母が断捨離した先は、ゴミ箱でもメルカリでも寄付でもない。いつも笑顔で一番近くにいた人へ。#26
最近、実家にあるモノを断捨離し始めた母が、いらなくなったモノたちの行く先を教えてくれた。
涙が出た。
心底、私は今まで大切なことを教わっていたんだと。母の娘になれて良かったと。
断捨離先として大抵の人が思いつくのは、ゴミ箱、メルカリ、ブックオフ。そんなところだろうか。
最近は、NPO/NGO団体で、本やCD等の寄付が困っている誰かの支援につながることもあるみたい。本当に生活レベルで困っているのでない限り、私はいらなくなったものたちは「還元」していく優しさがもっと、もっと増えてほしいと思う。
しかし、いらないモノたちがどこかへ行った先は、そういった団体でもなかった。
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母が家にある要らないものを渡していた先。
それは、いつも家の周りの落ち葉を掃いたり、ゴミを拾ったりする、清掃員の仕事をされている人。母も私も毎日のように見かけるいつも笑顔なとある清掃員の方だった。その方に、要らなくなったCDや本を渡しているという。
母は「彼が生きていくための資源になれば」と私に言った。家の近くのブックオフなどで彼が売れば、少しかもしれないけれど、彼の生活の肥やしにはなる。
理由を聞いてみると、「彼はいつも笑顔だったから」と答える。
母の憶測だけれど、清掃員の給料はそんなに良くないはず。淡々と仕事をする人が多いイメージの中、彼は挨拶に加えた、たわいもない一言をいつも口にしていた、と。
母が今朝、ちょうど断捨離したモノたちをどうしようか、と家を出てから迷っていると、笑顔の彼がまたいつものように話しかけてくれたという。
「今日はずいぶん荷物が多いですね」
たわいもない会話の始まりだった。
そこで母は断捨離したモノたちを家から徒歩10分程度にあるブックオフに持っていきたいが、腰も悪いので重さに持っていける自信がないと。そこで彼は、僕持って行きますよ!と提案したそう。もちろん彼の仕事は清掃をすること。荷物を持っていくことなんて、業務にない。
母の立場として普通なら、流石に面倒なことだから遠慮するか、お言葉に甘えて持っていってもらうか、のどちらかになるだろう。
でも「誰かのために」が無意識にも心にある母は、そのGive精神がまさに彼の方向に向かった。
「是非とも受け取ってください!でも売った後のお金はいりませんので。
母と24歳の娘のモノで良ければ使ってもらってもいいですよ!」
そうして彼はありがたく受け取ったそう。笑顔の彼なので、特に遠慮もしなかったという。でも、いつも気さくな彼なら、そんな姿が一番しっくりくる。
私も中学生ぐらいから「天気がいいですね〜」「今日はなんだか素敵な服ですね」とか、彼が笑顔で話しかける姿はよく知っていた。話した後は、憂鬱な学校への足取りもほんの一瞬だけれど、軽くなったのを思い出した。
母が渡していたのは結局はお金になるものなんだけれど、彼の生活が少しでも良くなって報われてほしい、というのとはなんだか偽善者っぽいし、そういう気持ちで彼のことは見たくなかった。
今すでに、清掃員として毎日働く彼も、幸せに満ち溢れているかも。何なら、毎日の彼を見ていると、きっと幸せなんだろうな、と想像できる。わからないけれど。
そういえば母は、忘れられがちないつもお世話になっている人たちに気づき、Giveする精神が人一倍ある人だった。
私が小学校1年生の頃。バレンタインデーにはりきってチョコを詰めている最中、通っていた学校の警備員さんにも渡すように言われた。
その当時は、チョコを警備員さんに渡すなんて恥ずかしくて、誰にも見られないようにコソッと渡しに行ったけれど。
最近は家に来る宅急便の人にも。
コロナが始まってから、母は大量の野菜ジュースをストックしだした。
何かと思えば、いつも来る笑顔が素敵な宅急便の人に渡すんだと。来るたびに1本渡している。母が留守の時は、私が。
でも、笑顔の裏には、コロナの中でも外に出て危険な状況でも働かなければいけない。辛い、かもしれない。
そんな人たちが手軽に、仕事の合間に一息つけるものとして、野菜ジュースを選んだそう。
「笑顔が素敵だったから。しかも、ちょっとカッコ良かったし!」
清掃員の人の時しかり、一見単純な理由とセットで、その人に想像をめぐらし、憶測でもいいから自分ができることを母は想像している。目の前にいるお礼を伝えるのを忘れそうになる人たちに、いつも母はそうしていた。
今思えば、そんな母の優しさの視点が、もっと自分の家族以外の人たちにも、広まってほしいと思うばかり。
いつも学校を守ってくれる人。清掃員の人。日々わざわざお礼を口にして言うことすらない。私も、ほかの誰かも。
まあ、さすがに毎日お礼を言うのも恥ずかしいなって気もするけれど(いや、そうでありたいものだけれど)。
毎日お礼を言わないにしても、日頃の感謝の気持ちとして、時々でもいいからおすそ分けする。
海外の遠くの貧しい子のために寄付をするのももちろん大事。そういう団体がなければその子達も救われないかもしれない。
けれど、自分の目の前にいる人は、寄付を募っているわけでもない。エッセンシャルワーカーとも言われる「当たり前にある仕事」だからこそ、つい感謝を忘れてしまう。
目の前にいる人に想像を膨らませて、たとえ憶測が間違っていたとしても、日頃の感謝をおすそ分けする気持ちを忘れずにいたい。
小学生の頃の警備員さんへのバレンタインを始めとして、目の前の人にこそ感謝を伝えることを私はずっと教えられてきたはずなのに。今日の清掃員さんの話を聞いて、私は目の前の人に今まで何もできていなかった。お礼すら言えていなかった。なんだか、涙がでた。
今私が日々していることは、本当に大事なことなんだろうか。
出版の仕事も、私が本を作らなくても、世の中は成り立つ。
オフィスにも清掃員さんがいつも会社をきれいにしてくれるが、追われすぎて感謝もできていないんじゃないか。
私が今からでもできることはなんだろう。仕事云々は置いといて、まずはお礼でもいいのかもしれない。それなしでは母のような、断捨離したモノの先を清掃員の方に渡すという観点も持てないだろう。
そのさきに「働く」ことで何かをするのであれば、今の仕事に全力を注ぐことだろうか。誰かの心を動かしたい!という一心で全力で仕事をする。特に必要とはされていない私の仕事も、誰かにとって必要な仕事になるように。
これまでも今も私の身近な警備員さん、清掃員さん、宅配人さん。そして、皆さんの笑顔を守ってくれた母へ。
いつもありがとうございます。この先も笑顔でいれますように。
私も笑顔を忘れずに、皆さんのように誰かにとって必要な仕事をして働きたいと思います。