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映画「道」と漫画「火の鳥 鳳凰編」に共通するもの:愛について①

心にしみた映画第一位と言えば「」という1954年のイタリア映画(フェデリコ・フェリーニ監督)。苦しいときに何度も読み返した本と言えば「火の鳥 鳳凰編」という1969年の漫画(手塚治虫著)。ふと、両作品描く「愛」の形が共通していることに気づいた。非科学的に考察する。(小野堅太郎)

 両作品とも私が生まれる前の作品で、作品の発表から50年以上経つも名作として今後も語られるに違いない。高校生の時に読んだ村上春樹著「ノルウェイの森」に「著作は50年以上の時を経ないと読むに値しない」とあり、紹介されていた「グレート・ギャッツビー」には人生を惑わされた(もう一つ「ライ麦畑でつかまえて」は既読だった)。そういう意味では「道」も「火の鳥 鳳凰編」もノーベル文学賞を期待される作家、村上春樹氏の名作としての基準をクリアしているわけである。

 簡単に2作品のあらすじを述べてみる。

 「道」は、粗野な旅芸人ザンパノと手伝いに買われたジェルソミーナの物語。ミスを連発するジェルソミーナを殴りどやしつけるも、都合のいいときには慰みものにするザンパノ。辛い状況を受け入れて生きるジェルソミーナの前にやさしい曲芸師の男イル・マットが現れる。ザンパノの残虐な仕打ちによりジェルソミーナは衰弱し、ザンパノは置き去りにする。数年後、芸人として落ちぶれたザンパノは、海辺の町でジェルソミーナが吹いていたラッパの歌を耳にする。彼女の寂しい死を知ったザンパノは夜の海岸で嗚咽する(終)。

 「火の鳥 鳳凰編」は、登場人物も多く、政治が絡んだりするが、省略する。粗野な盗賊我王(がおう)と誠実な仏師茜丸(あかねまる)の二人の物語。隻眼隻腕の我王は辛い少年期を過ごし、盗賊として生きていく中で速魚(はやめ)に出会う。しかし、勘違いから速魚を殺してしまい、実は過去に自分が助けた小さなテントウムシだったことを知る。仏門に入り、怒りに任せて彫り上げた像により初めて人に感謝される。一方、茜丸は修行旅行中に盗賊の我王に襲われ、仏師として大切な利き腕を切られる。何とか片方の手で修業を積みながら旅路で、ブチという茜丸とは正反対の天真爛漫な女の子を救う。そんな我王と茜丸、大仏殿の鬼瓦作製コンテストを受けることになり、明らかに茜丸より迫力のある鬼瓦を作った我王ですが、策略により負けとなり、もう片方の腕も切り落とされます。勝ち誇る茜丸ですが、倉庫の火事により命を落とし、ブチが焼けた亡骸を供養します(終)。

 両作品とも見方によっては、フェミニストの皆さんが激怒しそうな内容です。「道」ではジェルソミーナの一生を考えると悲惨です。イル・マットとの出会いがなければ暗黒でした。しかし、その光はザンパノによって打ち砕かれます。ザンパノの後の苦しみなど因果応報というべきですし、男の身勝手さの美化と捉えることができます。「鳳凰編」では献身的な速魚は古典的女性像ですし、ブチは多少現代的ですが男に振り回されて取り残された女との捉え方ができます。しかし、男の方もかなり類型化されています。古典的男性像です。ザンパノはいかにも男臭いアンソニー・クインが演じています。「鳳凰編」は実写ならば、我王は勝新太郎、茜丸は加藤剛が演じたでしょう。全員古くて若い人はわからないかもしれませんが、いかにも「男らしい」です。要するに、男も女も類型化された象徴として見て取ることができます。

 ジェルソミーナには速魚とブチの両方が見て取れます。ザンパノとイル・マットは対照的ですが、両者が我王と茜丸に内在しており、ザンパノからイル・マットに移る我王とイル・マットからザンパノに移っていく茜丸と言ったところでしょうか。手塚治虫氏が「道」を観て影響があったかもしれません。

 本記事のタイトルにあるように、「愛」について両作品から共通に感じることがあったので綴っているわけですが、恋愛について書きたいわけではないのです。というか、男女の愛としては「道」は残酷なリアルを突き付けるのですが、「鳳凰編」はほとんどありません。手塚氏の漫画は他もそうなのですが、基本的に男女の愛の発露が唐突で(一目ぼれとか助けてくれたからついていくとか)、正直、感情移入できないまま進行します(私だけか?)。「鳳凰編」から感じる愛は、人ではなく、芸術に対する愛です。この芸術に対する愛が、「道」に描かれる人物間の愛と似ているなと感じたのです。

 芸術に対しての素養のない我王が、生い立ちからくる情念と、周囲の環境に突き動かされて彫刻を彫り上げます。一方、美を求め、より洗練された造形を鍛錬によって突き進める茜丸は、作品の作製には常に内的な試練を抱え、最終的には芸術としては我王の作品に負けてしまいます。求める者(時)には与えられず、求めない者(時)にそれはやってきます。愛は、身近なもの(TVやネットのアイドルも含む)を対象とします。徐々にそれはやってきて、突如として人の心を揺さぶります。ザンパノは捨てたジェルソミーナのことは忘れていたのでしょう。しかし、彼女の歌を聞いた途端、記憶がよみがえり、失った愛の重さに苦しみます。茜丸は我王によって失われた芸術の愛と共に命を落とします。

 要するに、「報われない」の一言です。愛は得することのない、非常に非科学的な、非経済な、抗うことのできない非合理な感情です。恋愛や家族愛を描いた小説、漫画、映画、歌を、これほどまでに多くの人が求めるのは、その理不尽さについて皆で共感したいからでしょう。若い人と話すとき、恋愛において何らかの報いを得ようとしているな、と感じます。「報いなんかないよ」と思うのですが、「ただ、ただ、つくせ」と忠告します(報われないけど)。愛は執着とうらはらです。我王が無心に仏を掘り出すように、ジェルソミーナが無心にラッパを吹くように、その時にしかそれは得られないし、それを得たと思った瞬間、ザンパノや茜丸の様に失ってしまうものではないかと思います。つまり、愛を得ていないその時こそが愛を得ており、愛を得たとと思ったときはもう愛を失っています。もしくは、思い出という記憶の中にだけしか愛は存在しないのかもしれません。


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