見れない映画11:『セザンヌの犬』を読む(前編)


・『めまい』のこと

デヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』は、基本的にはヒッチコックの『めまい』と同じ仕掛けから始まる。
突然、狂って自殺した曽祖母のことを口走り夢遊病に陥って徘徊するようになった妻、マドレイヌを尾行して見守ってほしい。同窓生エルスターに、そう頼まれた刑事ジョンは、曽祖母の墓場へ、曽祖母の滞在したホテルへ、彼女と瓜二つの曽祖母の肖像画が飾られた画廊へと彼女を尾行する。ある日、ついに海に身を投げたマドレイヌを救ったことで知り合い、彼女に愛を告げるようになったジョンは、二人で連れ立ってサンフランシスコの古い教会を訪れるが、マドレイヌもそこでジョンに愛を告げ返す、と直後、教会の尖塔から身投げして自殺してしまう。
ショックを受けてサナトリウムで治療を受けることになったジョンは、ブティックの店員をしている、マドレイヌそっくりのジュディという女と知り合う。その実、ジュディとはエルスターの画策で彼の狂った妻を演じてジョンの前に現れた女だった。変装したジュディと入れ替えて教会の尖塔から本物のマドレイヌを突き落として妻を殺害したエルスターは、ジョンをその「自殺」の目撃者に仕立て上げることにも成功する。真相を知らないジョンは、ジュディを連れまわし、マドレイヌとかつて名乗った女が身につけていたものを身につけさせ、ジュディを再びマドレイヌそっくりに仕立て上げる。
つまり、ジョンが後から会うことになるジュディこそが、このキム・ノヴァクという女優が演じる女の正体なのだが、マドレイヌを演じるジュディに恋をしてしまったジョンにとってその顔を持つ女はマドレイヌであり、「実は彼女がジュディである」と信じることができない。
ジュディが再びマドレイヌの格好に仕立て上げられるとき、映画を見ながら、この人はいったい誰なのだろうと思うけれど、彼女はジュデイでも、マドレイヌでもない。そうではなく、この人はただキム・ノヴァクという女ようなのかと言えばそういうことでもない。『めまい』という映画の中に、この顔の女をジュディと呼ぶフィクションと、マドレイヌと呼ぶもう一つ別のフィクションとがあって、そのフィクション同士がせめぎ合う時に、二つの名前で呼ばれているこの一つの顔とはいったいなんなのだろう。なんなのだろうとなるのは、問いかけではない。そういう人とかものとかが目の前に漠然とあって、それへの言葉の届かなさというのに「めまい」を覚えるその「めまい」のリアリティだけが刻まれる。それでそれは結局キム・ノヴァクという女優の顔だ、としてしまうこともできるかもしれないけれど、それはそれで映画の外にある現実社会というもう一つのフィクションに言及しているだけで結局言葉にできない顔についての説明にはならず、ただその女の顔がいつまでもある。名前とか言葉とかと関係なく「顔がある!」というリアリティにこうして言葉はいつまでも迫ることができない。
その人がそこにいる。映画もまた本物ではなく複製芸術なので、単なる表象には過ぎないのだけれど、それでも言葉ではないから、言葉の外にものがあることを言葉を使わずに示すことができるのでこういうことができる。しかし、それは複数のフィクションが重ね合わされてすれ違う時にできるノイズみたいなものとしてだけである。そしてそこには、互いに擦れ合ったフィクション同士がほつれて束の間キャンセルされた隙間に生じるリアリティがある。こういうリアリティは多分映画でしかできない。『めまい』に限らず、これが、ある一定の映画を見る時に思うことであるし、そういう瞬間を見るために映画を見ていると言っても過言ではない。ただ、そこで何が起きているのか言葉にしたいという思いに駆られ続ける。

『マルホランド・ドライブ』はハリウッド近郊に実在する地名だ。そこで深夜に事故が起きる。唯一の生還者である黒髪の記憶喪失の女は、流れ着いたルースという中年女性が暮らす邸宅とそこで間借りするベティというブロンドの女優志望の若い女と知り合う。彼女の部屋にあった『ギルダ』のポスターにあったリタ・ヘイワースにあやかってリタと名乗るようになった女はベティの協力を得て、ダイアンという女性が住む不気味な女の一人暮らしの家に辿り着く。ある夜、クラブ・シレンシオという劇場で奇妙な催しを見た帰り、バッグの中にあった青い小箱を開けるとベティはその場で忽然と消えてしまう。
同時に、ダイアンの邸宅にどこからともなく現れたカウボーイが「起きる時間だよ」と語りかける。女優志望だったダイアン(ベティと同じ顔の女)には、同じ女優志望だったカミーラ(リタと同じ顔の女)という同性の恋人がいたが、オーディションでカミーラのみが望みの役を獲得し、その映画の監督にカミーラを奪われてしまったことをきっかけに、ダイアンは彼女への復讐を誓う。マルホランド・ドライブで事故に見せかけてカミーラを殺害する約束をしたダイアンは、下手人から成功の暁に青い小箱を受け取る約束をした。結果、青い小箱を受け取ったダイアンは精神錯乱のうちに自室で怪死してしまう。
そこで、ベティとリタの物語は、錯乱したダイアンの見た悪夢だった、というのが一番辻褄の合う解釈になるということになっているようだがよう、たぶんそういう単純な映画ではなく、少なくともそうであるという明白な説明は全然されない。その解釈には十分にそうではない可能性の余地があり、もしかするとベティのほうが現実でダイアンとカミーラの話の方が夢かもしれないし、ダイアンとカミーラの夢を見ているのはリタかもしれないがリタには記憶がない。そこで、現実とか夢とかいうのはなんだ! というのがまた問いかけではない。ここには2層か、それ以上の複数の層のフィクション(これを①とする)だけがあって、『めまい』と同じように擦れ合う。その奏でるノイズの中で、ダイアンとかベティとか呼ばれるこのナオミ・ワッツという女優の顔と、リタとかカミーラとか呼ばれるこのローラ・ハーリングという女優の顔がある(これを②とする)、というリアリティを『めまい』と同じだとするならば『マルホランド・ドライブ』もそれと同じノイズを奏でる。しかし、ノイズはそれだけではない。
『マルホランド・ドライブ』には、ベティを起こしにくるカウボーイや、謎のホームレス、小人となって再登場する老夫婦、クラブシレンシオの泣き女や青い箱といった、複数のフィクションにまたがって超越的に登場するキャラクターがいる(これを③とする)。この映画に登場するどちらかが夢で、どちらかが現実だとするならば、どうしてそれをまたがって登場することのできるなにものかというのがいるのか。というのが、『マルホランド・ドライブ』において謎のまま謎として楽しめる一般的な問いだ。

ここからがやっと本題なのだが先日、古谷利裕の『セザンヌの犬』という短編小説集を読んだときに、私は咄嗟に「これはデヴィッド・リンチだ」と思った。先述したような理由でデヴィッド・リンチの映画の面白さというのは言葉で説明できない。デヴィッド・リンチの映画は言葉でできる説明というもので完結できる語りを超えたリアリティからやってくる。では、古谷の小説はその「言葉」でアクセスできないデヴィッド・リンチ的リアリティに言葉でアクセスするのか、ということを考えるために『セザンヌの犬』をこれから読む。

・『遠い触覚』のこと

だが、まだ『セザンヌの犬』を読まない。そのまえに必要な道具を揃える。何度も書いたがデヴィッド・リンチとはなにか、ということは言葉にできないのだが、それを言葉にするための補助線として、『インランド・エンパイア』(2007)の話をさんざんするというていでデヴィッド・リンチのことを突き詰めて思考しつつそのまま消失に転じる試み、保坂和志の『遠い触覚』を読む。
これは論考ではないが、『セザンヌの犬』への橋渡しとして、結論から言うと保坂はデヴィッド・リンチの映画にフィクションのほつれとして見出しており、フィクション(常識)とそのほつれ(ありえないこと)について、リンチについて扱うとは、ありえないことが起きるとはどういうことかについて思考することだ、というのがこの話の出口になっているように思う。それが私の見立てである。

端的に、人間はフィクションを前提に生きている。というのは言い過ぎではないと思うが、少し説明不足だ。ここでいう「フィクション」は映画でも劇でも小説でもそのどの話でもなくて、日常生活をしていて、人は他人の話につじつまを求めるし、コミュニケーションに整合性を求める。同じフィクションを共有していない人のことを「話が合わない」とか「意思疎通が取れない」とか「頭が悪い」とか簡単に言ってしまうが、同じ前提を共有していないというところになかなか立てない、という意味でその人ごとにフィクションがあり、人はそのフィクションからなかなか出られない。そういうフィクションというのは「自然科学」だったり「一般常識」だったり「大人としてのマナー」だったりするのかもしれないので、そういうとき、それを人はフィクションと呼ばない。そういうものを守ってその中で暮らす。なぜそういうことをするかと言えば、それが安全だからで、そういう私たちの生活の安全を保証する「貨幣」であったり「医療」であったり「治安」であったりするという話を第4回の「家畜化」の話で多分した。というのは、「遠い触覚」を読みながらあらためて私が考えた話で、「遠い触覚」に登場するのはこういう話だ。

友人Kが五年くらい前にこんなことを言った。
「小説の登場人物って、文字の中にいるだけで生きてるわけじゃないだろ?」
「え? どういう意味?」と私が訊き返すと、友人はびっくりした顔で、
「え? 生きてるの?」
と言い、その顔に出合って私は彼が言っていることの意味がわかった。

保坂和志『遠い触覚』河出書房新社

 こういう話の面白さは、小説は文字の中だけにあるから実際には存在しないフィクションであるという考えが、この現実の生活もフィクションに過ぎないという認識の抜け落ちから生まれるものではないかと思う。私たちは言葉がなくても存在するが、言葉がないとコミュニケーションがとれないので、言葉のないところに「私」も「あなた」もない。しかし、言葉があればいいわけではなく、言葉のやりとりは体を担保にしないとできない。

「登場人物が自分が文字の中だけの存在であって生きているわけではないことに気づく瞬間に読者として出合ったときの驚きとはどういうものなのか。ボルヘスだったら読者である自分もまた、もうひとつのフィクションの中の存在であったことに気づく、というようなことになるのだろうが、それではフィクションとして閉じられてしまう。

保坂和志『遠い触覚』河出書房新社

この例えにも、言葉が言葉だけで閉じるものでないこと、身体が身体だけではコミュニケーションできないことのおかしみが満ちている。そこで、「私」は「私」の話を「あなた」にするために言葉を使うのであろうが、言葉の方からしてみたら、言葉だけでは自立できないので「私」という人称を話者の方に投げるのだろう。人称というのはどういうところで、つまり、どういう条件下でそのコミュニケーションが交わされたのかを担保するために言葉が身体の世界に向かって投げる錨のようなものなのだろう。

これから「人称の撹乱」について話をするが、なんでそんなことをするかというのは後から説明するとして、実際にデヴィッド・リンチの映画では、人称の撹乱が起きているし、ゆくゆく読むことになる古谷利裕の『セザンヌの犬』も人称の撹乱によってデヴィッド・リンチの映画のような効果を獲得していると私は思っている。

保坂が取り上げるのは『ロスト・ハイウェイ』のワンシーンだ。主役のフレディという男が、友人宅のパーティーで白塗り風の奇妙な男に「前にもお会いしましたよね。」と話しかけられる。覚えのないフレディがどこで会ったか訊き返すと男は「お宅でですよ。(…)実際、今も私はあなたのお宅にいますよ」と答える。驚きつつ促されるままに自宅に電話をかけると、目の前の男の声が電話に応じる。この奇妙なシーンについて、保坂は、

体の中のひとつしかな矢印が二方向に向いて、体に裂け目ができた気がした(…)人はただ言葉をしゃべっているのではなく、体を担保にして体を使って、聞いたりしゃべったりしている。相手が「私」と発語したら、私の体の中の矢印は相手に向き、相手が「あそこ」と発語したら、体の中の矢印はどこか遠くに向く。そんな矢印なんか考えたこともなかったが、間違いなく人は体を運動させたり指示させたりして言葉をしゃべっている

保坂和志『遠い触覚』河出書房新社

と説いており、これは映画であるにもかかわらず紛う方なき人称についての奇妙な演出なのだが、人が体を担保にしてしているはずのコミュニケーションにおいて言葉と身体の人体がこのように撹乱されてしまうとはどういうことなのか。

人間は「明日」という言葉を聞いた途端に、「明日」という領域をこれから語られる文章の残りの部分用に作り、そこに「未来」や「予定」を落とし込む体の構えをとっている。暗い道を走る車のヘッドライトに照らし出された三角形の光の領域のようなものが、「明日」「昨日」という言葉に即座に反応して心の中に生じ、それにふさわしい言葉しかその領域に入らない。ー「体の中の矢印」を言い換えると、こういう感じだ。

保坂和志『遠い触覚』河出書房新社

つまり、体の中の矢印(人称)が狂ってしまうということは、「私」が使っている言葉の中で時空間が狂ってしまうということなのだ。明日が過去になり、昨日が未来になる。それはありえないが、言葉ではあり得る。

「遠い触覚」では、このあと助詞の「は」と「が」の使い分けについて一般化と事実という視点で、思考方法の違いを検討しつつ、『ロスト・ハイウェイ』で起きる分身と入れ替わりの現象について、フィリップ・K・ディックの『流れよわが涙、と警官は言った』を引きながら考察し、ありえないことがおきるとはどういうことかという検討に入り、魂や霊験の話に入っていく。

なぜ、保坂が人称の話から魂の話へとジャンプをしてしまったのか、ということについてここでは私なりに映画への思考を使って整理をしてみると、先に『めまい』と『マルホランド・ドライブ』についてしてみた整理に基づくと、映画には①フィクションの次元と、②フィクションのほつれで、言葉の外にある身体が生々しく実現する次元とがある。ひとつ付け加えて言っておくと、シネフィルが好んで映画的とするのは、この②の次元であるだろう。身体が言葉を裏切る瞬間というのが映画の原理主義者にとっての映画の醍醐味である。

ただ、リンチの映画においては、②とは別に①の複数のフィクションをまたがって登場するキャラクターというのがいる(③)。保坂はこれを妖精や天使や悪魔の類だと呼び、それがある種の形而上学であることを認める。実際に妖精や天使のような存在を信じるかどうかということとは別に、私たちの思考法にそのようなものがあるのではないだろうか。私は、短編ディズニーアニメのような古いアニメで主役格のキャラクターが判断に迷った時に、善意に従うのか、欲望に従うのか自分の判断を左右する天使と悪魔が登場するのを見た覚えがある。こういうものが実際には存在するかどうかというのではなく、それは人間の思考の癖の擬人化である。リンチの映画に登場するカウボーイらを保坂が天使や悪魔と呼ぶのは、非常に単純化すればこういうものではないかと思う。だとすれば、思考の擬人化によって登場する天使のように超越的なキャラクターというのは言語的なものであるはずだ。そしてその思考の中で、迷いの中で、「私」は天使と悪魔が相談する場所になる。③の次元において、私は分割を受けるのだ。

つまり、

①フィクションの次元
②フィクション(言葉)の外にある身体の次元
③人称のほつれる形而上の次元

という次元があるとすれば、①のフィクションが複数化して、それを理由にもつれることで②の生身の体が顕然する。それはある意味で他の多くの映画がやっていることだけれど、リンチは①言葉によるフィクションが、②という身体の担保が言葉の外にあるという理由によってもつれるときに、もつれた言い間違いとかバグのような形として、または失敗した言葉、思考の迷いのようなものとして③の次元を創出してしまうということではないのか。これは言葉の話で、映画だけでは至れない思考である。

『遠い触覚』で、形而上学の話が始まってアントナン・アルトーの言葉を引用しはじめたあたりから、保坂の言葉は急に神秘化しはじめる。

人が思考するやいなやすべてが神秘となる、そして思考すればするほどさらに神秘は深まるのです」

「あらゆる意味の説明できない底知れなさの生産者、その<霊験>とその<本質>は神の特徴そのものです。」

「あらゆる意味の説明できない底知れなさの生産者、その<霊験>とその<本質>は複数世界の誤信を含めた発信・受信の特徴そのものです。

保坂和志『遠い触覚』河出書房新社(「アントナン・アルトー 著作集<5> ロデーズ修道院からの手紙から」(宇野邦一訳)からの孫引き)

しかし、ここまで見てきたことから考えて、アルトーの言葉にもまた理屈が通っている。①言葉のフィクションによって、つまりその「何がありえるのか」を決める法則によって、ありえない出来事というのが明らかになる。そして、その例外的な奇跡のような出来事がなぜそのようなことが起きるのかという思考を誘発する。アルトーによれば、こうした複数のフィクションの重ね合わせ生じるエラーそのものが神の特徴なのだという。
いきなり、神というとあまりにも身も蓋もないが、作家にとって描かれるこうした例外事項とは、ここにある身体でも言葉のフィクションでもないところにある世界についての予感であり、それは予感としてしか描出することはできない。そこで「遠い触覚」というタイトルの説明に至る。

作家には遠いずっと先にあるイメージがあり、それをいまここで仮に<遠触>と呼ぶとしよう、その<遠触>に向かって自作を開こうとする。すべての作家には本来<遠触>があり、<遠触>がなければ作品などつくりだせるわけがないのだが、多くの人はすぎに<遠触>を忘れ、自分の作るものを作品として完成度の高いものにして当座の評価を得ることで満足するようになってしまう。<遠触>とはその人固有の世界の予感のようなもおであり、ユングの集合的無意識のように共通したものではない。フロイトの無意識によって分析しうるものでもない。カフカは作品を完成させることに関心はなく、<遠触>だけがカフカにとって指向だった。

以降、保坂は亡くなった飼い猫や事故死した父の話を書き連ね、デヴィッド・リンチの映画考察から文章が途端に小説めいていくのだが、「ペチャの魂」で書かれている通り、これは魂の話になっていく。結局のところ、ありえない出来事、奇跡についての話をするとしたとき、それを身近なものとして考えるために身近なものの死を考えるということなのか、と思うと、途端にこれは俗っぽいエッセイのようなテキストに様変わりするが、どうもそうではないとも思う。ここに書かれているのは、保坂の身辺雑記でも、エッセイとしての日記的な事実でもなく「魂」とか「霊験」の語義について個人的に迫る内容。あくまで言葉についての言葉での説明ではないか。
つまり、私は映画を見ながら言葉にできないものにぶち当たり、デヴィッド・リンチの言葉にできないところを保坂和志はいかなる言葉に変えるか、という期待のもとにこれを読み始めたのだけれど、それで結局言葉にできないことは生命の死なので、身内が亡くなった話のエッセイに転じるというのが保坂の解答だったら随分興醒めだと思ったのだが、そうではないということだ。そうではなくて、保坂がやっているのは「魂」という言葉の説明なのだ。魂という目に見えない、存在しないかもしれないものについての言葉は説明できない。しかし、なぜか「霊」とか「魂」という語彙は存在する。言葉がそのような語彙を持ち合わせていることそのものへの素朴な気づきとその問いへの思考がここにあり、その気づきの遡行的な素朴さはちょっと感動的である。

『ブンミおじさんの森』(アピチャッポン・ウイーラセタクン、2008年)という映画があって、どういう映画か簡単には説明し難いが、ブンミおじさんという人が死にそうになると先祖の霊が出てきたり、分身現象が起きたりするのだが、簡単に説明すると人が死ぬ時になると不思議なことが起きるという話だと私は思っている。祖母が亡くなったときに、会社を早退して、同じように早退してきた配偶者と普段は行かないような店で食事をして、そのまま新幹線に乗り、小旅行にでもいくような気持ちで実家に帰る時の身体の周りに青い電流がびりびりと流れるような気分を私は知っている。祖母は私にとって初めて亡くなった一緒に暮らした家族だったが、すぐ近くで介護をしていた母のほうは、身近に祖母を看取ることもできていて、葬儀の準備に翻弄されて忙しなく動く中でなぜこのタイミングで祖母が亡くなったのかということを家族の間柄にしても、行政の手続きにしても、干支とか星回りにしても過剰に意味付けして聞いてもいないのに説明する母のスピリチュアル具合に、当時私は、介護の大変さの他に、祖母のいなくなったところにいくはずだった思考というか、気分の志向の彷徨いみたいなものを感じた。

火葬場で焼く寸前の祖母の遺体を見た時には、祖母という感じはあまりしなくて、亡くなる直前もうすでに朧げなやりとりしかできなくなっていたが、あのやりとりをした祖母はどこにいってしまったのだろうと思った時、私は祖母の遺体を見ながら、この人の魂はどこのいったのか、ではなくこの人の身体はどこにいったのか、と考えてしまった。祖母の身体がなくなってしまった、というこの感覚は端的に間違いだが、そのほうがリアルに思えた。人が亡くなったという判断が下されたとき、遺体は残るがやりとりしていたやりとりの相手という見えない何かが消えてしまう。その消えてしまう何かのことを私たちはきっと魂と呼ぶのだけれど、その説明なら魂というものがとても日常的にありふれていて、それがなくなったときに私たちは魂について考えることができるのかもしれないし、それがなくなったときに魂がなくなってしまったではなく、身体がなくなってしまったと十分リアルに錯覚できる私は理屈の上では魂に重さがあるということを信じている。

「日経新聞「プロムナード」で私はそうとは明記せずに何回か父へのメッセージを書いた。そのうちの一つは、小島信夫を例に挙げて、小説家など広く芸術をやっている人間は生涯現役でありうるということ。書物の世界は果てがなく、それに関心を持っている人間は、死ぬ寸前まで関心が完了することがないということ。小島さんは実際には脳梗塞でブツ切りの形で活動が中断されることになったが、病気で明日死ぬと言われても本を読みつづけたに違いないということ」

そういうことを考えながら、「遠いの触覚」を読み進めていたらこの文章が出てきて、それで、だからこの本はデヴィッド・リンチの話ばかりしているのにリンチではなくて、小島信夫の思い出から始まるのか、とか、それで小島信夫は亡くなった後も、今も、本を読み続けている。そんなことが書いてあるなんて、なんて感動的な本なんだと思って、今、引用しようと思って該当のページを読みかえしたらそんなことはどこにも書いていなかった。

(映画の話で言えば、『東京物語』に原節子の「私、年を取らないことに決めてますの」というセリフがあってこれを聞くたびに私は感動するが、劇中の台詞としては歳を取らないはずのない女の現実に対する痩せ我慢のように響くセリフが、映画外の観客にとって、映画の中でいつまでも歳を取らない複製品の原節子として現実になる。私はこれが映画としては②である表象が上映を通じて③に返信する瞬間だと思っている。そういう意味では、原節子も天使であり、「ベルリン・天使の詩」に登場するピーター・フォークも、「アメリカの友人」の登場するニコラス・レイも、「軽蔑」に登場するフリッツ・ラングも天使である)

・「偽日記」に書かれたリンチのこと

古谷利裕の『世界へ滲み出す脳ー感覚の論理、イメージの見る夢』(2008年、青土社)という論集には古谷のデヴィッド・リンチ論が入っているらしいが、直近で手に入らなかった私はまだ読んでいない。読むかもしれないが、手に入るまでの間に、古谷の「偽日記」のリンチ関連の部分を読んでいて、そのまま『セザンヌの犬』の話を始めてしまうから、それが終わるまでにリンチ論のほうを読めないかもしれないと思いながらこれを書いている。

リンチについての記述の中でとりわけ面白いと思ったのは、モンティ・ホール問題を扱ったものなのだが、その前に古谷のリンチ観を、「ツインピークス」評の抜粋から確認する。

『ツインピークス』は、「継起的な物語」というメディウムによってつくられているので、謎の解決や伏線の回収がみこめないとしても、ネタバレ抜きで、最初から順を追って見る必要がある。(…)これは、メディウム(時間)と内容(無時間的構造)とが乖離しているとも言えるが、実は「ツインピークス」の面白さは、この乖離からきているようにも思われる。」20180804

かなり「お約束」の進行や形式に乗っかっているところも多いのだけど、いわゆる「物語のお約束」の、どこに乗って、どこで外すのかという、その選択が、常に予想外で絶妙に変だから、にゃんこスター的な「え、それありなの…」という新鮮さがずっとつづき、かつ、長い時間、ある程度安定して(続きがどうなるのかという興味をそそられるように引っ張られながら)観つづけることができる。」20180731

古谷の「ツインピークス」評でとくに興味深いと思ったのは、「お約束」と「乖離」の部分だった。『ツインピークス』というドラマは一つの殺人事件の真相をめぐる刑事の捜査を軸に展開するドラマなのだが、幽霊やUFOが登場したり、コメディパートがあったり、一筋縄では行かないというかちょっと、ずれている。その真相にもキラーボブという土地の悪霊のようなものが関与している。ここまでの話でいくと、ツインピークスというのはいかにもテレビドラマ的な要素の「お約束」が継ぎ接ぎにされたフィクションである(①)一方で、その真相というか核には、無時間的な霊験の世界があって(③)、①の筋で操作をしていけば③の真相に辿り着くというわけではなく、これが乖離している、(このお約束と乖離のバランスがにゃんこスター的だということだと思うのだけれど)という点に読みながら合点がいった。

モンティ・ホール問題の話は2015年9月28日の日記に登場する。これは確率論の問題で、モンティホールというクイズ番組で、三つの扉のどれかの向こうに景品があり、回答者がそのうちからひとつを選ぶ。選んだ後で、クイズの司会者が、回答者が選ばなかった二つの扉のうち、はずれの扉をひとつ開く。そこで回答者には、最初の選択を訂正するチャンスが一度与えられるのだが、回答者は変更すべきかそうでないのかというのが確率の問題になる。
一見、変更をしても正答率が3分の1であることには変わらないので訂正の必要がないように思われる。しかし、実は扉の選択を訂正した方が正答率があがるらしい、というのだ。というのも、扉が三つであった時にはそれぞれ3分の1ずつだった正答率が、司会者がはずれの扉を一つ開いた瞬間に、回答者が最初に選んだ扉以外のいずれか二つが正解である、3分の2という確率をもう一つの残った扉が引き受けるので、回答を訂正した方が正答率が2倍になるという論法らしいのだ。
興味深いのは、古谷がこの、一見過去に遡って確率を書き換えるかのように見えるクイズの司会者のはたらきを「リンチ的」だという点である。モンティ・ホールの番組の雰囲気は私に馴染みのないものであるが、ここで連想したのは2004年から日本で放送されたテレビ番組「クイズ$ミリオネア」である。回答者は出題者と対峙して、四択問題に答え、正解し続けていくと15問で最後に一千万円を獲得する。



番組では、回答者が解凍した後に正解/不正解を告げるまでの司会者、みのもんたの睨みの表情が見せ場となっているが、この心理戦めいた演出は、クイズというゲームと乖離している。司会者は別に、回答者にヒントを出すわけでもないし、問題の答えを知ってはいるが、クイズのあらゆる背景知識を有しているというわけではないだろう。ただ、回答者の前に現れ、このゲームの番人であるかのように振る舞っている。
言い方を変えれば、クイズというゲームと回答者と司会者の睨み合いというのが乖離しているということなのだ。最悪、出題者である番組司会者がいなくてもクイズというゲームは成立する。司会者が正解/不正解を告げるまでの睨みは、あたかもそこでクイズの正解/不正解のサスペンスがそこで掛けられているような雰囲気を醸すが、そんなことは少しもない。この乖離の加減とか、ショーとしてのチープさ、もっと言えばゲームというフィクションの上で超越的なキャラクターを担うのがワイドショーの司会者をするようなテレビタレントというルック自体がデヴィッド・リンチっぽいと思ってしまう。みのもんたが現代におけるメフィストフェレス的ななにかを演じるというチープさは妙にリアリティがないだろうか。
というのは、古谷が言及した「お約束」と「乖離」という主題が導き出した、リンチのまったく映画っぽくない俗っぽい部分、というか聖/俗の入り乱れ方の部分からの連想だった。この話が役に立つかどうかはわからないが、次はやっと『セザンヌの犬』を読む。


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