『チャレンジャーズ』短評

大いに笑って、大いに楽しんだ。しかしこんなことに、こんな愉しみに怠けていてはいけないということを一番強く思った。だってこれでは、あまりにも老体めいた娯楽映画ではないか。

アートとパトリック。全寮制の名門校で10代から互いに切磋琢磨して育ってきた二人のテニスプレイヤー。男の子たちは決して運命的にも、偶然にでもなく、二人が励んできたスポーツの行きがかり上、狭いコミュニティの当然の成り行きとしてタシ・ダンカンという同世代のスタープレイヤーと出会い、三角関係に陥る。二人の恋と、彼女の怪我、選手たちの成功と挫折。この三人の恋愛劇が少しもはらはらしないのにはいくつも理由がある。時間軸を交錯させる脚本が結末を先に約束していること。三人の人生がテニスの試合の比喩で語られ続けること。結局、この二人の男というのは競い合うライバルに見えて、一人の人間の二つの人生のような双生児であること。だからこそ二人のキスシーンには、ぞっとするナルシシズムのグロテスクさは感じても、恋の結末にめまいをもよおすことは微塵もない。
タシ・ダンカンの怪我のシーン、膝の付け根の筋がぴきっとちがえるCGや、真下からのありえない構図、カメラの前を通り過ぎるアップのボール、またはボール目線でカメラが動く歪な主観ショット。「ありえない」視点の演出がつくりだすのは「ありえなさ」の意外性や驚きではもちろんない。生まれるのは、極端な作為性と制御された予想通りの盛り上がりがやがてやってくるという安心感。安楽椅子に座ってなにひとつ能動的に何かを探すことなく、ストレスフリーに感情がコントロールされる全能感。この過保護なエンタメ、どこかで見たことがあると思ったら、庵野秀明『シン・ゴジラ』(2015)の極端な作為性にとてもよく似ている。凝った撮影は少しも筋書きに先行して演出されてはいない。徹頭徹尾、脚本の映画なのだ。

決してそんなことはないと思うが、もしスポーツがこの映画で描かれるようなものであるならば、そこには肉体の喜びはほとんどない。この映画でのスポーツの喜びは人生すべてが「スポーツ」というシンプルなルールの中に閉じ込められる言語的単純さにばかりある。
裏を返せばこの人たちは実人生で成功した金持ちの子どもにすぎないのだ。裏で複雑な人生と複雑なマネーゲームと複雑な責任政治にうんざりした老人たちの醜い不随意な肉体が垣間見える。老いた彼ら彼女らが自分の子どもたちの若い肉体に、勝敗も成功と失敗もひとつの記号ゲームに単純化される夢を見ている、のかもしれない。
たまたま最近見た、クレール・ドゥニの『美しき仕事』のような次にどんなふうに動き出すか、わからないみずみずしい裸の身体の喜びはここにない。加工され、若返りを施され、スローモーションとCGで厚化粧されたグラマーな肉体が筋書き通りプレーを遂行する。グァダニーノが同性愛を描く映画監督としてキャリアを築いたことを、自らネタにするような小ネタが随所に散りばめられている。しかし、クィア監督のなによりの大ネタはこれがどこまでも予定調和の、厚化粧の美青年たちによるエキシビションマッチにすぎないとうことだろう。

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