見れない映画12:『セザンヌの犬』を読む(後編)①


0.前提に関すること

やっと『セザンヌの犬』を読むことができる。しかし、私はこの本を読むことができない。何が書いてあるのかさっぱりわからないところが、かなりある。ただ、一方、一度この本を読んで感動したこと、なぜ感動したのかということを既に書いた。

「川べりの女の子はまだ空を見上げている。凧はどんどん高く、どんどん小さくなってゆく。凧をずっと見ていると、そのまま凧と一緒に自分自身も消えてしまいそうに感じた女の子は、あわてて視線を、ずっと男の子たちの声が聞こえてきていた足元の方へ落として川を見た。川面には真っ青に晴れた空が映っていた。くらくらっとめまいがして、上下が逆転し、女の子は空の上へみるみると落下しはじめた。川の中の三人も土手の三人もすぐにそれに気づいたが、どうすることもできなかった。だがあなたは、後ろ側のトイレにしゃがんだままでゆっくりと手を伸ばし、落下する女の子の手を掴むと、ぐいっと引き戻し、そのまま自分の部屋に連れ帰った。その女の子がわたしで、そのようにして、わたしはあなたの部屋にやってきて、あなたとわたしは姉妹になった。あなたは、トイレットペーパーを取りに行かせるためにわたしをここに連れてきた。

『「ふたつの入り口」が与えられたとせよ』古谷利裕『セザンヌの犬』より

『「ふたつの入り口」が与えられたとせよ』(以下、『「ふたつの…』)の以上の箇所より、「その女の子がわたしで、そのようにして、わたしはあなたの部屋にやってきて、あなたとわたしは姉妹になった」の部分で起きる劇的な視点の転換を、デヴィッド・リンチの映画のようだと感じ、それに心底感動した。これは理屈ではない。リンチであることがすごいのではなく、リンチのようだ、ということは私にとって夢の描写であることを意味し、言葉にできないと思っていたものが言葉にできるようになった体験をし、それに感動したがこれがなんなのかというのがここまでの動機になっている。私は古谷の小説のなにもかもを読むことができないが、読めないなりにどこまでならなにがわかるのかという思考の枠組みをいくつか組み立てる。ここにあるのはただ、それだけのことである。
ところでリンチには『大きな魚をつかまえよう』という本がある。創作に役立つ瞑想についての導入本である。

私個人にとって夢の知覚というのは、読み、書くことととても近いなにかだが、同時にそれはあくまで知覚で、言葉の外にある身体の感覚である。夢について考えることは、この知覚を言葉におこして、再現可能、思考可能なものにすることを意味している。と書くと目的とか機能とか役に立つとか、ぜんぶつまらないことみたいだが、面白くないシンプルで明確な言い回しだとそういうことである。古谷の小説について考える。それは私にとって、たぶん最後、それまで知覚という経路をたどってしかアクセスできなかった部分に言葉で踏み込み、(無)意識とは何かについて道具を獲得することである。これは(無)意識という大きな魚を捕まえるための網を編む作業になる。

1.『「ふたつの入り口」が与えられたとせよ』のこと

まず、『「ふたつの…」から古谷の小説の道具立てのいくつかを炙り出してみよう。茫洋としたあらすじを無理につくるとすればこのようなものだ。

「前側を、手袋を裏返すように反転させた間取りが後ろ側に付け足され」た部屋に住むあなたの視点で語られる二人称の小説。一旦そうしておく。便意をもよおしてトイレで便器がわりのフライパンの上にまたがるあなたは、七人の子どもたちが川べりを走る光景を突然直感する(小説ないではただ「知る」とある)。それから、先の引用部分のように、子どもたちの一人が空に浮き上がり、あなたがそれが「わたし」であると知ることを通じて、「わたし」を部屋に連れ込み、二人の生活が始まる。二人の暮らしには、オフィスで働く夢を見るあの男が紛れ込み、あの男はあの男とこの男に分裂する。わたしは、男たちに認識されることに失敗するせいで消え、残ったわたしの憤りを男たちが喰らい、排泄された下痢便が仏壇への供物になり、あなたは消えたわたしの幽霊を見るようになる。その先では、別視点として川べりをを走る七人の子どもたちの様子が語られ、そのうちの一人の女の子が、反転させた間取りの後ろ側に暮らしているようである。あなたとは、川べりで遊んで帰ってきて自宅で眠る「わたし」である彼女の見た夢のようなものとして着地するように見えるが、解釈は確定できない。

読み返してみて、『「ふたつの…』は、『マルホランド・ドライブ』(以下、『マルホランド』)とよく似ている。特にそう思ったのは、ここだ。

あなたは、わたしが消えてしまった後のあなたとわたしの部屋へと、とんとんとんといきおいよく階段をのぼってやって来て、後ろ側の入り口から入った。ポケットのなかにはまだ、友人の姉からもらったキャラメルが二粒入っている。おかあさんに見つからないうちに食べてしまわなければ、とあなたは思う。一粒を口に入れると、タンスの中から手袋を取り出して、それをくるっとひっくり返し、そのなかにもう一粒のキャラメルを入れてタンスに戻す。それはきっとわたしにくれたものなのだろう。でももう、それではわたしに届かない。
逆立ちしてみて、とあなたに向かって声をかけようとしても、消えてしまったわたしの言葉は空気を震わせることができない。キャラメルをわたしに届けるには、あなたが逆立ちして、キャラメルも逆立ちさせてみて、もう一度、強い思いを込めて言葉を伝えようとする

『「ふたつの入り口」が与えられたとせよ』古谷利裕『セザンヌの犬』より

逆立ちしたままで、というわけではないが、あなたは外へ出かけていった。キャラメルはわたしのもとに届いた。しかし、消えてしまったわたしにはそれを食べることができない

『「ふたつの入り口」が与えられたとせよ』古谷利裕『セザンヌの犬』より

以上の箇所に登場する、幽霊となって消えてしまった「わたし」にとって「裏返し」のもう片側の部屋に住む「あなた」とのあえかな通信手段かのように取り出される「キャラメルの箱」はどうも『マルホランド』の「青い箱」を思わせる。それでこれを縁に『マルホランド』になぞらえてこの小説を読むことができないか試みる。
前回参照したので、またいちいちあらすじを述べることはしないが、一般的な解釈が、夢破れて同性の恋人カミーラを恨んだダイアンの悪夢であることはすでに書いた。そのように解釈できるのは、ベティのパートよりもダイアンのパートのほうが現実「っぽい」からだ。この確定できないが、現実「っぽさ」は、「『ふたつの…』の川べりを歩く子どもたちの「わたし」のほうが現実っぽいその「ぽさ」と似ている。というのは事実の密度の話で、川べりを歩く子供の描写である「わたし」の側は、フライパンを便器がわりにして別の世界の様相を直観する「あなた」よりもいくらか現実社会染みているというだけのことだが、ここから『マルホランド』がリタの物語から始まることに絡めてリタと「あなた」とを重ねて「あなた」の視点で『「ふたつの…』を読んでみると、「わたし」とはダイアンであり、男たちというのは映画監督たちであり、その男たちが分裂したり、自分たちの器官をばらばらにして再構成(ペア化)して夢を見る様は映画の制作現場であるというふうに一旦は図式化できる。
そうしたとき、映画においては(『めまい』で見たような)「顔」、つまり言葉の外の身体としたものが、「わたし」「あなた」という人称によって『「ふたつの…」では担われていることがわかる。
つまりこういうことである。リタが「あなた」、ダイアンが「わたし」だとするのならば、『マルホランド』における二人の女優が演じる四つの役には四つの対応物が小説に用意されることはなく、リタ/カミーラを表すローラ・ハーリングの顔は『「ふたつの…」では「あなた」に圧縮され、同様にベティ/ダイアンを演じるナオミ・ワッツの顔は「わたし」の人称に圧縮される。
『めまい』を通じて確認したように、言葉でできたフィクションの次元(①)外にある身体の次元(②)は、そのように外にあるために直接表すことができず、間接的に言葉の機能不全によってしか表象できないものだった。『「ふたつの…』に照らし合わせると、これも前回確認したようにそれだけで自立できない言葉のコミュニケーションがその担保として②の側に錨のようなものとして投げる人称「あなた」や「わたし」が、ちょうど映画における「顔」のような機能を、つまりそれは誰の台詞で、これは誰の視点かを言葉に補う機能を担う。
ここまでは、普通の小説も同じである。しかし、古谷の小説からは私たちにそのことに気付かせる。「あなた」「わたし」という人称は小説内の言葉であると同時に小説の外にある作者らしきものと読者らしきものをそれぞれ指し示す指示語のような役割を果たし、完全に対応するわけではないが、映画において言語外の身体の表象とよく似た役割を部分的に担うことができる。ここからが古谷の特徴で、この人称の混乱をきっかけに身体への奇妙な異化効果が投げかけられる。順番に見ていく。
古谷の小説はいずれも10〜20くらいの叙述のブロックで一編が講師絵されており、視点や場面はブロックごとに変わるのだが、『「ふたつの…』では「あなた」視点の二人称小説が「わたし」の視点、今回で言うと川べりを歩く七人の子供の視点を取り始めた時に、「わたし」の視点においてさえも「あなた」という二人称を無理に維持しようとして奇妙な事態が生じる。

子供たちが走っている。わたしはあなたの目を通じてそれを見ている。いや、わたしはそれを見ているが、あなたは見ていないかもしれない。見る、というのとは違うやり方で感知している。仏壇の上であなたとわたしは並んで置かれている。あなたの振動がわたしに伝わり、それでわたしにも見えるのだ。子供たちが走っている。

『「ふたつの入り口」が与えられたとせよ』古谷利裕『セザンヌの犬』より

「あなた」は「わたし」の視点を共有して、七人の子供たちと川べりの光景を見ている。まるで憑依したように、「あなた」は「わたし」の目を通じてそれを見ているはずなのだが、ここでは「わたしはあなたの目を通じてそれを見ている」とある。この奇妙な憑依状態にぎょっとすると同時に、直感的に憑依関係が逆になっていると感じられるのでここには一挙に二段階のジャンプがある。
まず一段階目として、別々の時空間に属するので交流できないはずの「あなた」と「わたし」が交流する時に起きるのは、その無理ゆえに、二人の人物ではなくその別々の世界、夢と現実のように互いに隔たった別の時空間という互いの背景文脈同士の交流が起きている。そして二段階目で、この憑依関係が逆になるところで、二人の関係がねじれてしまったような記述になる。私にはそれがなんのためになされて、どんな効果をもたらしているのかすぐにはほとんどわからない。
通常の小説というか、通常の文章にとって「あなた」とか「わたし」が出て来たら、その人の視点で見聞きしたことがしばらく語られ、「わたし」が「わたし」のいない場所で起きたことを滔々と語り始めたらギョッとする(岡田利規の小説ではしばしばそういうことが起きる)、ということを一旦確認しておくとその異常さがわかる。
ただ、むしろそれは映画や演劇であるとよくわかる。カメラワークや舞台の設定には固定の視点というものがない。文章でなければ、一人の人物の視点や、客観三人称というものに必ずしも徹する必要はない。しかし、古谷の人称の異常さはその限りではない。もう少し詳しく見てみよう。一つの記述の中に複数の人称が入り乱れている。それによってこれは一体、誰の視点で何が起きたことなのか段々とわからなくなる。なんのためにそんなことをするのか、と言ったが、それ以前にこれではどんなふうに小説が始まって、どう終わるのかというのもよくわからない。しかし、それは直感的には『マルホランド』のような「どちらが夢でどちらが現実かわからない「めまい」」を実現してもいるようにも見える。本当にそうだろうか、というのがわかるまでつらつらとここで考えてみるのだけれど、ひとまず、人称に注目しながら他の小説も見てみよう。

2.分身と入れ替わりに関すること

一つの記述の中に複数の人称、複数の視点が入り乱れること。その極端な例を見てみよう。

姉は、あの男が過去につき合ったすべての女性たちがそうだったように帽子屋で働いていた。木曜と金曜はパンと水だけで過ごした。週末が近づくと自分の手足がとても遠くにあるように感じられるという。あんなに遠くにある手がわたしの指示通りにパンをつかみ、ちぎり、そしてそれを正確にわたしの口元にまで運んでくることが奇跡であるように思えるのだとよくわたしに漏らす。姉はしばしば、自分の両腕が抱えることの出来る空間の大きさに途方に暮れることがあるという。ベッドに腰掛けて足の爪を切る動作を太陽の周りを廻る地球のようなスケールでイメージするのだと、姉がわたしの彼に語っていたことを後になって彼から聞いた。彼は、それを聞いて姉の腿から足先へのびてゆく素足の遠くなだらかな稜線と質感を想像してとても興奮したと言いながらわたしに迫り、耳を噛んだ。わたしの彼はバカなのだ。

『グリーンスリーブス・レッドシューズ』古谷利裕『セザンヌの犬』より

『グリーンスリーブス・レッドシューズ』の冒頭である。
「姉は」と始まるが、あとから「わたし」が登場することからこれは英語で言うと「my sister」だろう。するとこの「姉は」の時点でこれは一人称の記述なのだ。「姉は、あの男が」まで進んだところで、登場人物は「姉」「わたし」「あの男」の三人となる。「あの男が過去につき合ったすべての女性」で、「すべて」を数えるために視点の中心があの男に移るが、この「あの男」はこの小説にそれから二度と出てこない。「木曜と金曜は…感じられるという」まで日本語特有の主語のない文章が続く。この主語は、おそらく「姉」なのだが、「わたし」かもしれずここまででは確定できない。「…とよくわたしに漏らす」でようやく「パンと水だけで過ご」すのも「手足が遠くにあると感じる」のも「姉」だとわかり、そこで「わたしの指示通り」、「わたしの口元」の「わたし」は主観的な描写を強調する修辞的なもので、「わたし」ではなく「姉」を指しているという目算が立つ(実はこれは、その先を読むと本当にそうなのかわからなくなる)。
その先では一旦、このような人称の揺れはなくなり、別の揺らぎが生じる。これが「わたし」という一人称を前提にしていることは先に確認したが、(一瞬、「あの男」が中心に現れるものの)、視点人物として主体的に描写されるのは「姉」である。つまり一人称小説かのように見えて、実際には「姉」について描写する「わたし」が三人称的な語りの位置にいるのだが、その三人称的な位置が「姉がわたしの彼について語っていたことを後になって彼から聞いた」のところで壊れる。この「後になって」という時間はいったいいつのことなのだろう。いきなり「後になって」とか言われて、それまでの三人称的な位置にあった「わたし」のところに継時的な時間が流れていないことに気づく。だから、「姉」の腿を想像して「わたし」に迫り彼が耳を噛む出来事の描写的な挿入があまりに唐突である。そして文章は「わたしの彼はバカなのだ」という「彼」についての描写かのように終わる。疑問は二つ残る。「わたし」の立ち位置はどこにあるのだろう。この文章の視点人物は一体誰なのだろう。

私なりの結論を言うとこれは、姉の身体のリーチの中の話である。古谷の小説はどうも「このような」、というのも難しいが、このくらいの長さに前後した10〜20のテキストで成り立っていることは先に述べたがその中身は誰かの視点を、つまり、「誰の話か」ということを前提にしていない。一見どうやって成り立ち、どう凝縮し、どういう動機で終わるのかわからない話だが、おそらく場所の話であるというのが妥当ではないだろうかと思うのだ。『「ふたつの…』は、「手袋を裏返すように反転した間取り」を持つ部屋の話、『ライオンと無限ホチキス』はギャラリーと隣接する「あなたたち」の家の話、『ライオンは寝ている』は二人の侵入者が訪れる木造家屋を、『右利きと左利きの耳』は海辺の中学校を、『騙されないものは彷徨う』は祖父母の夢を見ている人のところに電話がかかってくる部屋を舞台にしていると一旦みなすと、いくらかの見通しが少しは付けられそうである。これをまとめたもっといい言い回しがある。

現実/夢という二項対立で考えるなら、世界1も世界2もわたし1もわたし2も、どちらも同等な夢であり、現実はただ「ねじれ」としてあらわれる。「ねじれ」以外のものはあやふやで、書き換え可能ですらあるが、「ねじれ」そのものからは逃げられない。
そして、このような状態がリアルなのは、そもそも「わたし」というものが、内的な行為としての「わたし」と、外的な観測者としての「わたし」という風に、二つの異なる階層にまたがる「階層性の破れ」として現象するものだからなのではないだろうか。」2015.10.04

古谷利裕「偽日記」2015.10.04

古谷の「偽日記」から引用だ。驚くべきことに、これは小説に関するものではなくリンチ『ロスト・ハイウェイ』の作品評である。むしろこれが、古谷の小説にそのままあてはまる説明になるのではないだろうか。まるで世界1と世界2であるかのように、どちらが夢でどちらが現実と定まらないまま互いに夢と現実の関係にあるような複数の世界があり、『グリーンスリーブズ・レッドシューズ』では、「姉」に対して外的な三人称的な観測者かのように現れた「わたし」が内的な行為者となることで「姉」と「わたし」の背景にあるそれぞれ別々の世界が混じり合い、混じり合った時に人称が「階層性」の破れとなって残る。このように世界同士の接地面で、人称によってところどころ破れた平面のようなものとして古谷のテキストは出現する。そこに一貫性を持たせるためなのか、ねじれをねじれのまま出現させるためなのか、いずれか不明瞭なまま、今回で言えば「姉」と「わたし」は混じり合い、同じ視点を共有する。『「ふたつの…』や『セザンヌの犬』や『騙されない者は彷徨う』であれば、「あなた」と「わたし」が、『ライオンは寝ている』であれば4万年前の記憶と「兄」が、『右利きと左利きの耳』であれば今の「わたし」と中学時代の「わたし」が混じり合う。これを「多孔式の記述平面」とでも呼ぼうかと思う。
まとめると、古谷の小説とは複数の人物が夢を見ることで一つの視点を共有して、世界の描写に穴を開ける「多孔式の記述平面」であり、その平面同士のさらなる重ね合わせによって出現するひとつの時空間である。

前回、『遠い触覚』の『ロスト・ハイウェイ』評のところで、「分身と入れ替わり」について「分身」の話だけをした。目の前の男が、同時に「わたし」の自宅にもいる。その奇妙な現象によって人称の揺らぎが生じ、「ありえない奇跡が起きる」。つまり、「奇跡」とはフィクションにおいて人称のバグであるという話だった。
「入れ替わり」のほうが、『ロスト・ハイウェイ』と言えば、一層有名なエピソードである。刑務所の独房にいた男がある日突然、別の男に入れ替わり、それについて何の説明もされない。この二つの奇跡についてフィリップ・K・ディックの『流れよ我が涙、と警官は言った』から抽出した定義のようなものをつかって、『ロスト・ハイウェイ』で何が起きているのかかなりアクロバティックな説明を試みる。

空間についてのひとつの概念はこういうものだ。あるひとつの単位空間はその他すべての単位空間を排除する(A)。ひとつの物体がそこにあそこにあれば、それはここにはない(B)」

保坂和志『遠い触覚』

保坂が説くように(A)は「入れ替わり」を排除する説明で、(B)は「分身」を排除する説明だ。前回の話で言えば、この両者は神の徴として「ありえないからこそ起きる」奇跡であったが、ではなぜそれは起きるのか、というか、なぜありえないことをなぜ私たちは想像したり思考したりできるしするのかという問題がある。これを古谷の小説の問題として考える。現に、階層性の破れとして出現する人称は、「わたし」の側から見れば「わたし」という場所に出現する「わたし」と「あなた」という矛盾(A)であり、世界から見れば、世界1と世界2に同時に出現するという矛盾(B)である。
それはすべて夢である、というのがこの矛盾への答えだが、これは解決策でなくただただ、わたしたちの思考において「夢」というものの意味を広げる。つまり、「分身と入れ替わり」という経験世界ではありえない奇跡が「夢」の中では可能になるのだから、では私たちはなぜそのような意識構造を持っているのか。これはフィクションというものの構造の根幹に関わる問いだし、その関わるところが古谷の小説の普遍性にまつわる賭け金であると私には思われる。

脳科学でこうした実感を持った意識のリアリティがすべて説明できるとはあまり思わない。しかし、脳科学者マイケル・S・ガザニガの『<わたし>はどこにあるのか ガザニガ脳科学講義』に、右脳と左脳の間にある橋を切除した患者の症例から、脳が同じ問題を別々の神経細胞が重複して処理していることを明らかにした事例が紹介されており、私は以前に、「『インサイド・ヘッド』から『ミッドナイト・ゴスペル』へ――「私」さえいなくなれば、きっとこの苦しみも悲しみもなくなる」という論考で、これを引いてアニメーションを題材に、人間が単一的な人格であると同時に、複数の人格が相談する場であるという論を書いた。アニメ映画『インサイド・ヘッド』では、というか前回触れた天使と悪魔のように、私たちは私たち個人の中に複数の人格があってそれが相談するかのようにして判断に迷うという、それはフロイト的な自我の問題にしても、ユング的な心の類型にしても、パースの心の構造にしても、先に説明した神経心理学のリアリティにしても共通ではないか。つまり、他人にとって私は意思決定をする一つの人格だが、私にとっての私は複数の人格が判断を迷う場である。

自由意志があるかどうかは知らないし、ここでは大した問題ではないが、重要なのは意思決定力が弱まり、判断に迷い、私が複数化する。この私の複数化、というのは神経科学の面でも、それを直観する心理学の面でも正しいというのが、私の『インサイド・ヘッド』評である。対して、責任主体としての私の単一化を期待する機構が社会的な現実である。社会的な現実がいわゆる「現実」ではなく、それ自体が社会の「フィクション」であるという話もすでに前回した。

いわゆる小説なり、映画なりのフィクションの役割というのが社会が持っているこうしたフィクション性の説明とか強化とかではぜんぜんなくて、そのフィクションの起源に遡り、それがフィクションであることを解体することに小説の役割がある、というような話が保坂のエッセイにはたびたび出てくるが、まさしく私がこういう思考の元に見ているのはそういうものである。
ここからはまったく余談、というか映画の話をしてきたほうに少しだけ戻ると、第10回でしていた「ハリウッド」というのは、私にとって同時代のゴシップではなく、同時代の「資本主義」のフィクションの喩であった。身近な喩とは言い難いが映画について考える時には避けられない喩である。実際に「ハリウッド」について考えることは、現在の「ハリウッド」のフィクションを別の時代の「ハリウッド」と比較して解体する試みを伴うが、すでに見たようにおおかた一世代さかのぼって「昔はよかった」で終わるのが関の山だ。それで解体は片手落ちになる。それで、戦前まで遡ってのより徹底的な解体ができるかどうか、について蓮實、ゴダールがより徹底して見えるのは彼らが老人だからに過ぎないと(一旦は)私は思っている。
年代記的に時間を遡ることで社会的現実をなすフィクションを解体する一方に手段としてあるとすれば、古谷、リンチがやっているのは別のやり方、主観性を徹底することで目の前のフィクションを穴だらけにする認知的な方法のようだ。「わたし」とそれを取り巻くフィクションがあるとすれば、前者がフィクションを壊すのに対して、後者は「わたし」のほうを壊してしまう。本来、言葉が言葉の外に担保として持つべき身体をこわすこと、これは原理的にはできないが、それと紐づく人称の機能を壊すことで身体が壊れたような錯覚を引き起こす。ではそれはいったいどうやってなされるのか、もう少し古谷の小説の「意識」の扱いを見てみよう。

(さらに余談だが、蓮實重彦の批評は、そういう意味で戦略的に客観性を欠いているように。客観性という安っぽい虚構の偽装にそもそも興味がないということかもしれないけれど、蓮實の評の強い主観性はむしろ別の形で、古谷、リンチの側にある)


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