イトウモ

シネフィル

イトウモ

シネフィル

マガジン

最近の記事

マイケル・マン監督『フェラーリ』(2024)短評

ホテルのそれのように折り目正しく整えられたシーツに横たわるスーツの男がかかってきた電話のベルに起こされ受話器を掴み、第一声「PRONTO」と答えるところまで、まずそこまでは、マルチェロ・マストロヤンニが演じる20世紀のイタリア映画の一幕を思わせる。しかし、続いて男の口から矢継ぎ早に繰り出されるいんちき関西弁の胡散臭い小気味よさを思わせなくはない、イタリア語訛りの英語を聞くやいなや、いくらこれがマイケル・マンの映画だと分かって劇場に足を運んでいたとしても、観客はその唐突で場違い

    • 見れない映画7:アダプテーション(ズ)

      ・映像になる「踊り」のこと テレビドラマ『セクシー田中さん』の騒動がニュースになっていた時に思い出したことを、つい最近テレビ局側の報告書が公表されたのを機に思い出した。 それは昨年、東京国際映画祭で1本だけ、アンゲレ・シャーネレクというドイツの監督の『MUSIC』(2022年)という映画を見たときのことで、印象に残ったのはそのときに見た映画のことではなくて、たまたま立ち会うことになった併映のヴィム・ヴェンダースの『Somebody comes into the ligh

      • 見れない映画6:映画SF

        ・『あなたの人生の物語』のこと 映画『メッセージ』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2015年)は、原作の優れたSFのアイデアをおそらく半分ほどしか映画に生かしきれていない。 確かに映画は、映画化に失敗してもあまりある小説のほうのアイデアで、それなりにかなり魅力的な作品になっている。しかし、映画と小説の違いは決定的だ。テッド・チャンの小説は、小説ならではの「見えない」という語りの特性にアイデアとしてのかなりの部分を依存している。それは、映画のあからさまに「見えて」しまうメディア

        • 見れない映画5:もうひとつアカルイミライ

          ・もうひとつの未来のこと 『人間はどこまで家畜か』のあとがきより、 これを読んでいたとき、まさに念頭にあった一冊の本の名前が登場して驚いた。それで今回、樋口恭介の『未来は予測するものではなく創造するものである』(2020)を読む。本書は真面目すぎる「未来予測」から逃れるための方法論としても、創作論としても、またはビジネスというか実生活と文化活動の緊張の問題も引き継いで読むことができるはずだ。 本書はSFプロトタイピングについての入門書である。SFプロトタイピングとは、

        マイケル・マン監督『フェラーリ』(2024)短評

        マガジン

        • 見れない映画
          7本
        • 『凡災』
          6本
        • ホラー以外のすべての映画
          6本
        • 映画、文
          5本
        • 和訳文:その他
          4本
        • 和訳文:映画批評
          6本

        記事

          『チャレンジャーズ』短評

          大いに笑って、大いに楽しんだ。しかしこんなことに、こんな愉しみに怠けていてはいけないということを一番強く思った。だってこれでは、あまりにも老体めいた娯楽映画ではないか。 アートとパトリック。全寮制の名門校で10代から互いに切磋琢磨して育ってきた二人のテニスプレイヤー。男の子たちは決して運命的にも、偶然にでもなく、二人が励んできたスポーツの行きがかり上、狭いコミュニティの当然の成り行きとしてタシ・ダンカンという同世代のスタープレイヤーと出会い、三角関係に陥る。二人の恋と、彼女

          『チャレンジャーズ』短評

          見れない映画4:家畜になれない私たち

          ・「大人」について読み替えること このつぶやきを見つけて、次に読むべき一冊を決める。熊代亨『人間はどこまで家畜か:現代人の精神構造(ハヤカワ新書)』である。 精神科医である熊代は、本書で進化生物学の知見に基づき「自己家畜化」というテーマで、人間がいかにして現代のような様式で法や道徳やお金に制限される暮らしを送らざるを得なくなったのか、について説く。 先に目論みを述べておくと、つまり世間一般で「大人」と呼ばれるものを熊代が言うところの「家畜」ではないのか、ということなの

          見れない映画4:家畜になれない私たち

          見れない映画3:生を狂わす映画

          ・『時間』のこと 映画の話に少し戻る。最初に「知らない映画」を見るのが愉しいと言ったが、いやそうとは限らない。好みはあるし、やっぱり面白い映画が見たい。なんなら私はどちらかというと非常にその面白さの範囲が狭い原理主義者の類だ。しかし、その狭い教義に基づいて鑑賞を続けると「知ってる映画」ばかり見ることになる。これはこれではつまらない。「知らない映画」とは、こうして「面白い映画」と対立するものなのか。と、いう話になるかとも思ったが、案外そうでもない。知らない映画を知ることは確

          見れない映画3:生を狂わす映画

          見れない映画2:なぜ働いていると映画が見れなくなるのか

           なぜ働いていると映画が見れなくなるのか、なぜ家族ができると映画が見れなくなるのか、なぜ大人になると映画が見れなくなるのか、見れないと思っているだけで実はそんなこともないのか。もやもやと悩みを抱えつつそれとよく似た別の悩みに効きそうな流行の一冊にあたる。三宅香帆の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(2024)。 『花束みたいな恋をした』の猫のこと 果たして労働と趣味の読書は両立するのか、内容に入る前に過去と現在の比較を行き来する本書で現代の価値観の代表として何度

          見れない映画2:なぜ働いていると映画が見れなくなるのか

          見れない映画1:知らない映画

          日記を書こうと思ったこと https://mubi.com/en/jp/showing 日記のようなものを書こうと思って、最近気になったこと、読んだ本のことなどを書いていたら「愉しみ」の話と「子ども」の話になった。二つの話でなく、一つの話のことだ。 誰にでもその人の「愉しみ」と呼ぶべき精神的生活があるだろう。音楽を聴くのでも本を読むのでも料理をするのでも語学を学ぶのでもスポーツをするのでもゲームをするのでも、必ずしもそれは文化的なものでもなくて、ポルノを見るのでも嗜好品

          見れない映画1:知らない映画

          『関心領域』短評

          1:家具のモチーフ(演出) 暗闇の不快な機械音に続いて現れたファーストカットが、これがすでに面倒な映画であることを予告している。少し長めのこのショットの主役はどうも蔦のしげる川べりにピクニックを営む家族のようだ。これがなんとも頼りない。白人らしき半裸の生っ白い痩躯を晒す少年たちだかと少女たちだか。シートの上にしゃがんだ母親らしき女の腕に抱かれた赤ん坊も合わせると頭の数は9つもある。はっきりと見えない顔たちはどれも区別がつかない。それもわざと区別などつかなくていいように撮られ

          『関心領域』短評

          ルサンチカ『SO LONG GOODBYE』(12/10  14:00〜の回)

          ――あの子は、演劇を続けるらしいよ。 学生の頃の終わりだった。後輩の子と、また別の後輩の子の話をしていた。学生の頃が終わってもあの子は演劇を続けるらしい。特別裕福な家の生れというわけでもないし、大手の事務所に入るわけでもない。ただ、このまま京都に残って俳優を続けるらしい。なにしろ彼女の親は両親ともが俳優なのだから、そういうふうにして生計を立てていく算段だって、イメージだってついている。お金ではない。ことはリアリティの問題なのだ。彼女にも彼女の家族にもそれはそれなりにリアルで可

          ルサンチカ『SO LONG GOODBYE』(12/10  14:00〜の回)

          文学界9月号 「特集:エッセイが読みたい」についてのメモ

          エッセイが流行っているかどうかもよくわかっていないが、メモ書きとして。 寂しいかもしれないが個人的な結論は、 「私が関心があるのはメタフィクションで、エッセイにはそれほどでもない」というものになる。 ただ、エッセイとフィクション、とりわけエッセイと私小説・メタフィクションの棲み分けをはっきりさせることができたという点では、学びのあるものをいくつか読むことができた。 そもそもエッセイとはなにかということについて特集の中では、野村訓市「エッセイとは何かをめぐる小さな旅」が一番

          文学界9月号 「特集:エッセイが読みたい」についてのメモ

          「凡災」⑥

          第5回 ことばと新人賞に応募した落選作「凡災」を一章ずつ掲載しています(6/15)  はーきれいなとこやなへもこかれへんわ、と大阪までエル・グレコかどうかもたぶんわからずぎらぎらの展覧会をのしのし見にきたおばはんらが言ったときいた話は聞いただけで見てないからほんとかどうかも知らんけど、こかれへん、の品のなさはどこかも知らん遠くのお寺のありがたいらしい壁と出会うときのいきなりにうろたえあわてるおばはんらのこたえそのものみたいで笑えた。でもほんとはこかれへんのやからおばはんらが

          「凡災」⑥

          「凡災」⑤

          第5回 ことばと新人賞に応募した落選作「凡災」を一章ずつ掲載しています(5/15) はちのすの名はかたちでなくまだらに因る。胃がきまったかたちをもつことなくやわくいくらも変わるから羽虫の巣の肌理にも似たつらなりに徴づけられるほかないしろものが黒と白と店先に並ぶ。白を手にとれば、わざわざ黒いのを白くするためまず風呂湯くらいの水に一じかんさらし、さらに沸したのを少し冷ましたくらいの水に三ふんひたしてあと、先がひろがり捨てられるまえの歯ぶらしで白くなるまでごしごしこすつてまた一五

          「凡災④」

          第5回 ことばと新人賞に応募した落選作「凡災」を一章ずつ掲載しています(4/15) 婚姻の祝かえしはなべしやぶよりもふりーずどらいがよいというので、三こーるでつながれた電話が祖父のもとにとどくはずの郵送をとりやめさせた。注文のまえに偶者どうしで相談すればよかつたものの、相談を思いついたのはせねばならぬ注文を終えたあとだ。 ふりーずどらいのほうがよいと図られた祖父の暮らしは許可証を返してくるまを失したあとだ。娘のくらす借家塔の車駐列でぐるり石にのりあげるおぼつかなさは祖父の運

          「凡災」③

          第5回 ことばと新人賞に応募した落選作「凡災」を一章ずつ掲載しています(3/15)  ひだり手のなかでひらく鏡は機械の目で字界をたどる鳩として翼にこの両目を乗せ舞いあがる。ぐるりを青く塗られた列車の顔ふたつの横に同じ色で書かれた駅の名を読みあげ赤に白丸のぴん留のそばをいくつか過り太い橙の線をしるべに手の中の鳩は地上を見下ろしたままぐるりぐるり、ふた指でつまんで拡ししぼつて縮し昇り降りしてやつと鏡の中にこの足が立つ地べたの位置と向きを見つける。次は水道道路と書かれたただ白い線

          「凡災」③