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能登の瓦はなぜ黒くてぽってりしているのか

そもそも瓦は赤かった

京都の大学に通っていた。帰省のときにサンダーバードの車窓から景色を楽しむことが好きだった。京都から福井あたりの、小ぶりで薄くて灰色のカサカサした瓦の家を見るたび、今にも屋根が飛んでいってしまいそうな感じがして、もぞもぞした気持ちになっていた。私の知っている瓦は、大きくて黒くてつやつやして、ぽってりとまるっこくて。その瓦がのった屋根はずっしりとしていて、家が吹き飛ばないように重石になっているような印象があった。能登に限らず、金沢から富山にかけて、こんな瓦の家が続いている。

「能登の志賀町の安部屋というところを調べていて、どうやらそこでは過去に瓦がつくられていて、瓦についていろいろ勉強中なんだよねー」と話すと、なんで能登の瓦は黒いの???という質問を何人ものひとからされた。能登の景観をひとことで説明するときに、よく「黒瓦の下見板張り」という言葉が使われている。能登の海沿いの集落は、県道から見下ろせるところが多くて、大きくて黒光りしている瓦屋根はとても印象的。

珠洲川浦

でも、今のようなツヤツヤ黒瓦になる前は、なんと赤い色をしていたそう。江戸時代後期に、瓦先進地であった越前の赤い瓦を取り入れたことで、石川県でも赤い瓦が主流となった。酸化鉄(ベンガラ)の釉薬によって赤色になるらしい。高校の化学の授業を思い出す・・・。石川県立歴史博物館の金沢城下図屏風(19世紀)にも、板葺きの家に混じって瓦葺の蔵が見られるけれど、確かにどれも赤い色をしていた。

金沢城下図屏風(犀川口町図)

▲金沢城下図屏風(犀川口町図) 石川県立歴史博物館

江戸時代は、住宅は板葺きで蔵や門の屋根に瓦が葺かれていて、輪島市門前にある総持寺の門は、今も赤瓦が葺かれてる。総持寺に行くたびに、赤い瓦に少し違和感があったけれど、むしろこちらがもともとの姿だったなんて!

赤から黒に

では、いつからツヤツヤ黒瓦になったのだろう。1885年(明治18年)に、京都の技術を取り入れてマンガンを主原料とする釉薬を使い始め、能登の黒瓦が誕生したそう(マンガンは黒色になるのだ)。しかし、大正時代には黒瓦と呼ばれはしたものの現在ほど黒くはなく、昭和の始めの頃に今のように黒くなったよう。

その後、黒い釉薬が流行して、赤色の屋根がどんどん黒色の屋根に変わっていくという現象が起きる、と資料には書いてあるのだが、なぜ「流行」したのか気になるところ。赤い瓦で有名な加賀東谷や加賀橋立で、今も赤瓦が使われていることから想像がつくように、赤い瓦も寒さに強いのだろう。加賀橋立は海沿いの街だし、塩にも強いことが考えられる。

【瓦】加賀橋立北前船主集落(KAGA旅まちネット)

▲加賀橋立北前船主集落 KAGA旅まちネット

マンガンとベンガラの詳しい違いがわかれば、赤色の瓦と黒色の瓦の性能的な違いも分かるのかも知れないけれど、化学式の羅列や陶芸のwebページをぐるぐるすることになってしまい、答えに辿り着ける気がまったくしない。化学が得意であればと悔やまれる・・・。

たぶん、能登で黒瓦が開発されて、技術として整ってきたころに、一般の住宅にも瓦が葺かれるようなったという、タイミングがよかったのではないかと思う。1897年(明治30年)に、政府が瓦葺きの建築を奨励したそうで、黒色の瓦は時代の流れに乗って広まったのだ。まさしく「流行」。しかし、能登の外浦(例えば志賀町赤崎)は、波が家の上を通って反対側まできた、という話も瓦業者の方からお聞きしたし、マンガンは塩にやたら強いとわかると、なるほど!!!とさらに楽しくなるのに、という思いは残る。

寒さと塩に強い瓦

上にも書いた通り、能登の瓦で大事なことは、寒さと塩害に強いということ。釉薬を塗る釉薬瓦では、一般的に表面だけの片面に釉薬を塗るけれど、能登では塩害に耐えられるよう両面に釉薬を施していた贅沢な瓦だった(今は瓦の耐久性も高まり両面に釉薬を塗ることは少ないそう)。手で瓦を持って、釉薬のなかにボチャンとつける「どぶづけ」を言われていた。

そして、やはりよい土に恵まれたこともポイントだった。1200℃という高温にも耐えられたため、寒さや塩害に強い瓦となった。どうして、高い温度で焼くと強くなるかというと、高温で焼くことで焼締られて硬くなり、あわせて土の粒子の中にある空気層が小さくなって、水の入る余地がなくなるからだそう。また、高温で焼くことで、色あせることなく、長年にわたり光沢感が失われないということ。

この強い土のおかげで、瓦1枚のサイズを大きくすることができ、施工の省力化が図られていたことも、能登の瓦の特徴だった。49形というサイズで、大きいぶん形は乱れていて、屋根の葺き上がりが上品ではなく、行儀が悪かったと、資料には書かれてい。いびつに並んだ瓦たちは、すぐ近くに広がる大きな海や青々とした山と並べば、たいしたことのない愛嬌のひとつだったと思うのだけれど・・・。現在一般的なサイズは49形よりも小さい56形で、その理由として、施工のしやすさ、同時期に普及したトンネル窯でつくりやすい、台車に置きやすく転びにくい、などが挙げられる。ちなみに、この49や56という数字は、ひと坪に乗る瓦の枚数で、家の建坪がわかれば、すぐにだいたい必要な瓦の枚数がわかるようになっている。合理的。

よい土で焼かれ、流行のマンガン釉薬を両面に塗った大きな瓦、これが能登の瓦だったのだ。一時は、北前船で佐渡や北海道まで流通していた。佐渡では、雪下ろしのときに屋根の上を走っても、スコップを突き立てても割れないということで、能登の瓦は高級で丈夫な瓦とされていたそう。そんな能登の瓦も、登り窯での瓦造りを最後まで採用していたのは1977年(昭和52年)(百浦・志賀町)までで、現在は能登では瓦はつくられはいない。

能登の瓦を探してみる

49形の瓦は、重なり合っていない部分の幅は27㎝くらい。一般的な大きさの56形の瓦では25,26㎝くらい。能登で、なんだか少し大きい感じがして、ぼこぼこと形が少しいびつで、のびのび屋根に並んでいる瓦があったら、それは能登でつくられた瓦かもしれない。瓦は、一度葺けば40〜50年はもつそう(すごい)。もしかして、今でも普通に見つかるかもしれない。気候風土に適応し、流行にのった能登の黒瓦。最近は、瓦にばかり目が行ってしまう。 

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