見れない映画4:家畜になれない私たち


・「大人」について読み替えること

このつぶやきを見つけて、次に読むべき一冊を決める。熊代亨『人間はどこまで家畜か:現代人の精神構造(ハヤカワ新書)』である。

精神科医である熊代は、本書で進化生物学の知見に基づき「自己家畜化」というテーマで、人間がいかにして現代のような様式で法や道徳やお金に制限される暮らしを送らざるを得なくなったのか、について説く。

先に目論みを述べておくと、つまり世間一般で「大人」と呼ばれるものを熊代が言うところの「家畜」ではないのか、ということなのだ。だからなんだということなのかもしれないが。もし、「大人になる」ということが古来、目指すべきものとして当然視される価値観であったとすれば、今、そう呼ばれている「大人」の像はいつごろからどのようになぜこのようなかたちで形成されてきたのか見ることで、必ずしもそれは当然とすべき価値観ではないのではないか揺さぶりをかけてみる。それがこの回の目論みである。

本の内容に戻る。熊代によると「自己家畜化」には、生物としてのものと、文化習慣を通じてのものの、二つの段階がある。まず一つ目。ちょうどキツネやオオカミがペット化された犬のような種になるように、人間も現代の社会生活、というか1万年前の文明化される段階までのところで生き物として「大人しく」なっていった。脳は小さくなり、男性ホルモンがあまり発達せず、攻撃性が弱まり、セロトニンを利用できる家畜的な種に変わった。そしてコミュニケーションに長け、控えめで平和主義的でルールを尊重する一方、ルール違反には厳しく、違反者や敵対者には集団として能動的な攻撃性を発揮する種に変わった。これが文明化した後に、ついカッとなることは少ないものの、大規模な戦争を引き起こすようになった現在の人間という生物種を形成した、という。
二つ目。次の段階として参照される文化的家畜化について、熊代は医療化、資本主義、個人主義といったテーマを通じて社会の構成員として順応的な今の「人間」のモデルが形成されたことを説明する。近代化によって、それまで宗教の領分だった新生児の誕生や人の死の判定が医療の分野に囲い込まれる(医療化)を経て、死生観ならぬ生生観とも呼びたくなる現代のような「命を大切にする」価値観が定着するようになる。以下、三宅の同時代についての現状分析で確認したように、資本主義と個人主義との定着は、健康と若さへの異常な執着を持つ個人が安全で安心で功利主義的な生活を目指す集団と、それを可能にする法とシステムの行き渡った整備が実現される夜会を生み出した。
一方、こうした社会の進展スピードの身体のほうの進化スピードが追いつかないため、社会が望ましいとする人間のモデルにそぐわない、適応に失敗した「生きづらい個体」も見られるようになる。本書で代表例が子どもと精神疾患の患者、というわけだ。

子どもについて言うならば、今日の教育における異様に管理的な性格は、異端である子どもをこのシステムに適応させんとする社会の仕業として説明できる。それは事件や事故から子どもを守ると同時に、その子ども自体、他の子供に危害を加えず、他人の財産を侵害することのない、「誰にも迷惑をかけない」子へと馴らしてしまうことを目的としたシステム構築だし、そういう「馴らし」そのものが資本主義の最前線で商品として、そういうサービスとして盛んに取引されている。もはや本人の望むと望まざるとにかかわらず、こうした社会で育つ子どもは社会契約と資本主義と個人主義を内面化した「真・家畜人」へと成長していく。

精神疾患について言えば、ぜひこの部分を引用したい。

公園のベンチや駅の地下通路で人が寝転がることを許さず、空きスペースにオブジェと銘打った障害物を埋め込み、社会契約から逸脱している人を福祉が漏らさず掬い取るこの街で生まれ育った人が、街のルール、つまり社会契約の徹底したルールを内面化せずに育つのは難しいでしょう。なにしろ私たち人間は、生まれながらにその場のルールを察し、ルールを共有し、社会を形成することに長けた動物なのですから。
精神科医である私には、そんな都市空間の典型である東京が超巨大な精神科病院のようにも見えます。

同書

専門家としての経験に裏打ちされたと思しき、現代人の「正常さ」への異様な執着に対する熊代の診断は底暗い。あらためて、大人になるとは家畜になることだとしたときに、それはどういう人間になることなのか。現代社会がいかにアンコントローラブルなノイズを嫌う場所であるかということがひしひしと伝わってきて軽い絶望を味わう。こんな場所で「大人になる」ことはあまりにも「愉しく」なさそうだ。安心、安全であることは確かに素晴らしいのだけれど、精神の栄養である「愉しみ」をこの世の中でどうやって見つけていけばよいのか。ああ、問いかけもまるでやせ細って素朴なものになってしまった。

・もうひとつの未来のこと


本書の最後に登場するのは熊代による未来予測だ。まず、2060年のほうの要約してみる。

「2060年、全国の合計特殊出生率は0.7、東京は0.4。若者は性に関心が薄く、IoTと連動したAIが子守りをしており、75歳以上の医療負担は5割。90歳以上は全額負担。喫煙、飲酒、登山、海水浴、ジャンクフードなどの健康リスクの高い娯楽には高額の税がかけられ、富裕層向けの高額な民間医療が流通し、日本は世界一安楽死の多い国になっている」

さらに、2160年。

「2160年、人間はホルモン濃度のレベルまで個人情報を管理され、健康でリペアやメンテナンスの容易な労働力としてAIに使役されている。出生と配偶は国家によって管理されることで少子化が解決。子どもは国が集団で管理し、21世紀よりもずっと生産的で、情緒が安定し、免疫力に優れた人間たちが働き蜂のように働いている」

ちょっと村田沙耶香の小説みたいだ。読んでみてどうだろうか。私は端的に嫌だなと思ってしまう。こんな未来がやってくるのなら全力で避ける方法を探すか、どこかそうではない場所に逃げてしまいたい。つまりディストピアなのだ。

念の為ことわっておくが、これは本書がつまらないことを決して意味しない。ここまで見てきたように熊代の分析は知的で、真摯で、驚きに満ちている。むしろそうであるがゆえに、最後に登場する「未来予測」に説得力があり、深刻さを増す。そしてだからこそより一層真剣に考えねばならないように思うのは、専門家が考えたこの現実的な未来から逃げるためにはどうしたらいいのか、「愉しみ」の未来をどう思い描いたらいいのかという問題である。
私なりの答えとしては、これは美学の問題なのだ。集団として人間が本当にこのような未来へと向かう進化的特性を備えているのならば、あまりに非力だが個人としてはもっと面白い未来を、荒唐無稽な未来を思い描く、つまりホラを吹くことくらいしかできないのではないかと思う。私個人の問題というより、人間そのものが持っている個人性、身勝手さ、理屈への抵抗がそうした「愉しみ」に関わるのではないかということだ。というわけで、まじめな大人が思い描く未来に風穴を開けるような子どものホラをここでは提案したい。これより先で展開すべきなのは、そうしたホラとしてのフィクションの制作論になる、かもしれない。

***

・明晰夢のこと

これを書いていたのが6月某日。ここまで進めてかなり調子が悪くなってしまった。具体的に言うと、午前中のうちに図書館に本を返しに行って昼ごはんを食べて外に出かけないといけなかったところ、何もする気がなくなって動けなくなり、椅子の上で30分そのままでいた。たまにこういうことがある。30分ならまだましなほうだ。
初めてこういう状態になったのが17のときで、一番酷かったのが22か23のとき。当時大学生で、ちょうど付き合いのあった人間関係が切れてしまったり、就職活動を途中ですっぱり辞めてしまったりというのが重なって今思えば、自分なりにはかなりひどい状態にあった。食事も睡眠も読書も映画もしたくなくて動けないまま部屋の隅で座って過ごして、日が暮れると暗くなりまた明るくなるのを待ってそのまま過ごした。意識しないと呼吸を忘れてしまう気がして、胸から腹へ腰へ動くのを忘れた筋肉が日に日に緊張して硬くなるのを感じた。このままではまずいと思ってどこかで近所を歩き回る習慣がつくようになった。それで何時間も歩いて日が暮れてくたくたになると風呂に入ってよく寝ることができるた。

結果的に言うと私は、一番調子の悪い時期をいわゆる「明晰夢」を見るようになって抜け出した。明晰夢とは何か。調べてみると、「自分は今、夢を見ている状態だ、と気づきながら夢を見続けること」で、「その夢を見ている間は自由自在になんでもコントロールできるようになる」らしい。

実感に即して言うならば、自由自在というのとは少し違って、意識的にコントロールという感じではない。起きているときの意識状態と眠っているときの意識状態がかなり近い状態で平衡している。それで、頭がかなりぼーっとした状態で覚醒しているかわりに、眠っている時もうっすら醒めているというのが近い。そう言うと、ただ単に眠りが浅いような気もするがそうでもない。そもそもがかなり心の調子が悪いときの話だ。そういうときにあたまがずっとぼんやりしているというのはなかなか気持ちのいいものなのだ。
そもそも調子が悪くなる引き金としては、役割を与えられて人に期待をされるとか、決まった時間に決まった場所で決まったことをするとか、それで誰かから承認されて感謝されるとかそういうことがぜんぶたまらなく嫌になってしまったということであった。一方、夢にはほとんど意味がない。ずっと夢の中にいることの快楽を想像できるだろうか。明晰夢を見るような状態というのは現実が夢の知覚のようにノイジーな状態になる。意味のない、自分とは関係のない情報が漂ってただノイズとして鳴り続ける中に、自分もプールに浮かぶように泳ぐともなくそこに浮き上がっていく。するとそうして意味とか価値とか役割とかでがんじがらめになった現実が、というか現実をそういうものとして捉えていたこの心がすかすかにほぐれていく。
前置きが長くなったが、これが熊代のような「未来予測」に対抗するための試行の足がかりになる。

・古谷利裕の小説のこと

話を続ける。これを書いているのが、画家・評論家の古谷利裕の個展「bilocation /dislocation」を訪問した翌日である。展示を企画したいぬのせなか座の告知でそれを知った私は、会場を訪れ、作家の古谷氏に2、3質問するなどの機会にも恵まれ、氏の『セザンヌの犬』という短編集を買って帰った。一読してはよくわからない小説を行きつ戻りつして読んでいると驚くべきことが書いてあることにやがて気づく。

川べりの女の子はまだ空を見上げている。凧はどんどん高く、どんどん小さくなってゆく。凧をずっと見ていると、そのまま凧と一緒に自分自身も消えてしまいそうに感じた女の子は、あわてて視線を、ずっと男の子たちの声が聞こえてきていた足元の方へ落として川を見た。川面には真っ青に晴れた空が映っていた。くらくらっとめまいがして、上下が逆転し、女の子は空の上へみるみると落下しはじめた。川の中の三人も土手の三人もすぐにそれに気づいたが、どうすることもできなかった。だがあなたは、後ろ側のトイレにしゃがんだままでゆっくりと手を伸ばし、落下する女の子の手を掴むと、ぐいっと引き戻し、そのまま自分の部屋に連れ帰った。その女の子がわたしで、そのようにして、わたしはあなたの部屋にやってきて、あなたとわたしは姉妹になった。あなたは、トイレットペーパーを取りに行かせるためにわたしをここに連れてきた。

古谷利裕『『ふたつの入り口』が与えられたとせよ』

この引用に至る9ページほどがある。ひとつの間取りが「手ぶくろを裏返すように」反転してできたふたつの間取りを持つひとつの部屋に住む「あなた」の視点で話が進む。「あなた」はトイレで、便座があるはずの場所に置かれたフライパンにまたがりながら用を足しつつ、土手を走る七人の子どもというイメージを突然思う。その七人のうちの一人に引用部分に登場する女の子がいる。部屋と、唐突に登場したこの土手のイメージとが並走して語られた後、引用箇所の「その女の子がわたしで」のところでふたつの時空間がひとつに接続される、その接続の一瞬、はっ、とするような感動がこの読書体験を貫いている。

 端的に言って、この小説の描写の取り止めのなさは本質的に「夢」に似ている。夢占いに登場する落下とか、追跡とかああいうのではなくて、ああいうのになるまえのもっとノイジーな意味のない夢。それでそんなことを書き留めることがどれだけ困難かやっと、思い描けるだろうか。それがこの小説の凄みである。「凧」とか「女の子」とか「対の時空間」そういう簡単なメモを見た夢の強い印象とともに書き留めた経験のある人ならわかるだろう。意味はわからなくても強い印象と共に記憶している夢がある。でもどんなに強い印象の夢でも、後で残したメモを見てもなんのことだかさっぱりわからない。そういうことがよくあるではないか。なぜこの小説ばかりは、その夢の印象を夢のままに、無意味のままに、ノイズのままにここに定着させることができたのだろうか。
ひとつには、対の時空間というものがある。部屋にいる「あなた」とその人が「知っている」土手の空間。この二つの空間が繋がっていなさそうで繋がっていてそこには繋がる理由がない。それが繋がる瞬間に目覚めた後に夢の感覚を思い出すような感動がある。

これから目指してみたい創作論とかフィクション論はそういうものであるかもしれないし、そうでないかもしれない。

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