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対話の大切さ~『ヤマザキマリ対談集 ディアロゴス』(ヤマザキマリ他)~

運動やオリンピックを共通テーマにした、ヤマザキマリの対談集です。


第1回の対談相手である解剖学者の養老孟司との対談から、引き込まれました。印象に残る言葉が盛りだくさんです。

みんな、ジムに行ったりジョギングしたりするけど、そうやって無理に体を動かすのは不自然なことなんです。スポーツでつく筋肉は特定の筋肉が肥大したものだから、解剖の教科書には使えない。
孔子自身が「なぜ詩を読まなければいけないのか」という理由を説明しているんだけど、詩を読むことで、そこら辺に生えている草や木の名前を覚えるようになると言うんですね。

養老先生のこれらの発言、何だかすごく納得しました。


海外のメディアでは、自分たちの国の選手が外国でがんばっていることなんてほとんど言いません。なんせ、それより人々に知らせるべき他に重要なニュースが山のようにあるんですから。

第3回の対談相手である、脳科学者の中野信子との対談で出てきたヤマザキマリのこの指摘には、がっくり。海外のメディアは、当たり前のことが当たり前のように出来ているようです。


東アジア人には、ドーパミンが出てもすぐになくなってしまう人が多くて、あまり自分では考えたくない傾向になるようなんです。一方、ヨーロッパ人にはドーパミンが分解されずに残る人が多く、こういうタイプは自分で考えるのにそんなに抵抗がない。

うーん、自分の頭でものを考えられるかどうかは、脳内物質のドーパミンを分解しやすいかしにくいかも関係するんですか……。


湯船に身体をつけるというのは、仏教によって日本に持ち込まれたという説もありますね。

これは、第4回の対談相手である、宗教学者で僧侶の釈徹宗の言葉。


リングの上を舞台として捉えた演出が、プロレスラーには求められますよね。(中略)オリンピックの競技で、「試合を盛り上げるためには相手の持っているすごい技を見せた方がいいからここで俺は負けよう」なんて、絶対無理でしょう。

これは、第5回のプロレスラーの棚橋弘至との対談での、ヤマザキマリの言葉。無理だけど、それでも良いじゃないかと思ってしまいます。


宗教は社会を守るために生まれたものだし、社会も宗教を守るんです。

これは第6回の対談相手の、パトリック・ハーラン(タレントのパックン)の言葉。パックンはハーバード大学比較宗教学部を卒業しているそうです。


アメリカでアメリカンフットボールの試合はだいたい日曜日にやるんですけど、試合のために教会に行かなくていいということが許されるようになってきていて、それによってアメフトの興行収入も増えているです。本当は安息日だから運動したらいけないはずなのに、それだけ宗教の戒律が弱まっているんですね。

これもパックンの言葉。そうか、安息日は本当は運動も許されないんですね。

そういえばイングランドのピューリタンの一部、いわゆるピルグリムがメイフラワー号に乗って新大陸に渡り、マサチューセッツ植民地を築いた理由の1つは、1618年に当時のイングランド王ジェームズ1世が『スポーツの書』を著し、日曜日に遊びを勧めたことでした。


宗教が薄れている代わりにそれを補うものとしてスポーツが人気になる。人は結局、生きることの大変さから気持ちを解放してくれる組織や行事を求めているってことですね。

これは上記のパックンの発言を受けた、ヤマザキマリの言葉。なるほどと思いました。


私がデビューした頃は「外国人を描くな」とよく言われました。なぜかというと、「登場人物が外国人だと、読者が同調できなくて感情移入できない」という説明をされた。

これは第8回の対談相手である劇作家の平田オリザとの対談で出てきた、ヤマザキマリの言葉。いったい、いつの時代の話なんでしょう。外国文学を翻案で紹介していた明治時代じゃあるまいし。


地方がグローバルにならないと、東京に全部持っていかれてしまうんです。

これは平田オリザの言葉。地方がグローバル化すれば、「東京を飛び越えてパリやニューヨークに行く」との説明に、頼もしさを感じました。


他者に対して寛容になるために演劇をするということですね。(中略)観客だけではなく役者自身も、自分とはかけ離れたような役を演じることで固定観念を緩めることができますよね。

これはヤマザキマリの言葉。

哲学が異なる概念をすり合わせる訓練であったのと同じように、演劇は異なる感性をすり合わせる訓練だったと思うんです。

そしてこれは平田オリザの言葉。演劇を二人のように捉えたことがなかったので、印象的でした。演劇と寛容さを育むことがつながるとは……。

寛容については、以下の記事をご覧ください。



ウイルスは人類の歴史とともにあった地球上のひとつの現象であるにもかかわらず、人間を辛い目に遭わせるものはすべて敵という解釈は、人間こそ選ばれし生物、なによりも長生きするべき生物、という人間至上主義に通じるものだと思うのです。

これは第9回の対談相手の漫画家萩尾望都の言葉。


今回のコロナ禍は人間が自らを省み、普段考えないことを考え、理想通りにいかない現実を受け入れ、社会の歪みを見つけ、成長を果たせる機会なのかもしれないとも感じています。

これはヤマザキマリの言葉ですが、そうであってほしいし、そうでなければならないと思います。まさに「たちどまって考える」ですね。


人間が見えないウイルスに怯えて身動きができなくなった半面、生き物たちや自然はどんどん生き生きして、地球がやっと深い呼吸をしている、ということです。(中略)実は人間が地球にとってのウイルスだったんだなあ、と思ってしまいます。

これはヤマザキマリの言葉。それに萩尾望都はこう応じます。

もし人々がそれを望めば、持続可能な生活やエネルギーによるパーマカルチャーのエコな世界が生まれるでしょう。

パーマカルチャーとは、本書の注によれば「パーマネント(永続性)と農業(アグリカルチャー)に加えて、文化(カルチャー)を組み合わせた造語」だそうです。


経済的に調子がいいときは、なぜか同調圧力は低いんです。(中略)でも、バブルが崩壊して、パイの増大が止まったとたんに、いきなり同質化圧が高まった。

これは第10回の対談相手である思想家の内田樹の言葉ですが、読んだ時は意外に思ったんですが、じわじわと納得がいきました。

さらに内田樹は述べます。

社会のほんとうの意味での生産力や開発力や復元力は、メンバーの個性と能力の多様性と、そこから生み出される価値の「ばらけ方」によってもたらされるんです。少数派や異端に寛容な社会はさまざまな新しいものを生み出すけれど、同質化圧が過剰な社会からは新しいものは何も生まれない。

ここでも「寛容」がキーワードです。


世間が民衆の言動の自由をコントロールする日本という国には、そもそも民主制ってうまく適応しているのだろうか、という疑念が湧いてきた。

これはヤマザキマリの言葉ですが、どきっとさせられます。

民主主義については、以下の記事をご覧ください。


20世紀初め、日本の平均年齢は20代だったのに対し、今の日本の中央年齢は45.9歳。世界最高の老人国です。生産年齢人口がどんどん減っている超少子化・超高齢化社会で、自衛隊の定員さえ満たせないというのに、戦争なんてできませんよ。(中略)今の日本には戦争をするだけの人的リソースがないんです。

これは「このパンデミックの最悪のシナリオが戦争ということになるのではないか、と心配する人もいるようですが」というヤマザキマリの問いへの内田樹の答えですが、何とも複雑な思いになりました。もちろん戦争はしてはいけませんが、戦争をすること自体事実上不可能って、いったい……。


本の最後に特別編として、コロナ禍以前の2016年に行われたジャーナリストの兼高かおるとの対談が載っています。「兼高かおる世界の旅」の話は、さくらももこのエッセイとかにも出てきますが、私は一度も観たことがないので、観てみたかったなーと思います。


コロナ禍の進展とともに、実際に対面で行われていた対談が萩尾望都の時にはメール往復書簡となり、内田樹の時はオンラインとなります。2019年から2020年の空気を閉じ込めたこの本は、ある意味歴史的資料の1つとも言えるかもしれません。

最後に、ヤマザキマリの「はじめに」から引用します。

思い通りにならない社会や人間関係に鬱憤を溜め込むかわりに、世界も人間も果てしなく多様であり、それぞれの異なった価値観や考え方を自分たちの言葉で共有し合うことができれば、それは明日を生き抜いていく上での確実な強みとなる。


運動やオリンピックに懐疑的だったヤマザキマリが、様々な人との対話を通じて少しずつそれらの意義を考察していったように、対話を重ねれば新しい自分にも出会うことができる。そんなことに気づかせてくれる本です。


見出し画像は、2020年3月撮影の京浜急行のラッピング車両です。




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