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心配だった1週間の沖縄合宿が無事終わり、
長らく投稿できていなかったnoteに帰ってこれた。
気づきや思い、思想、こだわり、価値観などがあふれ出し
書き留めておかなければその内なかったものになりそうだと思った。
そういうものは沸き起こった時に書き留めるのが
思いの温度を保っておけるのだと思う。

私の仕事は発達障害に関するありとあらゆること。
ほとんど一人で行ってきたので、
いろんなことの経験が積みあがっている。

現場を見ていて最近強く思うことがある。
保護者や支援する側の人が勘違いしていると思うことがある。

障害を受容し、
障害の環境(たとえは、支援学校、障害者就労事業所など)に
子どもや当事者を置くことで安心すること。

けれど、その事で彼らの未来が保証されたわけでも
彼らの毎日が守られているわけでもない。

意地悪をされている側の子どもが
違う環境では意地悪をする側に転じる。


障害児であるために辛い思いをするなら
同じような障害児が集まる環境なら大丈夫だろうと勘違いをしてしまう。

障害児が集まる環境にも
同様にヒエラルキーが存在し、
障害様によって意地悪をしたり、されたりは普通にある。
かえってその環境の方が辛い思いをする子も居たりする。

反対に分け隔てない環境下では
自然と助け合うことができたり、
助けてもらえることも多い。
人間の世界だけが弱者でも生きていける助け合いが存在する世界なのです。

もちろん、過度な配慮や余計な手助けもあるかもしれないけれど、
取り組むべき課題もハードルが高い故に
その子の可能性を見ることができる。
簡単にできることで能力が伸びていくことは少ない。
もちろん知的障害があり、
基礎的なことを積み上げるために
繰り返し行うことの大切さもあるが。

火事場の底力じゃないけれど、
追い詰められて出せる力も大いにある。
底力を出せる機会を与えられるというのも必要なのだ。

差別をされる側が差別を生んでいることもよくある。
障害者が自分とは違う障害を持つ人を差別するなんて当たり前にある。
国境を作ったから
国どうしの争いが起こる。

塀を作るから
その塀の外と中ができる。
満足できる環境が外にあるのか?
はたまた内側にあるのか?
満足できる環境なんて存在しなくって
じゃぁ、塀の外と内とどっちで生きるのか?というと
やっぱり、広い方なんじゃないかと思う。

そして、究極には
どこにも『Fence』なんか存在しなくって
だれでもみんな混ざれる環境が良いんじゃないかと思う。

『みんな違ってみんな良い。』と言われながら
それが受容されている世界は存在しないのです、残念ながら。


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