっと車でまわっているときに、なんだここは!とびっくりした集落のひとつが志賀町にある赤住(あかずみ)だった。地図で集落の名前を確認しながら車で回っていたのだけれど、赤住という集落を探していると、まさしく赤っぽい壁の家が並ぶ集落が海に向かった斜面にすり鉢状に集まっていた。能登の集落の壁板の色は木材の色素が抜けていった灰色のようなものだと思っていたから、突然あらわれた赤い色と斜面にきゅっと奥まった感じがとても衝撃的だった。

    • 能登の瓦はなぜ黒くてぽってりしているのか

      そもそも瓦は赤かった 京都の大学に通っていた。帰省のときにサンダーバードの車窓から景色を楽しむことが好きだった。京都から福井あたりの、小ぶりで薄くて灰色のカサカサした瓦の家を見るたび、今にも屋根が飛んでいってしまいそうな感じがして、もぞもぞした気持ちになっていた。私の知っている瓦は、大きくて黒くてつやつやして、ぽってりとまるっこくて。その瓦がのった屋根はずっしりとしていて、家が吹き飛ばないように重石になっているような印象があった。能登に限らず、金沢から富山にかけて、こんな瓦の

      • 集まって、海を向く

        漁師はなぜ、海を向いて住むのか? <漁師はなぜ、海を向いて集住するのか>という事が気になりだした。これも、そんなことは教科書に書いてある、「土地が狭いのと、海に近いほうが便利だから」であると言われるかもしれない。しかし、これも事実の半面しか語っていないようである。なぜなら、土地の広い漁村もあるし、海から遠くに住む漁師も多いからである。むしろ、<漁師は、朝の海を見てその出漁を決めるのだ>という説明のほうが説得的であろう。しかし、これも海状予報の発達した現代では弱い説明だろう。

        • 子どもと一緒に家づくり –空き地編– 閉じているけれど開いている

          空き地をどうしよういろんな因果が巡りめぐって、空き地を手に入れた私。祖母からのご近所づきあいと、これからの長いお付き合いに泥を塗ってはいけない。さらに三叉路の一面だからとても目立つ。早速、柵を娘と自作しようと考えた。人通りもそこそこなので、ゴミが捨てられたり、車を停められたりしたらとても困るのだ。建築士さんには「柵をつくることにしましたー。」と軽く伝えたところ、お手伝いしてくれることに!なんと心強い。娘よりひとつ年下の男の子がいるご一家。打ち合わせやこういう作業も、子どもたち

        赤い集落と通り道

        • 能登の瓦はなぜ黒くてぽってりしているのか

        • 集まって、海を向く

        • 子どもと一緒に家づくり –空き地編– 閉じているけれど開いている

          お隣の町家、なんと因果なことだろう

          祖母の家に住むという自分の未来になかなか向き合うことができずに、ぐだぐだしていたときに、前に進まざるを得ない決定的なことが起きた。お隣の家が売りに出されるのだ。 お隣の家は、祖母の家の10年ほど後に建てられた家で(なので築90年くらい?)、三叉路のとんがった部分にあり、その前面の道は広場のように広くなっていて、ものすごくシンボリックな場所にある。まわりの空間にめちゃくちゃ影響がある場所だ。祖母の家と同じ白壁の大屋根で一回り小さいので、2軒合わせて兄弟みたいで気に入っていた。

          お隣の町家、なんと因果なことだろう

          私にとって家をつくること

          祖母の家の改修について記録しようと始めたブログは半年くらいで書くことをやめて、その2年後に一つだけ書いて、そしてまたやめてしまった。「さあ、動こう!!」と締めている割には、それっきりなのだ。 育休から復帰して、久しぶりの仕事と育児の両立になかなか苦戦し、すっかりブログの更新をサボっていた。というより、きっと祖母の家のことを二の次にしていたんだろう。いろいろ理由や言い訳は挙げることはできるんだろうけど、今はやっと仕事もワンクール終わり、娘も保育所の病気の洗礼を一通り済ませたの

          私にとって家をつくること

          SD選書「金沢の町家」のまとめ的な

          「金沢の町家」(島村昇、SD選書、1983)を読んで、実際の町家を見ると、いろんなことが見えてきておもしろい。 一般的に金沢の町家は、トオリニワと呼ばれる土間部分が、建物正面から順に並ぶミセ、チャノマ、ザシキなどをつなげるように、建物の奥にずずっとのびる。そこに台所やお風呂などが置かれる。ザシキの奥には、セドという解放空間があって、 その奥に蔵や物置が置かれる。トオリニワは敷地奥の蔵や物置まで続く。 京都の町家と何が違うかと言うと、ミセ、チャノマ、ザシキが並ぶくらいの規模

          SD選書「金沢の町家」のまとめ的な

          ついに見つけた!祖母の家は前面突き出しドマ型

          「金沢の町家」(島村昇 1983 SD選書)は、タイトル通り、商売をしている建物である町家についての記述が主であったけれど、ところどころで、武士系の住宅にも触れられていた。 どうやら、祖母の家は「前面突き出しドマ型」になるようだ。この型は、明治からつくられるようになり、大正昭和戦前期に急速に増えたそう。明治初期の祖母の家は、当時の最先端だったのだ!祖母は、このドマ部分を一部残して、床を上げて台所とダイニングとして使っていた。ドマの部分には、スコップや生ゴミなどがおいてあった

          ついに見つけた!祖母の家は前面突き出しドマ型

          これから住む祖母の家は道を占拠した武士の家

          江戸時代の地図から祖母の家の成り立ちをみてみる祖母曰く、押し入れの裏だったかどこかを掃除してみたら、明治時代の新聞が出てきたから100年くらい建っているとのこと。町家の専門家にも見てもらったところ、2階の和室のディテールが明治時代のデザインなのだそう。明治と言っても、江戸から明治は、忘れがちだけど、当たり前に繋がっているので、江戸時代の職人さんの仕事らしい。 では、江戸時代にはどうだったのかと、江戸時代の地図(1668)で確認してみた。金沢は、戦災にも震災にもあっていないの

          これから住む祖母の家は道を占拠した武士の家

          伝統的な家に住むということ、イタリア人のマルコはどう考える?

          私の疑問純粋な疑問がある。 私はイタリアでは、200年は建っているだろうアパートに住んでいた。 最初のアパートは、屋根裏部屋だったせいもあり、水圧が低くて、バスタブにお湯を入れるには何十分もかかったし、シャンプーもなかなか洗い流せなかった。 次のアパートは、天井が3mはあったので、冬はとても寒くて、ホットワインをいつも飲んで体を暖めていた。友達には、唇がいつも赤紫色だと笑われていた。 やっぱりイタリアでも、伝統的な家は不便なの? そして、その不便さを受け入れているの? それと

          伝統的な家に住むということ、イタリア人のマルコはどう考える?

          町家に住むことは我慢すること?

          私が一番気になることは、町家に住むにはたくさんのことを我慢しなければいけないのか、ということ。冬は寒いし、何かとお手入れも大変、畳で床座などなど。 「町家に住むということは、文化を身に纏うということであり、お茶もお花もできて当然どすな」という話も学生時代を過ごした京都でよく聞いた。 なんだか町家に住む人は、文化レベルが高そうだ…。私も、もちろんすてきな暮らしがしたい。でもそれは、季節の移り変わりを楽しみ、自分の好きなものに囲まれたいということ。そして、安全で、寒いのもいや、

          町家に住むことは我慢すること?

          祖母の家

          祖母の家に誰も住まなくなってから、10年近くが経った。 小さい頃から、祖母の家が大好きだった。 白漆喰の外壁や木目が見える天井。 玄関から和室の奥に見える緑鮮やかな庭と用水。 「こんな古い家、早よ壊してしまいたい。」と言う祖母に、 「なーん、ばあちゃんの家かっこいいげんよ。だから大事に住んでや。」 といつもいつもお願いしていた。祖母もまんざらではないようで、結構なお金をかけて屋根の瓦を吹き替えていた。「まりちゃんが、いい家やって言ってくれるし。」と当時言っていたことを鮮明に

          祖母の家