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なりたい自分の方がきっと輝く



 テレビに映った、ある人が眩しくて勝手に思った。
 その輝きは「なりたい自分でいる」から放たれているのかなと。

昨日、歌番組を見ていて素直に思ったことでした。

氷川きよしさん。なんだか、全身が解放されているような、心がパーン! と開いていてそこから放出されているキラキラのようなものを感じて眩しいというか。なんだろう、うまく言語化できないのがもどかしいですが、すごく気持ちが良い。

心となにかが直結している感じがするというか。


私はにわかなので氷川さんについて何も知らないに等しいのですが、ここ数年での変化などをテレビで拝見するたびに、良い意味でため息がホウッと出る感覚があります。


もちろん歌うジャンルや曲によって変えてらっしゃるのだろうと思うのですが、以前に増して表情もずっと豊かで、何よりも「解放」している感じが伝わってくるのが心地よいというか。


最近では一部で「kiina」(キーナ)という名前で活動されたり色んなイベントに出演していらっしゃったりと、活動は多岐に渡るようで、そんな姿がとっても素敵だなと観ていて感じます。


それは「自分らしさ」を全身で体現されているからなのかもしれません。




自分よりも他人に気を使った、 中途半端な自分

 ここからは個人的な話になりますが、私は20代半ばあたりまで何故かずっと「女性らしく」いなければならないと、心のどこかで思い込んでいました。

本当はメンズカットのように髪の毛を短くしたくても、それでは男の子のようになっちゃうなと考え直して、どこか「女性らしさ」を残した申し訳ない程度の微妙な長さの髪型に留めたり。さらには服装も、男性に間違われない程度にしておかなければならないみたいな考えがずっとあり、出かける前に全身鏡で自分の姿を見て「これはさすがにメンズっぽすぎるな」と思うものは、着るのをやめたりしていました。



いつも「自分」ではなく「他人」を優先させた髪型と服装。全ては自分の心を優先したものではなく、心のなかで想定した名前すらも知らないような他人の目を優先したものを選んでいた。


本当はツーブロックにしてみたい、襟足も刈り上げてみたい。服装だってメンズに間違われても良いから、むしろメンズに間違えられたら嬉しいぐらいだから、もっと自分がしたい服装をありのままに着たいと、心のどこかで思いながらも、その気持ちを抑えていた当時の私。


そんな自分を抑え込んでいた時期に映った写真の自分などを見ると、どこか窮屈そうで、抑えた表情をした自分がいました。映っている自分はたしかに自分なのだけれども、どこか自分ではない感覚になるような。それは当時、外に見せていた表情の下にある、本当の自分の心の気持ちが見透くからかもしれません。



でも、家族や友だちなどからも「なんか、今のほうが良い表情してるね(笑)」と言われることから、そう感じていたのは自分だけじゃないんだなと思って。


私の場合、「自分の心」を優先しているときの姿の方が、どこかやっぱり良い雰囲気なんですよね、表情や振る舞いも全てがパッと明るいというか。もちろん、自分の気分や気持ちが上がる髪型や服装をしているから、という至極シンプルな理由でもあります。

ふと街中のショーウィンドウなどに映る自分の姿に満足するのに加えて、自分の心を優先しているということ自体にも喜ぶ気持ちが芽生えるというか。ちゃんと「自分の心」を大事にしていることが、自分の目で見ても分かる感覚。



 どこの誰を基準にしたのかも分からないような、心のなかで創り上げた「他人の目」に縛られてずっと気にしていた私。そんな足枷は、もはや新しい時代には不要でした。だって人生は一度きりで、100年後にはどうせみんな骨なのだから。


どうせなら、この時代の、この性別に生まれてきたことを楽しんで生きたい。このセクシャリティを持って生まれてきた「自分」を、精一杯どうせなら全身全霊で楽しみたい。

だから、自分の心が「なりたい」と感じる姿に。


その方がきっと素敵だと、貴方らしい姿が素敵だと、そんな価値観を持つような時代がすぐそこまで来ているような気がします。

早くそんな時代になれば良いな。

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