人間はもっと貪欲に大きな「幸福」を求めていい

僕の友人が、ブログにこんな文章を書いていた。

故郷やずっと一緒にいた人とは別れる日がいつか来る。
でも別れたから終わりにする必要はない気が最近している。
別れたなら、また会える日を夢見てやっていけばいい。
目指す場所は、決して未知の世界ではない。
目指す場所や人は、懐かしい故郷であり人なのだ。
新時代は懐かしい時代なのだ。

ここでの「故郷」という言葉を見て思い出したのが、寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』である。

寺山はこの中で、故郷についてこう書いている。

私は何でも「捨てる」のが好きである。少年時代には親を捨てて、一人で出奔の汽車に乗ったし、長じては故郷を捨て、また一緒にくらしていた女との生活を捨てた。旅するのは、いわば風景を「捨てる」ことだと思うことがある。

寺山が生きた高度成長期は「豊かさの享受」と共に語られるものだが、そのような「獲得の時代」の中で、「捨ててきたもの」に意識を向けているところに、寺山の非凡なセンスがある。

ただ彼はそれを、「もう二度と拾うことのできないもの」として捉えている。確かにそれは一面において正しい。

しかし現代の若者たちは、その捨てられてきたものを、新鮮な眼差しで捉え直し、再び拾い上げようとしているのではないだろうか。

「故郷」を単純に「田舎」のようなものとして捉えることもできるが、それをもっとゆるやかに「帰りたい場所」と考えたっていいだろう。それは地理的な場所ではなく、居心地のいい「関係性」そのものかもしれない。

僕より若い友人は、寺山が捨てた「故郷」を、「目指す場所」として捉え直した。その視点に、僕は新しい時代を展望する、瑞々しい感性を見た気がする。

僕たちは近代化の中で大切なものを失ってきた。それを「豊かさの享受の代償」として切り捨てようとした時代があった。それで幸せになれると思った。

しかし物質的な豊かさは、人間の幸せとイコールではなかった。むしろ人間を退廃させた。その退廃した人間の開き直った姿が、企業の不祥事、権力の腐敗などとして現れているのだろう。

資本主義社会は、資本(お金)の自己増殖過程として展開する。それは、「人間が本当に求めているものを、本当には手に入れられなくなった」という渇望の体系なのだと僕は思う。

しかし失ったものがあるのならば、そしてそこにかけがえのないものがあるのならば、もう一度取り戻せばいいではないか。

もちろん、それをまるまる同じように回復させることはできないかもしれない。しかしその本質をつかみとることができたならば、今の時代に合った形で、新しい方法を用いて、その本質を回復させることはできるかもしれない。

人間は幸福を追及してきたように見えて、どこかでその幸福を犠牲にしてきた。みんなが幸福になることをあきらめて、自分だけが幸せになることで満足しようとした。

大きな幸せをあきらめて、小さな幸せで満足する「小人」、それが現代の「退廃した人間」の姿なのかもしれない。

哲学者の内山節さんがどこかで言っていたように、人間はもっと貪欲に大きな「幸福」を求めていいはずなのだ。

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