見れない映画5:もうひとつアカルイミライ


・もうひとつの未来のこと


『人間はどこまで家畜か』のあとがきより、

「私たちは過去のイノベーターたちから見た未来を(…)生きています。(…)イノベーターたちはしばしば、その身体性から逃れる方向に未来を夢見てきました。私は違います。未来を身体性に引き寄せたい」

熊代亨『人間はどこまで家畜か』

これを読んでいたとき、まさに念頭にあった一冊の本の名前が登場して驚いた。それで今回、樋口恭介の『未来は予測するものではなく創造するものである』(2020)を読む。本書は真面目すぎる「未来予測」から逃れるための方法論としても、創作論としても、またはビジネスというか実生活と文化活動の緊張の問題も引き継いで読むことができるはずだ。

本書はSFプロトタイピングについての入門書である。SFプロトタイピングとは、SFによって描いた未来像をもとに逆算(バックキャスティング)して、現在とるべき戦略を決め、製品開発や組織改革について取り組む思考や創作の手法である、らしいのだが……。
と、始めてみて実は、ここで「SFプロトタイピング」の話をするつもりはない。そもそも「SFプロトタイピング」のビジネスにおける効能を検分するのも私の仕事ではないし、2020年の出版当時とはうってかわって、樋口を「SFプロトタイピングのプレイヤー」と紹介するのも今更あまりふさわしくないように思える。だから、ここでの本書の扱いは「樋口を通じたSFプロトタイピング」ではなく「SFプロトタイピングを通じた樋口」についての思考を連ねるよすがとなる。それが今までの話の行きがかりに近そうだし、なにより私は今、それに一番惹かれている。
あらためて。樋口の現状認識はこれまで熊代が「家畜化」、三宅が「経済の時代」と言い表してきたものと通底している。近代化が実現した清潔で安全で安心に管理された社会での生活について、彼はテイラー主義を引きながら「制約事項」と呼びなおす。しかし、私たちの人生は制約事項に守られた安心と安全だけではまだ足りない。サラリーマンであり、本を書く作家であるとはどういうことか、いかにして彼はその矛盾を克服しているのか。彼自身の身の上が議論の入口になる。

「ITコンサルタントという仕事とSF作家という仕事は、わたしの中では密接に関係しているのですが、どうやら一般的にはそうではなく、SF作家の立場でのコンサルティングの話をすると驚かれ、コンサルタントの立場でSFの話をすると驚かれることが多くあります」

樋口恭介『未来は予測するものではなく創造するものである』

この文言を読んで、樋口の立場を奇妙だと思うだろうかそうでもないだろうか。単なる兼業作家ではないか、というならまあそれまでなのだが、この文言を見る限り、彼はどちらかにどちらかの身分を隠しているわけでもその身分同士を乖離させようとはしているわけでもない。私は、その事実にまずは驚きたい。なにしろ、三宅の議論を踏まえてここまでの近道をすれば、確か「働いていると本が読めない」はずだったのだから。それなのに彼はサラリーマンでSF作家で読むどころか書いている。何によって彼はノイズフリーなビジネスマンであることとノイジーな作家であることを同時に実現しているのか。ここではそれを問うてみたい。



本書の中盤では安宅和人『イシューからはじめよ』が引かれ、コンサルタントの仕事はかくの如しと、端的にまとめられている。新人コンサルタントは日々、大量の仕事を効率よくこなすことに追われている。悩んでいる時間はない。どの問題は解決が可能で、どの問題はそれができないのか。解決すべき問題を見極め、優先順位をつけ、てきぱきと成果を上げていく。そのためにまず「イシューからはじめ」なければならない。「イシュー」とは解決に向けて問題を腑分けするスコープだ。それがなければコンサルタントは生きていけない。
樋口の魅力はサラリーマンとしての自身の仕事への洞察と、作家としてそれをスパッと切断するときの歯切れの良さにあるのかもしれない。サラリーマンならイシューから始めなければ仕事は回らない。でも、「SFプロトタイピング」はイシューから始めない。なぜならそれは問題を解決するのではなく提起する方法だからだ、という。
熊代によれば人間は家畜化しており、文化的な家畜化の速さに人間の生物としての家畜化のスピードが追いついていないので精神疾患に罹ったり、うまく成熟できないでいるので苦しんでいるという話だった。このズレ、この矛盾をいかに克服するかということで、専門家の真摯な未来予測がなされた。しかしその「まじめな未来」が来てしまうとあまりにも不自由で面白くないので、なにかそうではない未来を呼び込めないか。そういう話だった。ではそうではない未来とはなんなのか。
樋口の思想こそまさに、専門家による未来予測も、未来の脅威もつっぱねての「もうひとつの未来」についての提案である。それは物理法則に従っていればいつか訪れる未来では決してない。それは個人が妄想によって直観する未来なのだという。
具体例を見てみよう。ソニーのウォークマンは個人の妄想が社会を変えた一例として登場する。それまでの音楽聴取体験を変えてしまうイノベーションだったこの発明は、前例の改良や踏襲、マーケティングからではなく、ソニーのいち社員の「ただ自分がほしいからつくってみた」ものとして実現されたのだ、とここで説明される。商品の思想というよりも、樋口のそれとしてここでは見てみよう。つまりそれは、「未来予測」が示す線形のひとつの社会や世界の流れからは傍流であり、その流れの中にある「私たち」とは関係のない場所からやってくる「知らない知識」であり、「知らない」誰かの妄想であったものが、突然なにかのきっかけでイノベーションとしてスケールする事件なのだ。
「SFプロトタイピング」自体の方法論について取り上げた箇所では、ストーリーというものの一回性が説かれる。商品やサービスを提案するには相手を説得するための「ストーリー」が必要だ。そういう文脈で、彼は「ストーリー」を「法則」に対比させる。個人の妄想であるウォークマンをみんなが使うようになるイノベーションの事件は、「論理に従えばいつもこうなる」法則、再現も実証も可能な事項ではない。歴史の中で一度しか訪れない物語であるらしい。つまりイノベーションとは理系ではなく文系の範疇にある問題のようだ。
樋口の論のトリッキーさはこの跳躍にある。サラリーマンであることと作家であること、ノイズフリーな暮らしとノイジーな趣味が生む妄想。それらは互いに矛盾するが、個人の妄想が実現した技術が社会を一変させるイノベーションのその一発逆転において、未来と現在が、現実とフィクションが接する奇跡の一点において克服される。そのあるかないかもわからない夢を見る試みとして「SFプロトタイピング」が、というより彼の文学観があるように見える。そこに彼の凄みがある。夢でも見ているのではないかという気分になる。しかし確かに彼は夢が実現する未来を見ているようなのだ。
私なりに彼の思想を解釈というか、超訳してみる。樋口の提案とは「お前の子どもの頃の夢とはなんだ」という問いかけではないか。手元の現状への分析ではないやり方で今後の未来に向き合うとき、なにを元にすべきか個人的な問題として考えてもらいたい。彼の指南に則れば、冷静に現状分析をしているだけではだめなのだ。どのような未来が「きそうか」という可能性ではなく、どのような未来に「なってほしいか」という希望を持たなければいけない。希望を持ち続けるには体力がいる。ある程度無知か能天気である必要もあるかもしれない。そのためには、自分がそのような純真な心を持っていた頃、つまりそれだけ「子ども」だった頃のことを思い出してみよう。つまり妄想としての未来を直観するというのは、そういうふうにちょっとした現実逃避をしてみないとできないなにかではないのだろうか。


・子どもの頃の夢のこと



自分のこととして。
そういえば、高校生の頃、私は映画の脚本家になりたかった。というのは、この前一度、実際に映画の脚本を書く機会に恵まれた、というのとは全然異なる事情である。つまりそれで最近、夢が叶ったみたいな話ではない。10代の頃だった。思い出してみると、こういう映画をいくつか見ていて、将来こういう未来がくるということを期待していて、ひとつ結論を言うならば、『アップストリーム・カラー』(2013)というアメリカ映画がつくられたときそれなりに私は感動し、嫉妬し、10代の頃の私が夢見て作ってみたいと思った映画の脚本は確かこういうものだったと思ったけれど、実際にはそのとき自分は夢破れてそれが実現できなかったと感じるかというとそうでもなく、それ以上にむしろその映画が当時、ほとんど話題にもならず、少なくとも日本で一般公開の機会にさえ恵まれなかったこと、それで個人的な夢が叶わなかったとかそれ以上の妙な悔しさを覚えたことを急に思い出した。思い出してみたのをきっかけに、子どもの頃というのが誰にとってもの子どもの頃のことではなくて、私の子どもの頃にあったかもしれないひとつの希望はただその時代に限定された流行り病のような淡い気分だったことも思い出す。思い出そうとする。
2019年に発行した『LOCUST vol.3』という雑誌に編集者・寄稿者として関わっていた私は、特集内容の岐阜県の出身である樋口にもたまたま寄稿をしてもらっており、このとき樋口さんと直接やりとりということもなかったけれど、同郷で年齢もひとつ違いで、大学から進学して地元を離れ、というところで、思い出すうちにもしかしたら似たような光景を見て育ったのかもしれないということを今、あらためて思った。2019年に自分の書いたもののほうを読み返してみて、90年代に幼少期を過ごし、阪神淡路大震災やオウム真理教まわりの騒動を子ども時代のニュースを横目に、バブルの時代を知っている世代のバブルを知らない子どもとして育ち、インターナショナルな世界への憧れていた子ども時代に9.11きっかけで暗雲が立ち込め、使い始めたばかりのインターネットで2ちゃんねるやニコニコ動画に棒人間のアニメと共に悪趣味なビンラディンのミームが出回るのを目撃し、ゆとり世代と呼ばれ、総合の授業で時事問題についてのプレゼンばかりさせられ、卒業式で「世界に一つだけの花」を歌わされ、リーマンショックやオバマの当選を尻目に大学受験をしてやっと自由になったと思った矢先に東日本大震災が起きたというのが私たちの世代が眺めた景色なのだ。関西の大学の一回生だった私は、いつでもどのチャンネルでも同じ話題を流すようになったテレビを見ながら、「東京が地方都市の一つになってしまった」と思った。読み返した論考にはそう書かれていた。私が大人になるまでの20年というのは、故郷を出て行った田舎者が上京すべき先としての匿名の移住先を失う20年ではなかったか。
「セカイ系」という言葉が、私にとってつい最近までほとんど馴染みのないものだったが、2000年代の前半にかけて未来への期待が一つの気分として不特定多数の人に共有されていた気分を私はこの言葉を知らないからこそ、この言葉が発せられる場所と私の距離の遠さからそれだけ大きく感じられた。時代はインターネットに大きな期待を寄せていた。インターネットによって個人と世界とが技術でひとつにつながれる、そんな新しい夢の時代がやってくる希望に満ち溢れた気分は当時はあったし、その実現と普及によって、インターネットとグローバリズムへの幻滅を経験しながら私たちの世代は大人になった。


 『LOCUST vol.3』で樋口さんが寄せた『亡霊の場所ー大垣駅と失われた未来』は、梶原拓元県知事の「スイートバレー」構想にまつわるエッセイだった。かつて岐阜では行政主導の仮想現実環境の大規模な研究拠点が、つまり今においてもラディカルな未来像が構想、いや妄想されていた。2005年に退任した梶原は、2006年に岐阜県庁の裏金問題がスキャンダルになると表に姿を見せることはなくなる。現在も大垣駅に佇む黒川紀章建築「ソフトピアジャパン」はその失われた未来の廃墟なのだそうだ。読み返しながら、これも『未来は予測するものではなく創造するものである』(2020)と同じ話じゃないかと思うのだ。彼はインターネットが一般人の生活にやってきたときのようなイノベーションを、それに人々が期待を持てた頃の未来像の再創造を、手元に残るその廃墟の立て直しを手を替え品を替えしているのではないだろうかと思う。
映画ばかり見ていた私にとっては『アップストリーム・カラー』という映画がひとつ、来るはずが来なかった未来の廃墟だった。10代の私がなりたいと思った映画の脚本家というのは、そういう未来の文学か物語かについての作家だった。10代の頃私は地元のレンタルビデオ店で、黒沢清の『アカルイミライ』(2001)とゴダールの『アワーミュージック』を手に取る。その頃はまだまだ壊れていない都会と外国とへの希望の中でそれを手に取る。


・「それってCMじゃない?」って思ったこと

と、言いつつ私と樋口の思考には大きな隔たりがある。まず私が思い描いていたフィクションの作家はイノベーションなんかとは全然無縁で、妄想が現実の事件としてスケールする可能性がまったくない。
たとえば。SFプロトタイピングって要するに商品の広告じゃないの? と思ってしまう。つまり「SFによって描いた未来像をもとに逆算(バックキャスティング)して、現在とるべき戦略を決め、製品開発や組織改革について取り組む思考や創作の手法」であるとするならば、そこで提案された製品なりサービスなりシステムが実現した瞬間に、ストーリーはそれを宣伝するCMになるのではないか。ウォークマンが実現した社会で「歩きながら一人で音楽を聴こう」というストーリーは宣伝以外のなにものでもないだろう。それでも、それの何が問題なのかと思われるかもしれない。あるいは当たり前だと思われるかもしれない。
例を拡大してみる。将来タイムマシンが実現したとしよう。タイムマシンが現代の車や電話やインターネットのように一般化し、それ以前にどのような社会があったのか想像もつかないほど破壊的なイノベーションが起きたあとに、タムトラベルやタイムパラドクスをめぐるいくつもの「ストーリー」はもはやかつてのように「面白くはない」のではないか。それは「ストーリー」としていいのか。つまり、そういう「ストーリー」は果たして美学の問題としていつまで面白いのか。

個人の妄想であるなら今更青臭いことを恥じることもないだろう。ならば、SFの「失われた未来」は、失われているからこそ美しいのではないか。私は現実の社会がそれによって変わってしまうことをおそらく望んでいない。私はこうして食べて飲んで起きて寝てしゃべってお金を払って人と一緒に暮らしている。いくらかのお金がもらえるシステムの中に置かれており、それらの連なりになんとなく納得したふりをしているがそれがなんなのか本当はよくわかっていない。理屈がわからないのかもしれない。いや、理屈がわからないのではない。論理や算数の式のように理屈がつながっているということはむしろよくわかるのだが、目の前の現実に理屈のような筋が通っているということがよくわからない。それらはただそこにある。生活というのはただそこで時間が過ぎていくようにだけ思う。そこに意味とか理由が介在するというのは私には本当のところよくわからない。目の前の現実と論理や数式のようなものにならはっきりあるはずの意味や理由と、その両方にどんな関係があるのか。私はわかったふりをしているけれど、本当はぜんぜんわからない。みんな、わかっているのか? 本当はよくわかっていないのじゃないか。みんなだってふりをしているだけじゃないのか。そう思ったところで年齢の止まった思考がある。
そうだ、そうだ、イノベーションのことだった。現実がイノベーションで全然別の何かに変わるというとき、私は本当は変わる前の現実のほうがわからないからイノベーションがわからない。

一方で、こういうことならなんとなくわかる気がするのだ。私の好きな小説から引用する。

「『…ぼくはあの人が好きだったし、あの人もぼくを好いてくれたのを、今でも嬉しく思っている。ぼくを好いていなかったら、あの話を聞かせてくれることなんてありえなかっただろう。ほかの誰にもいっさい語らなかったんだよ。彼女がそう言ったからというだけじゃない。ほかの誰にもいっさい語らなかったんだよ。彼女がそう言ったからというだけじゃない。誰にも語らなかったのは確かなんだ。ぼくにはそれがよくわかった。いずれ話を聞けば、きみも納得すると思う』
『語らなかったというのは、それがとても恐ろしい話だったからかい?』
ダグラスは相変わらず、私の顔をじっと見つめていた。『いずれ分かるさ、必ずね』
私も彼の顔を見つめ返した。『そうか。その人、恋をしていたんだな』
彼は初めて語った。『きみは鋭いな。そう、恋をしていた。つまり、若い頃、恋をしていたんだよ。そのことがあらわになった。あの物語を一読すれば、自然にそれが滲みでてくるに決まっている。ぼくにはそれが分かり、彼女は僕が気づいたことを知ったよ。…」

ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』行方昭夫訳

ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』。これは本題の女家庭教師と彼女が世話した子どもたちの物語に入る前、その家庭教師についてこれから話すことになるダグラスという男が「私」とこのやりとりを交わす。これを読んで私がはっ、とするのは、なぜ「私」が「その人、恋をしていたんだな」なんて言うのかすぐにはわからないからだ。つまり、なぜその女家庭教師は「恋をしていた」のか。ここではその恋の相手の話さえ一切登場しない。「誰に」もなくただ、「恋をしていた」と「私」は閃いたかのように語り出す。会話を最後まで読んでみて、これからダグラスが「私」に話すその話を、ダグラスの「ほかに誰にも話さなかった」からというのをおそらく「私」は判断材料にしたらしいのはわかる。「玉の緒も絶えねば絶えねしのぶることも弱りもぞする」というくらいだから、「恋心とは人に秘密にするものである」というのが地域を問わずある程度の通念かもしれない。けれど私は共有していない。しかし、「私」も一度は迷いはするものの、説明もなく秘密を理由に「この人は恋をしていた」とひらめいてしまう。私はこの感覚が全然わからない。
ただ、ダグラスの話を聞いた「私」がそのように感じた、というかおそらく「恋とは秘密にするもの」だと思っている私が直感という形でその見ず知らずの女家庭教師に突然共感したという場面だとわかってこの流れをまた読むと、恋についてのどうのこうのよりも、そういうふうにして人が人に共感するというふうにしてしか説明できないことが「恋」なのだということが直感できるようになる。
そう理解するとき、私はこの登場人物たちから切り離される。この登場人物たちがそういうふうにして了解しあえる場所がある。あるということを悟る。悟った瞬間にそういう場所と自分とが切り離されて、切り離された向こう側で始まるコミュニケーションがフィクションである。そういう人たちが私には見えない場所に、そういうふうに「いる」ということ、そこがあり、そこでやりとりがされるということなら私は信じられる。

もうひとつ子どもの頃の話でいうなら、きっと機械にできるような仕事は将来、機械にとって代わられるからそれでも残るような仕事がしたいと思っていた。それでも残る仕事ってなんだったか。今や誰にでも利用開放された大規模言語モデルが絵画や小説を一瞬で生成する。もはや、フィクションを作るのすら、人間に限った仕事ではない。ただ、人間には不可能な量の本を読んだ機械がもしかしたら人間には書けない文章を出力することになっている。ただ、そこでは多くの人が共感可能な物語や、ある種の入力者の意図的な偏りに基づいた極端な文章なら出力が可能なのかもしれないけれど、結局、理由もなく個人的な確信を持ってなにかを秘密にするということは、できないのではないか。たとえば、なにかの利害関係のために機械が人間に意味を持ってある情報を隠すことはあるかもしれない。あるいは、「恋心とは秘密にすべきものである⇄秘密にされたものは恋心である」というルールを前提にお話を書くことはできるかもしれない。しかし、ある種の理由のない偏向のしるしとしてなにかを隠すということはできないのではないかと急に思う。

大人になるというのは家畜になることかもしれないと思ったが、ちょっと違って、人間の獣の部分を家畜として本人がきちんと飼い慣らすことではなかったか。話が逸れてしまったが、むしろ人間同士でコミュニケーションしやすく、互いを管理しやすくするように、お互いをお互いの機械として道具としてやりとりすることに価値があるような社会になったときに、飼い慣らされたものなら安定した価値でやりとりできるけれど、そうして機械には真似できない、飼い慣らすことのできない獣の部分、ノイズの部分にどうやって価値を与えてやりとりするのかという話がしたかった。というか、私はそういう価値ある獣としての大人に将来なりたかったというのを少しずつ思い出した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?