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【LGBTQ+】もしも男の子に生まれていたら……(If I were a boy)


 女の子に生まれたのに、なぜか昔から男の子っぽくて、同性に惹かれる私は「もしも男の子に生まれていたら……」と考え込んでしまうことがよくありました。



もしも自分が男の子に生まれていたら、女の子と "普通" に恋愛をして結婚して、好きなメンズ服を着て、メイクもせず短髪でいても何も言われない世界を生きられるのに、と。



でも私は、完全に男性になりたいと思っているわけではありません。じゃあ、その「もしも男の子に生まれていたら……」を考えている時間って一体なんだろう? と考え直したときに、私はもしかしたら「無いものねだり」をしているのかもしれない、なんて思うようにもなりました。


今回は、色んなことを考えて辿り着いた現時点での私の個人的な結論を詳細に書いてみたいと思います。


※以下の本文は私個人の考えであり、性自認と身体的性別が一致しない方の場合などとは全く話が異なると考えます。その点を十分に理解された方のみ読んでください



いま、ここに無いもの

 私の出生時の性別は女性、性自認も女性です。でも、物心ついたときからすでにボーイッシュな見た目で、好きになるタイプはいつもフェミニンな女の子。女性として女性が好き。だからと言って、男性になりたいわけではありません。


ただ、もしも生まれてくるときに性別を選べたら、男性を選んでいた方が、色々とスムースに生きられたのかもしれないと思う、そんな感じです。


だから10代のときには、よく「もしも男の子に生まれていたら……」と考えることが多くありました。

「もしも男の子に生まれていたら……」の空想? 妄想? の後ろに必ず続くのは、「女の子と恋愛をして結婚ができたのに」「身長が高く筋肉質ながっしりした体格になれたのに」「サイズを気にせずメンズ服が着られたのに」「短髪にしても骨格とマッチするのに」「メイクする必要もないのに」…etc なんて、自分が身体的に女性に生まれた以上、自然には変化が起こらない不変的な出来事に対して思うことばかりでした。



いま、ここにないものを想像しては「あぁだったら、こうだったかもしれないのに」と羨望(せんぼう)に近い感情を抱いて、あーだこーだと目の前の現実に不平不満を抱く、そんな後ろ向きな考え方をしていました。


自分が持っていないもの、絶対に持ち得ないものに対して「もしも◯◯があったら、私はこうなれたかもしれないのに」と、自分が持っていないもの、自分に足りていないものにフォーカスを当てて「自分にはこれがない、あれがあったならば……」なんて考えることに時間を費やして、気分を落ち込ませていました。


たとえば、好きな同性の子に振られたときも「もしも自分が男性だったら……」と考えてしまう。もし自分が男性であったとしても、別の理由でフラれていたかもしれないのに。


好きになった相手よりも身長が低い自分に対して「もしも自分が男性だったら、もっと身体が大きくて背も高かっただろうに」なんて考える。もし男性に生まれていたとしても小柄な身長や体格だったかもしれないのに。


メンズ服を着てショートカットにしていると「なんでメンズ服? 髪の毛も短すぎない?」なんて言葉をかけられる。そこで「もしも自分が男性だったら、メンズ服を着て短髪であっても何も言われないのに」と考える。さらに、メイクすることすら面倒くさくなった朝には「もしも自分が男性だったら、ノーメイクで出かけられるのに」と考える。


でも、もしも本当に私が男性に生まれていたら、「女の子だけど、ボーイッシュで同性が好き」という「いまの私」はいなかったんだよなと、ある人に出会ってから考え直すようになりました。それからというものの、私は性別を理由に挙げて、あり得ない自分以外の別の完璧な人間になろうとしていたのではないだろうか、と感じるようになったのです。


それは「もしも、もっとルックス良く生まれていたら、仕事も恋愛も結婚も全てが上手くいったんじゃないか」と考えるような、いわゆる "無いものねだり" ifの世界を羨望するような考えに近かったことに気が付いたのです。


つまり、物事が上手くいかなかったときに全てを「自分が男性として生まれなかったからだ」という理由に終始してしまっていたのではないか、と。


とある出会いと出来事がキッカケとなり、私は、自分が持って生まれたものだからこそ起き得た沢山の良い出来事に意識を向けようと決意しました。




意識を変えた出会い

 21歳、大学生のとき。大学へ登校する道すがら大人数が行き交う駅で、当時好きだった子から声を掛けられたことがあった。こんな大人数のなかでよく分かったね、と言うと「そりゃ分かるよ! だって他にこんな子いないもん(笑)」と優しそうに笑いながらその子はそう言ってくれた。

それはまるで、何百人もの観客がいるなか、ステージから私だけを見つけ出して見つめてくれたかのような特別感があったのを今でも覚えている。文字通り、自分が特別な存在に感じられた瞬間だったのかもしれない。

私は、昔から人に覚えられることが多かった。どうしても人と違うから、目立ってしまっていたのかもしれない。私自身も同じ学校内で自分のような子(女の子だけど、見た目はほぼ男の子)を見つけることは難しかった。そんな私だから、人混みでも目立って見えたのかもしれない。


「こんな子」という言葉だけを取ると、失礼な表現と思うだろう。でも、その子が私のことを「こんな子」と発する際には、ちゃんと確かな温かさがあって、そこに私の全てが詰まっているような気がして、全てをひっくるめて私と認識して好意的に受け入れてくれている感じがした。


みんな、それぞれが「特別」な存在であること。私の場合、その「特別」を作り上げているのは、女性に生まれながら男の子っぽいところが多くある私だから。さらに恋愛対象は同性で、でも男性になりたいと思っているわけではない複雑な私。そんな私の全てをひっくるめて特別な「いまの私」が成り立っている。


その子と出会ってから、そう考え直すことが多くなり、ある時点からもはや私は「もしも男性に生まれていたら……」という空想をしなくなった。たぶん、必要がなくなったのだと思う。

なぜなら、もしもの世界なんて存在しないということにやっと気がついたから。自分のことを否定して、自分以外の完璧な誰かになろうとしていたことを、あの子が気づかせてくれたから。

私は、そんなあの子が好きだった。

あなたに私の思いが全部 伝わってほしいのに
誰にも言えない秘密があって嘘をついてしまうのだ
米津玄師さん『アイネクライネ』歌詞から一部引用



 自分のことをよく知っている高校のクラスメイトとは打って変わって、初めましての機会が多くなる大学では、私がみんなとは違うことで明らかに眉をひそめる子も沢山いた。でもその子のように、最初から私をそのまま「そういう子もいるいる〜」といった感じで軽く受け入れてくれる子も確かにちゃんといたのだ。


その子は、私の髪の毛が短くなろうが、男の子にしか見えない服を着ようが「今日もカッコいいね」と声を掛けてくれたり、背が高くなりたくて背伸びをしていたら「可愛いね(笑)」と「いまの私」を構成している全てを褒めて肯定してくれた。



女の子な部分の私と、男の子のような部分の私。どちらか一方ではなく、その両方で私は成り立っている。



ピンク(女の子)でもブルー(男の子)でもない私は、ずっと完璧な一色にならなければならないと思い込んでいた。でも、その子は、それらが完全に溶け合ってパープルになるわけでもない、マーブル模様に折り混ざっている私の複雑な色の模様を「綺麗だね」と肯定してくれた。


そのことが、私という個性を肯定してくれた。


だから、男の子が短髪にメンズ服を着るという「特別」にはなり得ないようなことでも、女性である私がそれらをすることで生まれる「いまの私」の個性を肯定してくれる人だっていることに少し気がつけたのかもしれない。


私はずっと、自分が持っていないもの、持ち得ないもの、変えられないものに対して意識を向けていた。けれど、その子のおかげで、私は自分がすでに持っているもの、自分だからこそ持ち得るもの、変えられることに意識が向くようになった。


消えない悲しみも綻(ほころ)びも あなたといれば
それで良かったねと笑えるのが どんなに嬉しいか

目の前の全てが ぼやけては溶けてゆくような
奇跡であふれて足りないや
あたしの名前を呼んでくれた
米津玄師さん『アイネクライネ』歌詞から一部引用


そこで私は、今まで物事がうまくいかなかったときの全てを「自分が男性じゃなかったからだ」という理由に終始してしまっていたのではないか、と思い始めたのです。


今までに私のことを「カッコいい」や「かわいい」と褒めてくれた人たちだって、もしも私が男性に生まれていたら、そんな言葉はかけてもらえなかったかもしれない。



ユニセックスなデザインのセットアップスーツに身を包み、女性特有の骨格の細さだからこそ際立つ綺麗なシルエット、きめ細かく白い肌、柔らかい髪の毛、小さな等身、繊細で細い指、それら全てが相まって「いまの私」を形成している。

さらには恋愛対象が同性だからこそ、相手の気持ちが理解できたり深く共感できる部分が大いにあって、深くて学びの多い人間関係も沢山あった。


それらは全て私が私として生まれたからということに、やっと気が付けたのです。


それからというものの、自分という存在を否定する過去に意識を向けるのではなく、いま現在の私を受け入れて、さらには未来の私を想像するようになりました。



みんな何かのマイノリティ

 冒頭の米印の文言でも強調しましたが、身体の性別と性自認が異なっている場合などは、その不一致による心身の悩みや葛藤は計り知れないと考えます。

ただ、私の場合は身体の性別を変えたいわけではなく、「男性」として見られたいわけでもない。だからもう「もしも男性に生まれていたら……」と考えを巡らせて「もしも」の世界を生きるのをやめようと思ったのです。


だって、既記のように私が女性でありながらボーイッシュな見た目であることで好きになってくれた人もちゃんといたから。さらには、女子校に通ってそこで出会えた素敵な友だちも、もし私が男性に生まれていたら、そもそも出会うことすらできなかったであろう人たちばかりだということに気がついたからです。



もしも、というIfの世界は存在しない。

いま自分の目の前にある現実を全て、私は性別のせいにしていただけなのかもしれない。肉体を持ってこの3次元の世界を生きるには、見た目や色んな事柄でみんな何かしらのマイノリティなのかもしれない、と思うようになりました。


「もしも◯◯だったら、こうなっていたのかな」と考えること。それは同時に、目の前にある現在の「いまここ」に意識を向けていないこととイコールに結びついてしまう。さらには、その「もしも◯◯だったら、」は無限に思い付いてしまう。それは、自分に無いものをわざわざ炙り出して、ここが足りていない、自分にはこれがない、と自分の欠点を自分で粗探しするようなことにもなってしまう。


仕事が上手くいかないとき「もしも男性であれば、ナメられた態度を取られずに済んだのかな」と考える。恋愛が上手くいかないとき「もしも男性であれば、フラれずに済んだのかな」と思う。自分の人生に対して「もしも男性であれば、もっと自由に生きられたのかな」と考えを巡らせる。


もしかしたら、そうなのかもしれません。

でも、もしかしたら、そうじゃないのかもしれません。
その答えは決して誰にも分からない。なぜならば、そんな「もしも」の世界なんて存在しないから。


じゃあ、もう「もしも」の世界を生き続けるのはやめようと思ったのです。自分が生まれてきた性別も性的嗜好も、ルックスも全てそのまま受け入れて生きていこうって。だって、もしも男の子に生まれていたら……、それこそ私がこの記事を書くこともなく、多様性に考えを巡らすこともなく、色んな複雑な感情を味わうこともなく、特別な経験をすることもなく、今まで出会ってきた人たちにも出会えなかっただろうから。


この性別に生まれて、この性的嗜好だからこそ出会えた人や、経験してきた特別な出来事、抱いた深い感情に意識を向けたい、それを大切にしたい。



女性だから、男性だから、同性愛だから、異性愛だから。それぞれによって、もちろん異なりはあります。それは事実です。ジェンダーロールも、身体的な違いも、性別によって異なる不変の事実はある。

けれど、私はもういまの自分ではない「もしも」の先にいる別の自分を生きることやめました。だってそれは自分じゃないから。

私は女性に生まれて、女性が好き。人と違うことが多くあって、それで悩むことも多いけれど、それだからこそ嬉しいこともある。それが私。



そんな私を、これからも生きてゆく。


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