マイケル・マン監督『フェラーリ』(2024)短評

ホテルのそれのように折り目正しく整えられたシーツに横たわるスーツの男がかかってきた電話のベルに起こされ受話器を掴み、第一声「PRONTO」と答えるところまで、まずそこまでは、マルチェロ・マストロヤンニが演じる20世紀のイタリア映画の一幕を思わせる。しかし、続いて男の口から矢継ぎ早に繰り出されるいんちき関西弁の胡散臭い小気味よさを思わせなくはない、イタリア語訛りの英語を聞くやいなや、いくらこれがマイケル・マンの映画だと分かって劇場に足を運んでいたとしても、観客はその唐突で場違いな言語に居心地の悪さを覚え、どうしても驚きと恥じらいを隠せなくなるだろう。そもそもルックがブライアン・シンガーの『ワルキューレ』(2008年)か、リドリー・スコットの『ハウス・オブ・グッチ』(2021年)くらいのキッチュな喜劇性を纏っていれば、アダム・ドライバーの白髪や老けメイクのコスプレとして笑って済ますこともできたかもしれない。しかし、それにしてはこの映画のヴィスコンティのような照明の暗さ、落ち着き払って噛み合ったエンジン音と運動のリズムとは、観客に笑いをこぼす隙を許さない。こうして映画はその後も巫山戯ることに失敗し続け、眉に皺をよせ、顔を顰めつつも、身振りとしては滑稽な奇行や愚行を繰り広げる。

マイケル・マン老年の最新作『フェラーリ』とはおそらく、そのように何重もの時代遅れによって、喜劇であることに失敗し続ける感動作のようだ。それは先に述べたように20世紀のイタリア映画のルックを持った21世紀のアメリカ映画であるし、ヴィスコンティの見た目をした1943年生まれのアメリカ人の映画である。マイケル・マンが喜劇やハッピーエンドの映画を撮る監督でないことは織り込み済みだが、近作『ブラック・ハット』や『マイアミ・バイス』のように比較的実験や自由に傾いた作品でさえ、勧善懲悪とミッションの達成という大筋だけは手放さなかった。それなのに今回は少しもプログラムピクチャーらしい軽やかさを持ち合わせない。エンツォ・フェラーリの伝記映画という口実に託けて、ベルトラン・ボネロがイヴ・サンローランを描いた時のように、作家が実在の人物に自身の感性を投影して映画を崩壊させようとし、野蛮な身勝手さで映画はぼろぼろに軋んでいる。

本作が、こうしてどうしてもアメリカ人が作ろうとしたヨーロッパ映画であるとき、それはリドリー・スコットやブライアン・シンガーのようなコスプレ企画とうって変わって、本当にヨーロッパの20世紀の作家映画のようになろうとする。しかし、そのために実際にここで起きているのはアメリカ人としての個性がむしろ一層際立つようなヨーロッパ映画からの拒否反応を受け取る。作家が憧れた先の先行作品に同化しようとするほど、異国の映画と異国の情緒から拒絶されるマイケル・マンの痛ましい症状がこの映画の随所に現れ、その傷口を自覚して今度はその優れた演出手腕で壊れた物語を映画のリズムの中で無理やり縫合しようとする痛ましい手術跡そこかしこに走り回り、突飛なカメラワークと画面構成とが歪な外形をつくりだす。

ところで、20世紀のヨーロッパ映画についてつらつらと語る余裕も見識も私にはないが、それでもはっきりと言えるのは、それは転落の時代を描いた映画ということだ。戦後のイタリア映画は警察車両に取られた夫の名前を叫びながら車を追いかける『無防備都市』のアンナ・マニャー二とともに始まる。恐ろしい形相で私たちの暮らしを追いかける女。家族を失って怒りに燃える女。イタリア映画に限ってみても、フェリーニやヴェロッキオをはじめとして、この国の映画は息子と母の物語ばかり描いてきたし、転落する国家や社会に巻き込まれる家族と対立して、個人の生活を守るための反社会性を発揮するのはおそらくそこで母親だった。

「転落」と「楽天」というささやかな日本語のアナグラムが私に想像させるのは、明るい作法が暗い話をなんとか語ろうとする歪さである。もしかするとマイケル・マンはもうこれ以上発展することはない20世紀のヨーロッパという「転落」の映画風景を、これから繁栄を迎える20世紀のアメリカ映画の「楽天」的な作法で読み替えることにあったかもしれない。そしてそれが可能になるのは、つまりアメリカ映画がヨーロッパの没落に同調できるは、21世紀の転落の時代を生きるアメリカ映画なのだろう。こうしてやっと、なぜマイケル・マンが息子の死というモチーフを描くのかという問いに立ち返ることができるだろう。まず、劇の外での息子ピエロの病死、そして試運転中のレーサーの事故死、最後に1957年ミッレミリアでのデ・ポルターゴの事故死。劇中では三人の息子(格)たちがフェラーリの前であの世へ誘われる。転落から楽天へ、ヨーロッパからアメリカへ。そのような読み替えの試みは母の手から息子を奪還する父の物語を綴るためのお膳立てだった。

レーサーではなく、会社の経営者であるとともに設計者として描かれるエンツォ・フェラーリの造形は、宮崎駿『風立ちぬ』(2013年)の堀越二郎を彷彿とさせる。飛行機という人工物の飛翔と造形に魅せられた芸術家のように描かれる堀越は、戦時中の兵器開発者という二面性を与えられているが、なによりそれは乗り物の設計者であるという点でフェラーリに似かよる。そしてなによりも、彼ら二人は息子たちを死へと送り出す棺桶としての乗り物の開発者であり、それゆえに『フェラーリ』はそこはかとなく戦争映画の匂いを帯びる。『風立ちぬ』が「君死にたもうことなかれ」と戦争に反対する反社会的な女たちの怒りを描き損ねたことと引き換えに、本作は設計に伴う手作業の快楽を『風立ちぬ』ほどには描かなかった。では、あらためてこの映画の見どころとはなんなのか。

完全に余談だが、一緒に映画を見ていた配偶者が、「怒ってるペネロペ・クルスが車と同じくらい迫力があって恐かった」と言っていた。たしかに、これは母親と自動車の対立する映画なのだ。母親たちが息子をこの世に送り出すのが子宮だとすれば、それとちょうど対比になるように父親たちはあの世へと息子を送り出すための乗り物を設計する。冒頭に登場するささやかな教会のシークエンスで説法が教会建築と自動車の類似性を強調する。ブニュエルにしてもフェリーニにしてもヨーロッパの、もう転落するしかない社会の映画が楽天的になれるのは現実逃避の喜劇の中だけであったし、ヨーロッパのそれはとりわけキリスト教へのパロディを含んだ。

オリヴェイラの『アンジェリカの微笑み』のように、その元ネタとなった『淑女と拳骨』のように、あるいはカンディンスキーの絵のように、ゴダールの『ウイークエンド』のように、『フェラーリ』の自動車事故で人が死ぬシーンは軽やかな楽天とともに、喜劇の一場面としてもちろん浮かび上がる。それは、あの世への大事な人を送り出す時の後ろめたい祝祭の空気を帯びている。これは喜劇である。しかし、それを喜ぶことのできない倫理の中で、真面目な顔をして巫山戯ることに失敗する父親の苦虫を噛み潰したような顔がこうして映画の画面にはずっと張り付いてはいなかったか。

そういえば、フェリーニの実現しなかった映画企画『G・マストルナの旅』とはたしか、冥界探求をする少年の話であった。

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