見れない映画13:『セザンヌの犬』を読む(後編)②


2024年8月6日の『偽日記』で古谷自身が、『セザンヌの犬』収録のいくつかの作品の元ネタについて触れている。以下では、『ライオンは寝ている』で参照されたヴァージニア・ウルフの『憑かれた家』と、『セザンヌの犬』で参照された郡司ぺギオ幸夫の『内側から見た偶然ー仏陀の微笑』を読みつつ古谷の小説をさらに読み進める。
先に結論を言うと私は『ライオンは寝ている』は「眠り」についての、『セザンヌの犬』は「恋」についての小説だ、と私は思っている。
「眠り」とは意識について「分身=複数の場所に同じ人がいること」の知覚を表しており、「恋」とは意識について「入れ替わり=ひとつの場所に複数の人がいること」の知覚を表している、というのがここまでの読みを踏まえた私の直観だ。なんのことか。順に説明していく。

3.眠りのこと

まず『ライオンは寝ている』から。
ウルフ『憑かれた家』は、全編が「2024.06.24.」の古谷の偽日記に引かれている。これを読むと古谷の小説のモチーフが拍子抜けするほど明白になるような気もするが、一方でどこが引用されどこがねじれた形になっているか照らし合わせてみて、照らし合わせの先に何があるのか、私はうまくまとめて説明することができない。
ウルフ『憑かれた家』は眠っている「私」の家に「二人」が侵入するところから始まる。この二人は何百年も前に亡くなった幽霊で、この家に宝物のありかを確認しにきたことがわかる。これを脚色する形で『ライオンは寝ている』には、家で眠る「わたし」の元に「姉とあの男」が侵入し、「わたし」は同時に四万年前のトナカイの夢を見る、屋敷の中にある農具、唐箕の中に宝物である小さなライオンが眠っている。
『憑かれた家』はよりはっきりと、家に侵入した「私」を二人の幽霊が発見するという構図がある。『グリーンスリーブス・レッドシューズ』同様に、二人の幽霊という視点人物を客観描写する「私」が幽霊たちに発見されることで第三者の立ち位置が揺らぎ、二つの時空間が混じる。実態としては、二人の幽霊の夢を「私」が見ているという解釈が妥当そうなのだが、「分身」というのはつまり、「私」を見ている幽霊二人のことを説明している「私」というやり方で「私」が二人になるということだ。そこでもうひとつ注目したいのは夢の中で「私」が寝ているという点だ。
それで私は、これは金縛りの描写だと思った。

昔、眠れない頃があった。他の不眠はよく知らないが私の場合は首を中心に身体が固くなる。そのまま自分の体が石になるような感じがして眠ると呼吸が止まる恐怖が湧き上がる。結局、身体から力を抜くための呼吸法を習得してこれを克服するに至ったのだが、それで眠りというのは本質的に身体から力が抜けること、集中が解けることだと、今思い出した。
今、私の腕の中では赤ん坊が眠っているが、赤ん坊に眠れ! 眠れ! と意識するとなかなか眠ってくれない。そういう説がまことしやかに囁かれるとき、それ自体にわかには信じがたいとも思っているけれど、こちらが気を配っていると向こうもぱっちり瞼を上げてこちらを気にして眠らないということなのかもしれないから、私はテンポの遅い曲で口笛を吹いている。口笛に音楽として赤ん坊をあやす効果をあまり期待していなくて、むしろそれはただ私自身の気を紛らわせるために歌われている。お前のことなど少しも気にしていないし、そうしていると赤ん坊もいろいろ気にならなくなりきっと知らないうちに寝ている。ぐったりと両腕を垂れて頭をこちらに凭せかけ、蚊の鳴くような寝息を立てている。それで私は、赤ん坊が眠りにつく瞬間を見たことがない。しかし、そのときになくなる重さとして眠りを知っている。

22歳くらいのころに毎晩、何ヶ月もかかっていた金縛りは、この眠りを内側から眺めるような体験であったと今ならとらえられる。私は眠っている体勢で脳だけが起きているかのように、身体は全く動かず、瞼も開かず、脳だけが起きているような気がしたそれを言い換えるならば、自分が眠っている夢を見ている状態だったと今ならとらえる。眠れないのとは異なる。その証拠に苦しくはないのだ。
力が抜けて全くコントロールの効かない身体の中にいると、その容れ物としての身体の輪郭がはっきりと感じられる。私はそのときに「意識」というものが食べ物を冷凍保存する透明なプラスチック容器の手触りをしていることを知る。私の動かない身体の輪郭の中にすかすかのままそれがぽん、と置かれている。プラスチックの容器はすべすべの表面で身体の周りをぞろぞろと歩いている足音とか衣擦れを知覚する。囲まれていることに恐怖を覚えるが、そういう性質なので身体が動かない以上、降参するしかないということが少し心地いいとも思っている。だから眠っている自分の身体を認識している誰かの視点を直観して本来、直接には認識することのできない自分の眠りをつかまえるという感覚がよくわかる。
第11回で述べたように、魂に重さを感じたように、眠りにも重量を感じ取る。「私」はプラスチックの容器としての私の意識を、私の周りを歩き回る誰かの足音に反響させないときっと感じることができなかっただろう、というのが『ライオンは寝ている』の私の感想だ。眠りの中で眠りを意識する夢を見ているとき、こうして私は私を知覚する誰かを通して私を知ることで二人の分身になるのだから、眠りがそのありえない意識の条件になる。
これは確かに分析ではないが、眠りという知覚を説明する必要な文章の質量であるとは思う。足りないかもしれない。けれど『ライオンは寝ている』を読む間、頭には副音声としてこのようなことが流れていた。

4.恋のこと

https://www.ypg.ias.sci.waseda.ac.jp/_userdata/gunji-text-buddah.pdf

8月6日の偽日記で古谷は、表題作『セザンヌの犬』の元ネタが郡司ペギオ幸夫の『内側から見た偶然ー仏陀の微笑』から着想を得たことを明かしている。

「世界としての、唯一無二のわたしのモデルを、同時に世界の中に見出そうとするなら、それは目の前の他者でしかあり得ない。赤ん坊はこうして、母親を「わたし=世界」のモデルとして採用するだろう。このとき他者は唯一無二のわたしであると同時に、他のだれでもあり得るという複数性を担うこととなる。」

郡司ぺギオ幸夫『内側から見た偶然ー仏陀の微笑』に関する書籍紹介

この一節を読んだときに、私はこれを「恋」の説明であると思った。
自分の外にある世界のなかに、唯一無二の「わたし」を見出そうとすると同時に、他者の中に「他のだれでもない特別なあなた」を見出す。「他のだれかでもあり得る」その「あなた」を特別だと妄想してしまうのは、「わたし」に原因があるはずだ。そういう意味でその「あなたの特別さ」とは「わたし」に由来するものであり、「特別なあなた」とは「わたし」が作り出した妄想であるというそのとき「あなた」に見出される「特別さ」の中で、「あなたがわたしになる」。というのが私の読みなのだが、そこで二つのやり方で「入れ替わり=ひとつの場所に複数の人がいる」という妄想が実現しているはずなのだ。
まずひとつ目は、先述したように「あなたがわたしになる」という意味で、あなたの位置に「あなた」と「わたし」がいる。もう一つが、引用箇所の後半に基づいて、「あなた」の位置にある人が他のだれでもあり得るという複数性を担う。

「レスラーはこう答えた。一者であり社会でもある母親の顔、それこそが仏陀の微笑である。仏陀の微笑は、母親だけではない。それは世界の至るところにありふれる媒介者である。」

郡司ぺギオ幸夫『内側から見た偶然ー仏陀の微笑』に関する書籍紹介

「可能性(偶然)と実現される個物(必然)を仏陀の微笑とするとき、可能性の束自体が実現される個物であることを認めざるを得ない。複数の可能性が同時に成立すること、それが可能性の束としての実現される個物である。それは相互予期を示唆するものだ。」

郡司ぺギオ幸夫『内側から見た偶然ー仏陀の微笑』に関する書籍紹介

郡司の言葉は何度も読み返さないと読めない。
私は、ちょうど野矢茂樹による『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』を読んでいたところだった。そこではこうでしかあり得ないという「必然」こそが神秘であり、他の可能性を想定することが世俗とされていた。

私のほうから提示した映画の思考でいくと、ヒッチコックの『めまい』の話が思い当たる。そこでは「わたし」がジュディという個別の肉体の中に彼女がマドレイヌである可能性を見ている。そこで「わたし」が「あなた」に認める「特別さ」というのは神秘ではないのかということを私は考えているのだが、これと郡司の「可能性の束自体が実現される個物」というのがいまいち読みきれない。「あなた」は「母親」であり、「世界」であり、「世界の媒介者」であるというのなら、その神秘も、「わたし」の妄想も包み込んでその外へと開かれていくあらゆるものである、それを「可能性の束」と呼ぶのか、とも思うのだがそれはあまりにざっくりしすぎていて、納得がいかない。しかし、私は個別の「あなた」に「わたし」が恋をしているとはそこに「可能性の束」を見るということである、そう決めるというよりもむしろ、そうなるとどうなるのかということを考えてみたくなったくらいの動機でこの先を読む。
つまり、「わたし」が「あなた」の中に「わたし」を見ることで、「あなた」の場所に「わたし」と「あなた」がいる複数と、そうすることで「わたし」が「あなた」の位置に「可能性の束」を見るようになっていく複数が開け、「ひとつの場所に複数がある=入れ替わり」が実現する。この線で、『セザンヌの犬』を読んでみよう。

「あなたにそれが見えているのは、それがあなたを認め、あなたに対し開かれているからなのです。そう言って右手を差し出すあなたの掌に私が右手を添えて応えると、あなたは力強く握り返しさらにその上に右手を添えて応えると、あなたは力強く繰り返しさらにその上に左手を添えて三度上下させる。あなたがそれを見ているのではないのです、それがあなたに見ることを許しているということなのです。」

古谷利裕 表題作『セザンヌの犬』

『セザンヌの犬』の冒頭が、郡司とオットー・レスラーのエピソードに由来することが、郡司のエッセイを読むと今は容易に想像がつくが、もはやほとんどそれは問題にならない。つまり、「あなたがわたしにあること」と「一人の人に複数の可能性の束を見ること」がイメージできていれば、これがレスラーと郡司のエピソードに限定される必要はなにもない。恋に落ちた「わたし」は目の前の「あなた」が誰であれ、かまわずその関係に複数を巻き込むし、「あなた」とか「わたし」という人称名詞がそのように言葉の世界(①→③)に身体(②)を巻き込む言葉であることもすでに述べた。これに続く描写の中で「わたし」は何度も振り返り、「あなた」の微笑みと大きく振った手を何度も見返すとき、恋する気持ちの感動が何度も湧き上がる。

古谷は『偽日記』のなかで、これが二人称を徹底する実験だと語っているが、その解釈の方向へ敷衍して、これが三人称への挑戦なのだとして読んでみる。小説の三人称でも、ニュース記事でも、学術論文でもいい。世の中には三人称が蔓延っているのだ。古谷の小説が実現する個別(必然)と普遍(偶然)が同時に実現する瞬間を描くその描写(私が先に「恋」と呼び直したもの)のなかで、「普遍」は客観的なものとしては描写されず、「わたし」と「あなた」しかない二人称的な世界に埋没する。
それは客観的な事実などがない、すべてが「わたし」で、「わたし」は「あなた」という一人称の主観によって成り立つ世界かもしれないし、そこでは他者へと至る方法は「わたしの妄想」を突き詰めて「あなた」へと転じるというやり方でしかないかのようだ。『セザンヌの犬』は、そういう意味で三人称を排除した二人称の小説の結晶であると思える。
三人称を排除し、妄想を徹底して、「あなた」と「わたし」が同一化する。書いていて、本当にそんなことができるのか。できたとして、それが起きてなんの意味があるのか、とも思う。
私は、古谷と保坂の話が合流するのではないかと思っている。結論を言うと客観の喪失と主観の徹底がもたらすのは、言葉のもつれとしての降霊術である。現実社会のフィクション(①)をキャンセルし、身体の条件(②)を組み替え、言葉のもつれによって形而上学にアクセスする(③)とありえないことが起きる。「あなた」が「わたし」に語りかける叙述の中のこういうものがある。

「再現されたアトリエの隅に、古ぼけた大きな鏡がありました。その鏡それ自体はわたしに何の印象も与えませんでした。しかしその前を通り過ぎようとして鏡にちらっとわたしの顔が映ったのです。視界の隅でそれを感じた時、大きな変化が起こったことを知りました。立ち止まって、わたしは鏡に映ったわたしの顔を正面から見ました。その時わたしはセザンヌのアトリエにいました。そこは確かにセザンヌのアトリエでした。セザンヌのアトリエの再現でも、アトリエだったところでもなく、まさに今、セザンヌのアトリエであるところがそこなのです。ただもちろん、残念ながらセザンヌはいません。既にこの世にいないのですから。とはいえそこはセザンヌのアトリエなのです。湧き、溢れ出てくるような興奮のなかで、わたしの目に、部屋の反対側にある帽子掛けのフックにぶら下がった杖が入りました。実はその杖こそがセザンヌなのでした。彼はそこにいたのです。わたしは確かにセザンヌを目にし、セザンヌはわたしに自分を見ることを許してくれたのです」


セザンヌの回顧展に訪れた「わたし」は、展示会場に再現されたアトリエの中に置かれた鏡の中に映る自分を見出す。アトリエの中にある鏡を通じて、鏡が認知した「わたし」を見る。別の認知を経由して、誰かが認識した「わたし」を認識する「わたし」として、「わたし」が分身化する。『ライオンは寝ている』と同じモチーフである。そしてこれも同様に、分身をトリガーとして「わたし」は幽霊を見出す。分身をトリガーとして妄想に囚われた「わたし」の知覚が杖に「恋」をして、そこにセザンヌを見出すようになる。
私はここに、私たちが普段生きている現実社会のフィクションがキャンセルされ、別の形でフィクションが自分なりに手作業で立ち上がる瞬間を目撃し、その妄想が至る所に伝染していくこの『セザンヌの犬』という小説で次々起きる奇跡には心底感動する。

5. 絵画について語れないこと

ここまでの議論をまとめてみようと思うのだが、まとまらないとも思うし、まとめてみようと試みるまえに少し地に足のついたことも考えてみる。いわゆる社会人として世間で働いて、社会の一般常識みたいなものを内面化するというより、内面化せよという無言の命令、無言の圧力に生きているとか、そうして生きている人に囲まれていると、きちんとそれを内面化して応答できているか(そういうことばかりが、他人からの評価では測られがちであるが)よりもむしろ、その圧力との付き合い方の濃淡にこそ人となりみたいなものがあるように思う。そうしたときに、「自分は他人とは少し違ったところがあって、世間の常識とは少しずれている」みたいな自意識で生きている人のほうがいくらかまともであって、まともというのは多数派というのでなく、正気を保っているという意味だが、「自分は正しいことをしているので、ミスをしたり、常識を軽んじる他人が許せない」とか、「自分はどこか間違っているのではないか」と、常識のほうを過剰に意識してそれに一致しようとする人の方が特異さを秘めている。
というか、そうした部分に世間の呪いがある。普通であろうと強く思いすぎる人の方が、ちょっとおかしいと思っている人よりもおかしくなる可能性が高い。
仮にそういう見地に立った時に、その神経症的な特異さがある人はこの世に現実社会という「ひとつのフィクション」しかないと思っているからだろうし、仮に小説とか映画みたいないわゆるフィクションみたいなものも現実社会的なフィクションへの奉仕とか、ガス抜きとしてしか認識されていないということも含めてそこには「ひとつのフィクション」しかない
そう思った時に、古谷の、というか古谷の小説では三人称が壊れているせいで、常識が、超自我が崩壊してしまっており、複数の「わたし」、「あなた」によるそれぞれの「フィクション」の並行、乖離し合った乱立状態があると思った。というのが、非常に世俗的な言い方の中で私が「多孔式の記述平面」というものを読んでいる時の感想である。
普通の人はそんなところで生きていると秩序がなくて壊れてしまう。狂ってしまうと思うのだが、美学というものがあるとすればそうした狂ったところで生きていくための術であるはずで、古谷にとってそれはきっと画家としての素養に下支えされる言葉遣いや構成であるはずなのだけれど、現時点で私にはそれを語る道具がもうないので問題提起にとどまる。。

ごちゃごちゃ言いつつここまでの話をまとめる。。

① フィクション
② 身体
③ 形而上学

というのを、前編で設定したが、古谷の小説においては私たちのコミュニケーションの下地となる社会の常識(①)を「眠り」の意識状態によって崩壊させ、人称を撹乱し、三人称を排除した二人称の主体によって、「わたし」が「あなた」へと転じるような妄想を前提とするコミュニケーションが立ち上がる。
これは、私たちの日常レベルでは、眠るときに見る夢の知覚によく似ており、実際に「わたしは自分が何かを喋っているらしいこと」を知る(『「ふたつの…』)、自分が置いていかれたと思う(『ライオンと無限ホチキス』)、床屋に預けるように自分の体を預ける、自分の頭蓋骨を意識する(『騙されない者は彷徨う』)、自分自身が背負われているような歩き方(『グリーンスリーブス・レッドシューズ』)といったモチーフは主体の離人状態を想起させる。私の読んだ感覚としては、それは「夢を見る」という行為と密接な関わりがあるはずなのだが、離人めいた表現でされているのは、身体の一部を全体から切り離すということではないのか。

具体的には、「わたしのからだの後ろ半分は、あなたに見られることでわたしの前半分とつながります」(『セザンヌの犬』)とか、「からだの前面と背面とは不連続でまったく別の世界だとわたしは感じている」とあるように、古谷が「わたし」という人称で問題にしているのは決して一人の人間ではなく、「知覚するわたしの意識」なのだ。であるからこそ、認識できない「わたし」の背面は、「わたし」に属さない。これを意識して『右利きと左利きの耳』の「同相の谷」の挿話を読むとよく飲み込めるようになるように思う。そういう意味では、「わたし」という人称は、一人の人間から切り出されたひとつの器官であるはずだ。

子どもは、火を赤で、空を青で、雷を黄色で塗り分けるが、子どもが最初に描く形を成したものの絵は多くの場合、随分と記号的で言葉のようである。丸とか三角といった決まった形を描きたがるのもそうかもしれない。
これを思ったのは、ゴッホの企画展を見に行った時で、初期の作風ではレンブラントやルーベンスの模倣を彷彿とさせる(ちがったかもしれない)もう少し写実的な絵というか、光を描いているのだが、作風を追っていくといかにもゴッホという絵が完成されるに従って、赤とか黄色とか、色そのものを塗っているように見えてくる。それでゴッホは最後、果物とか人とか花ではなくて赤とか黄色とか、色を描いているというのを素人目に見て思った。
古谷の小説と「恋」について考えたとき、「あなた」の中に「わたし」が見出す「わたし」とは、この「赤」のようなものだ。自然の中にないその「赤」という人工的な色を「わたし」が見出し、塗っているのだ。それは一見、近くのようだけれど、画家のように色や形の形式に卓越してさえいれば、扱える道具になるのだろう。古谷の小説における「わたし」とは、こうしたゴッホの「色」のようなものでないかと一度思った。

こうして、色を塗るようにして一人の人間個体から切り出された「わたし」という意識の知覚は、知覚することそのものによって「わたし」でないものと混じり合う。これはその最も感動的な一例の一つである。

「農園主にとってわたしと母は犬と同等だった。これは比喩でも卑下でもなく、わたしも母も実際にほぼ犬なのだ。毎夕、農園主の犬とわたしは並んで一緒に小屋から続く坂道を駆け降りた。何本もの蛸の足が絡みついたような大木のたもとにたどり着くと、どちらからということもなくつかみかかるようにして絡み合い、地面をころころと転がりながらじゃれるのだ。わたしと農園主の犬は、互いに鼻と鼻とを突き合わせ、腹や股間のにおいを嗅ぎ合い、耳や足を舐め合い、軽く噛み、唾液を交換しつつ、土にまみれる。土のにおい、草のにおい、汗のにおい、尿のにおい、性器のにおい、獣のにおいが混じったものが木のたもとでころころ転がっているのだ。
混じり合った状態のなかからすっと立ち上がる何かがあるとしたらそれは農園主の犬の頭部である。」

古谷利裕 表題作『セザンヌの犬』

こうして、「わたし」は「わたし」が知覚した犬と混じり、犬になる。その先では、「わたし」という意識を付与されたものたちがポルターガイスト的に動き出す(おそらくこれは擬人化ではない)。ベッドの足が突然短くなる(『「ふたつの」)、ライオンがすりかわり、コーヒー豆挽きが勝手に回転し、石鹸はすり替わり、ボールが勝手にはずみバケツの水は空になり、ホッチキスが喋り出す(ライオンと無限ホッチキス」)、ハンカチは一晩の夢を見、ジャケットはわたしになりかわる(『セザンヌの犬』)、人形は踊りだし、帽子は回転し、農具が動き出す(ライオンは寝ている)、余地夢の中でオフィスの卓袱台がすり替わり、ドリンキングバードが動き出す(右利きと左利きの耳)。『ライオンと無限ホッチキス』は小説全体が、その最も顕著な例である。

古谷の小説の個別の記述が、複数の世界の接地面に横たわる多孔式の記述平面であることは先に述べた。その多孔状態というのが、モノと他者であふれるはずの空間を「わたし」という人称が侵食して起きるばらばらの身体と、ポルターガイスト的な状態であることも今述べた。(これは、まとめて説明ができない。『グリーンスリーブス・レッドシューズ』と『ラインと無限ホッチキス』を、そういうものだと思って、読むしかないと思っている)。
私が思っているのは、古谷の一編の小説というのは、そういう複数世界の接地面である記述平面をさらに複数重ねてできる構造物ではないかと思う。古谷の連続講義のキャプションにこのようなものがある。彼はジョージ・ケペシュ『視覚の言語』、東浩紀『存在論的、郵便的』を引きながらこのようなことを唱えている。

「ある文が多様に解釈可能だという意味の「多義性」とは異なる「多数性(二重所属)」を可能にするエクリチュールという概念がここでは問題となっている。「he war」という文-文字(図)には、(声-意味にすると消えてしまう)相入れない二種類の背景(地)が存在する(英語/ドイツ語)。つまり「he war」という文-文字が開くのは、意味の(解釈の)多数性ではなく、背景(時空・意味の場)の多数性なのだ。デリダにおいては一つのエクリチュールが、ケペシュにおいては二つの像が例に挙げられているが、どちらも問題になっているのは、意味や形そのものというより、それが現れる出る母体となる背景(地)の分裂/多数性だ。
ある文なりイメージなりが提示されることで、複数の相入れない背景が想定される時、それを受け取る者は、自分の「知覚する行為」でその矛盾を統合することが求められる。そこで「経験する主体」によって半ば強いられて生み出される多次元的知覚(多次元的時空)のことを「透明性」と呼ぶ。このような、(1)地の多数性→主体による統合性→時空の透明性の出現、という流れを透明性の第一段階と考える。しかしここで、多重化された地を統合する主体による働きかけは、必ずしも成功するとは限らない。あるいは、成功したとして、多重的地の統合という高い負荷を要求されている知覚する主体は、その負荷により常に自己の分裂と裏腹の、きわきわの状態にあるはずだ。つまり、透明性の第一段階には、その裏地として、(2)地の多数性→主体による統合性→主体の分裂、というもう一つの側面が付随している。コーリン・ロウとロバート・スラツキイの主張する「透明性」とは、実は透明性の第一段階(多次元的知覚)と第二段階(主体の分裂)という、相入れないはずの二つの状態が拮抗しながらも、振動し交代し合っているという、透明性の第三段階のことを指すのではないかと私は考える。」

つまり、私が最後にここで読めるものとして提起したいもの、私が読めないものとして考えている絵画から小説に転用された何かというのは「わたし」という人称を通じてあらゆるものに付与される「色」とか「かたち」という主観なのだ。そして、古谷によればそれが付与される時に「色」や「かたち」ではなくて、その知覚の背景同士が混ざり合うのだ。というか、感覚としてはそれが乖離したまま重ね合わされ、「わたし」とか「あなた」といった人称で貫通されて、多層の構造物をつくりだす。正直、それがなになのかがさっぱりわからない。これが私の最後の問題提起だ。そうして構造物の中にばらばらになった身体が顔を出す。ホラーめいているがあまり怖くはない、これはいったいなんだ。「透明性の第三段階」とここで言われているものの可能性について、私はまだくみ尽くすことが決してできない。

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