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見れない映画16:論破②

・坂口恭平の「論破」のこと そう語るのは精神分析医の斎藤環だ。 第14回の続き。ひろゆきと坂口恭平は似ているのか、という思いつきから書く。 「いのっちの電話」と称して、自殺相談の電話を自前で受ける活動を続ける坂口恭平との往復書簡でのことである。 斉藤が言及しているのは、2020年11月1日の朝日新聞のインタビュー。「なぜ電話に出続けるのか」という記者からの質問に、相手から「念」をもらうのが「JOY(喜び)」だからと答えた坂口は確かに「哲学ってことですよ。知る喜びという

    • 見れない映画15:『セザンヌの犬』を読む(後編)③;かたちは思考する

      ・「かたちは思考する」のこと 『セザンヌの犬』を読んでから、なにか絵画に関するものが読みたいと思って平倉圭『かたちは思考する』をまた読んでいた。この本を前に読んだのは小田香のドキュメンタリー映画『セノーテ』の作品評を書いたときで、何か言葉の外で思考する道具立てがほしいと思っていたときだった。 平倉の論集は、書き下ろしの序章で自らの方法論を宣言するところから始まるのだが、彼は芸術は「人を捉え、触発する形を制作する技、またはその技の産物」と定義する。彼がそうと決める芸術の「

      • 見れない映画14:論破①

        「ひろゆきに論破されてみた件」のこと いくつか読みたい記事があって、新潮の9月号を買った。 そのうちのひとつ、綿野恵太『ひろゆきに論破されてみた件』を読みながら気になることがあった。 筆者が、ネット配信の報道番組(ABEMA)の『アベマプライム』に出演し、タイトル通り、「ひろゆき」こと実業家の西村博之に「論破」された実体験から、「ひろゆきが論破する」語りそのものを分析したという論考である。綿野は、彼の著作を紐解きつつ彼の実業家としての背景まで掘り下げて著者なりのひろゆき論

        • 見れない映画13:『セザンヌの犬』を読む(後編)②

          2024年8月6日の『偽日記』で古谷自身が、『セザンヌの犬』収録のいくつかの作品の元ネタについて触れている。以下では、『ライオンは寝ている』で参照されたヴァージニア・ウルフの『憑かれた家』と、『セザンヌの犬』で参照された郡司ぺギオ幸夫の『内側から見た偶然ー仏陀の微笑』を読みつつ古谷の小説をさらに読み進める。 先に結論を言うと私は『ライオンは寝ている』は「眠り」についての、『セザンヌの犬』は「恋」についての小説だ、と私は思っている。 「眠り」とは意識について「分身=複数の場所

        見れない映画16:論破②

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        • 見れない映画
          16本
        • 『凡災』
          6本
        • ホラー以外のすべての映画
          6本
        • 映画、文
          5本
        • 和訳文:その他
          4本
        • 和訳文:映画批評
          6本

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          見れない映画12:『セザンヌの犬』を読む(後編)①

          0.前提に関すること やっと『セザンヌの犬』を読むことができる。しかし、私はこの本を読むことができない。何が書いてあるのかさっぱりわからないところが、かなりある。ただ、一方、一度この本を読んで感動したこと、なぜ感動したのかということを既に書いた。 『「ふたつの入り口」が与えられたとせよ』(以下、『「ふたつの…』)の以上の箇所より、「その女の子がわたしで、そのようにして、わたしはあなたの部屋にやってきて、あなたとわたしは姉妹になった」の部分で起きる劇的な視点の転換を、デヴ

          見れない映画12:『セザンヌの犬』を読む(後編)①

          見れない映画11:『セザンヌの犬』を読む(前編)

          ・『めまい』のこと デヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』は、基本的にはヒッチコックの『めまい』と同じ仕掛けから始まる。 突然、狂って自殺した曽祖母のことを口走り夢遊病に陥って徘徊するようになった妻、マドレイヌを尾行して見守ってほしい。同窓生エルスターに、そう頼まれた刑事ジョンは、曽祖母の墓場へ、曽祖母の滞在したホテルへ、彼女と瓜二つの曽祖母の肖像画が飾られた画廊へと彼女を尾行する。ある日、ついに海に身を投げたマドレイヌを救ったことで知り合い、彼女に愛を告げるよう

          見れない映画11:『セザンヌの犬』を読む(前編)

          見れない映画10:ずっとハリウッド終焉前夜

          ・2020年代 『ハリウッド映画の終焉』のこと 知らない映画を見るために過去に遡る必要があるとしたら、そこで「ハリウッド映画」という語彙がなにを表す言葉なのかを考えておきたい。ということで今回、宇野維正『ハリウッド映画の終焉』(2023年、集英社新書)を読む。 本書はこのような、ショッキングな書き出しから始まる。 コロナ禍を理由に途絶えたはずの映画館への客の足並みは、パンデミックの危機が去った後も回復していない。その証拠に、この20年でアメリカ映画の制作本数は半減して

          見れない映画10:ずっとハリウッド終焉前夜

          見れない映画9:わたしの音楽

          ・乗っ取られること。 音楽そのものが苦手というわけではないのだけれど。 小学生の頃だったと思う。地元の文化会館に山崎まさよしがくるというので、母親に連れられて行ったとき、山崎まさよしはあまり関係ないのだけれど、当時20〜30代の女性が多いかなという会場でまさよし氏が何曲か演奏してそれなりに盛り上がってきたところで一人、また一人と観客が手拍子を打ちながら立ち上がっていくので、そのうちなんとなく母親もそれに加わり、自分もいよいよ周囲と同じように手拍子をしながら立ったほうがいい

          見れない映画9:わたしの音楽

          見れない映画8:1999年の黒沢清

          ・『CURE』(1997)のこと ロベール・ブレッソンの『田舎司祭の日記』(1951年)の原題​​「Journal d'un curé de campagne」には「CURE」の4文字が入っている。英題は「Diary of the country priest」で、邦題も英題も意味は変わらないため、この「curé」とはつまりpriest、教区司祭に相当する語彙にすぎないのだけれど、それに気づいたとき私はブレッソンのこの映画と黒沢清『CURE』に連想ゲーム的な共通点以上のな

          見れない映画8:1999年の黒沢清

          ルサンチカ『エンド・ゲーム』(作:サミュエル・ベケット)

          都知事選のことでなくてもいいのだけれど、最近、選挙があったので友人とこういう話をした。結局、誰に、どの党に投票するのかとなったときに、どの人が当選して、どの政党が議席を増やしたら、私の生活にどのような利益があるのか、誰が勝ったら私は得をするのか、そういうことのほうが最近はどんどん強くなってるんじゃないか。代わりに、その候補者なり政党の理念がどうとか、思想がどうとか、もっと言えばそれが勝ったところで世の中がどうなるのかとか、そういうことは今、どうでもよく、そもそも世の中がどうで

          ルサンチカ『エンド・ゲーム』(作:サミュエル・ベケット)

          マイケル・マン監督『フェラーリ』(2024)短評

          ホテルのそれのように折り目正しく整えられたシーツに横たわるスーツの男がかかってきた電話のベルに起こされ受話器を掴み、第一声「PRONTO」と答えるところまで、まずそこまでは、マルチェロ・マストロヤンニが演じる20世紀のイタリア映画の一幕を思わせる。しかし、続いて男の口から矢継ぎ早に繰り出されるいんちき関西弁の胡散臭い小気味よさを思わせなくはない、イタリア語訛りの英語を聞くやいなや、いくらこれがマイケル・マンの映画だと分かって劇場に足を運んでいたとしても、観客はその唐突で場違い

          マイケル・マン監督『フェラーリ』(2024)短評

          見れない映画7:アダプテーション(ズ)

          ・映像になる「踊り」のこと テレビドラマ『セクシー田中さん』の騒動がニュースになっていた時に思い出したことを、つい最近テレビ局側の報告書が公表されたのを機に思い出した。 それは昨年、東京国際映画祭で1本だけ、アンゲレ・シャーネレクというドイツの監督の『MUSIC』(2022年)という映画を見たときのことで、印象に残ったのはそのときに見た映画のことではなくて、たまたま立ち会うことになった併映のヴィム・ヴェンダースの『Somebody comes into the ligh

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          見れない映画6:映画SF

          ・『あなたの人生の物語』のこと 映画『メッセージ』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2015年)は、原作の優れたSFのアイデアをおそらく半分ほどしか映画に生かしきれていない。 確かに映画は、映画化に失敗してもあまりある小説のほうのアイデアで、それなりにかなり魅力的な作品になっている。しかし、映画と小説の違いは決定的だ。テッド・チャンの小説は、小説ならではの「見えない」という語りの特性にアイデアとしてのかなりの部分を依存している。それは、映画のあからさまに「見えて」しまうメディア

          見れない映画6:映画SF

          見れない映画5:もうひとつアカルイミライ

          ・もうひとつの未来のこと 『人間はどこまで家畜か』のあとがきより、 これを読んでいたとき、まさに念頭にあった一冊の本の名前が登場して驚いた。それで今回、樋口恭介の『未来は予測するものではなく創造するものである』(2020)を読む。本書は真面目すぎる「未来予測」から逃れるための方法論としても、創作論としても、またはビジネスというか実生活と文化活動の緊張の問題も引き継いで読むことができるはずだ。 本書はSFプロトタイピングについての入門書である。SFプロトタイピングとは、

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          『チャレンジャーズ』短評

          大いに笑って、大いに楽しんだ。しかしこんなことに、こんな愉しみに怠けていてはいけないということを一番強く思った。だってこれでは、あまりにも老体めいた娯楽映画ではないか。 アートとパトリック。全寮制の名門校で10代から互いに切磋琢磨して育ってきた二人のテニスプレイヤー。男の子たちは決して運命的にも、偶然にでもなく、二人が励んできたスポーツの行きがかり上、狭いコミュニティの当然の成り行きとしてタシ・ダンカンという同世代のスタープレイヤーと出会い、三角関係に陥る。二人の恋と、彼女

          『チャレンジャーズ』短評

          見れない映画4:家畜になれない私たち

          ・「大人」について読み替えること このつぶやきを見つけて、次に読むべき一冊を決める。熊代亨『人間はどこまで家畜か:現代人の精神構造(ハヤカワ新書)』である。 精神科医である熊代は、本書で進化生物学の知見に基づき「自己家畜化」というテーマで、人間がいかにして現代のような様式で法や道徳やお金に制限される暮らしを送らざるを得なくなったのか、について説く。 先に目論みを述べておくと、つまり世間一般で「大人」と呼ばれるものを熊代が言うところの「家畜」ではないのか、ということなの

          見れない映画4:家畜になれない私たち