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「進撃の巨人」の終わり方: シン・エヴァとの対照性

 漫画「進撃の巨人」が先日、最終回を迎えた。長い間、本当に楽しませてもらった。エヴァンゲリオンに続く「シン」作品の相次ぐ終了は、満足感はあるが寂しい。進撃の巨人について回想してみる。(小野堅太郎)

 エヴァンゲリオンとの大きな違いは、主人公エレンが「迷わない」ことにある。とにかく突っ走る。最後の最後まで、子供の頃に決めたことを達成するために人生を走り抜く。エヴァンゲリオン主人公シンジが世界を崩壊させたことで自我崩壊しながらも内的世界での自己寛容で集結を迎えたのに対し、進撃の巨人は、仲間のために世界を崩壊させて再生を図るという現実世界での結果を出して終了となる。

 両作品の違いは、元ネタとなる神話の違いに依存している。

 進撃の巨人は重要登場人物の名前がユミルであり、北欧神話に出てくる創造主と同一であることからも、この神話がベースにある。北欧神話では各種族の確執・戦闘、そして大規模な世界を壊すほどの戦争(ラグナロク)を経て新世界へと移るストーリーである。進撃の巨人は、ほぼこの流れに沿ったと言える。ラストでは、ユミルについて「愛」でぼかした感じで終わっている。「愛する人(仲間)のために他の人間は不幸になっても仕方がない」というアニメ映画「天気の子」でもあった「開き直り」人生哲学が混ぜ込まれている。一個人ではなく、「みんな」というグループでの利益を優先させる、というなんだか世相を反映した結末であった。

 一方、エヴァンゲリオンは死海文書というキリスト教成立以前の宗教文書を元ネタにしており、錬金術での「生命の樹」がオープニングで描写されたり、十字架のキリストを突き刺したロンギヌスの槍が重要アイテムだったりと、キリスト教的世界観の中でストーリーが進む。ラストは虚構世界にて「父と子」の対話を通して延々と個の内面が描かれる。正直、裸のランチ並みに何がホントかウソかわからない状態に陥るので、辻褄よりも「感じる」ことが要求される。いろんな解釈ができるし、1つ1つの解釈が正解なのだろう。

 とまあ、対照的なストーリーと結末を迎えた2作品ですが、神話を取り込んだ漫画といえば、古くは諸星大二郎大先生の「暗黒神話」「マッドメン」が挙げられる。いずれも日本神話を基にしている。もちろんこういった神話を基にした創作物はもっと以前からたくさんある。でも、日本に住んでるなら、是非若い人たちにも日本神話に興味を持ってもらい、未来の創作物に取り入れていただきたい。

 以前、神話について2記事(西洋東洋)でまとめたが、各地域の神話には共通点が多く、それらを繋げて空想を広げるのは楽しい。超ひも理論の記事では、連載中の「進撃の巨人」の感想を書いていますので、ご覧ください。

 歳を取ると新しい作品と過去の類似作品を繋げてしまいます。自分の子供や若い学生・大学院生たちに「それは〇〇作品を基にしているよ」と言っても、「はあ?」という感じで響きません。ドラムンベースは最近の音楽では当たり前ですが、エイフェックス・ツインが始めたんだよ、といっても誰も聞いてくれません。最近「うっせぇわ」という曲が流行っていましたが、「チェッカーズのギザギザハートの子守歌だよ」とか娘に話しても無言でした。悲しいです。

 そんな冷たい娘から「父ちゃん、チ。ていうマンガ知ってる?」と話しかけられました。娘から既刊されている3巻までを借りて読んでみました。「おお!これは進撃終了後のハマりマンガだ!」となったので、次回はこれについて話します。


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