見出し画像

人はみんな愚かで賢くて、賢いけど愚かで、だからこそ尊い存在だと思いたいって話

「人」「集団」について、あれこれと考えてみました。
大学生が、なんかぐちゃぐちゃ考えてんのね、くらいに思って読んでいただけると嬉しいです。

結論から言うと、人間って愚かでその能力には限界があるけど、賢いからこそ集団として発展してきたよね、という誰もが薄っすらと感じていた当たり前のことを難しそうに、それっぽく書いてみました。ほんと、結論はこれだけです。でも読んでいただけると凄く嬉しいです。

◆ はじめに

本題に入る前に少し謝罪をさせてください。
というのも、この文章、ちょっと読みにくいです。
ポエムっぽい感じでガーっと脳内の有象無象の考えを一気に放出したので、整理が出来ていないかもしれません。再構成をするか迷ったのですが、この一気に放出した感じが逆に面白いし、21歳時点での備忘録になるかな、と感じたのでこの形で残させていただきます。(ボヤっとしている部分も、まだまだ浅い部分も多いですが、生きていくうちに深めていけば良いかなという所存です)

「だ・である」調なのも、偉そうな感じに拍車をかけていて、シンプルにウザいなあと自分でも感じます、ごめんなさい。何の専門性のない一介の大学生が書いた文章だということを念頭に置くと、ウザさは残るけれど、「まあ未熟者だからしゃーないか」くらいに思えるかもしれません。それでも読んでいただけると嬉しい限りです。

◆ 誰もが等しく愚かで賢い

人はどこまでも自分に都合良く生きて、自分の属する集団にとっても都合良く生きて、自分やその周りにとっても都合の良い解釈をし、説明をし、時に説得し、生きる。(cf 認知バイアス、集団のパフォーマンス、論理学、社会心理学)
 
その都合の良い解釈や説明を導くための「合理性」は賢くて、でも裏に抱える矛盾や論理破綻、ご都合主義が信じられないほど愚かで。
 
そんな賢さが人類の叡智・文明の繁栄に繋がり、
人類を地球上の生物のTier1に押し上げ、
愚かさが、信じられない同族虐殺に繋がり、
みんな大好き「環境破壊」や「差別」を招く。

みんな知っているだろう。言われるまでもない事実だ。
 
なんで生まれて、生きていて、生きながらえているのか。
自分や、友人や、会ったこともない他人や、それも全部ひっくるめた人類が誕生し存在する理由なんて考えてもしゃーないけど、1つ確実なことは、人は誰もが等しく賢くて、愚かで、その性質や能力は凸凹だということ。
 
IQがどうとか、勉強がどうとか、学歴がどうとか、関係ない。
何をどれだけ学んだかとか、努力したかとか、頑張ったかとか、スキルがとか、関係ない。
その結果”っぽいもの”として表れているものも、どうでもいい。
金持ちがどうとか、文化がどうとか、その辺だ。
ハッキリ言ってどうでもいい。(重要なファクターの1つなのは認識してるけど、今回の話を進める上ではめちゃくちゃどうでも良い価値観だってことです)
 
天才に見える学者も、テストで0点しか取れない奴も、仕事をめちゃくちゃこなせるスーパーエリートも、仕事の出来ない「無能」も、等しく人間らしい賢さと愚かさを同時に持っている。完璧な人間なんていない。まあ当たり前の話だ。

◆ 愚かさを深ぼってみる

○ まずは愚かな「解釈」から、色々な愚かさについて考えてみる。

解釈時の愚かさについて。単純化して話すと、人と人とのコミュニケーションでは発信者の思い通りに話が通じない。それはお互いの持つ情報の差と自己防衛のためのご都合主義に起因すると、自分は思う。
 
発信側に問題がある場合も、受取側に問題がある場合もあるが、まあ通じなかったならどっちにしろ問題だ。多くの場合は、8割方の内容が通じると思う。だが、持っている情報(知識や経験、それに基づく価値観ともいえる)に差が必ずある以上、通じない部分が少しずつ、でも着実に誤解を生み出し、人々の解釈に差が生まれる。前提となる情報と、価値観に差があれば、ズレは生まれるだろう。そして大抵の場合、自分の持っている情報から、自分にとって都合の良いように解釈し(cf 選択的知覚)、ズレていく気がする。気づいたときにはコミュニケーションの齟齬が大きなものになっていく。
 
人間がコンピューターでない以上、この「愚か」な「解釈ミス」「コミュニケーションの齟齬」は誰にでも起こりうる話だと言える。しかし、話が通じないと「あいつには話が通じない。あいつがバカなのが悪い」「ちゃんと話してるはずなのに、分かってもらえない。あいつが理解できないのが悪い」と思ってしまう。そう、相手が悪いとしてしまう。(cf 基本的な帰属の錯誤)このように齟齬の原因を相手に帰属させることは愚かだと思える。確かに、受取側に問題がある部分もゼロではないが、原因がそれだけとも思えないからだ。

話が通じない理由は、思考のフレームワークが根本から違うことも考えられるが、それ以上に過去から蓄積された情報やそれに基づく価値観が違うことも要因だと偉そうに述べてきた。

だからこそ、解釈の差、そこから生まれるコミュニケーションの齟齬、総じて人間の解釈に見られる「愚かさ」は、原因をどちらに帰属させることも出来ないような、「人として」の限界を示唆しているに過ぎないんじゃないかと思う(まあ例えどちらかに帰属させることが出来たとしてもそれは時と場合によるって話もある)。A君が悪いでもなく、B君が悪いでもなく、どちらかを責めないといけないこと自体が愚かで、ただの人間の限界でしかないんじゃね?ってことだ。
 
このコミュニケーションの齟齬が、愚かさが、意味の分からない「愚かな」対立を生む(と思う)。個人間の対立、個人と集団の対立、集団内での集団間の対立などなど。心底、どうでも良い対立だ。見ていて呆れるし、本当に愚かだと感じさせられる。国家間の対立にも、人種の対立にも、民族の対立にもなる。ほんと、どうでも良いし、つまらないし、ただただ呆れる。しかも、対立の裏には全く意味のない根回しや協力関係なんかも出てきて、かと思いきやその関係の中でも利害関係が出てきて、訳が分からなくなる。これも愚かさなんだろうな。でも自分もすぐにこの一部になっちゃうんだから、ほんと、情けない。笑

(これとは違う文脈で考えると、時には対立することの重要性も理解できる。そして自分も時に対立すること、協力することは重要であると考える。だが、今回は人類を、そして人類史を比較的マクロな視点で覗いているので、「どうでもいい」し「呆れる」のだと言える)
 
巷で大人気の「日本下げ」「海外上げ」も、その逆の「日本上げ」「海外下げ」も、それらを一般化したときに見られる「見下しの原理」も、愚かな解釈の延長にあると感じる。自分が信じたいように、都合よいように思い、考え、発信し、対立していく。自分自身を守ろうとする防衛本能なのか、このような自己正当化の原理がどこから来るのかは分からないが、21年間で出会った人間はどこかしら「愚かさ」を持っていたように思う。この発信も自分の主義主張を正当化したいだけの、ご都合主義の愚かな文章と読めるかもしれない。もはやなんでも愚か愚か愚かで、信じられないくらい愚か愚かだ。言いたいだけみたいになってて草って感じだけど。笑笑

○ 愚かな「行動」について考えてみる

愚かな行動とは、所謂「失敗」、時間をおいて振返った時の他者or自分自身からのマイナス評価、上手くいかなかったことと定義しておく。(その行動した当人が愚かだと思わなければ、愚かな行動ではないという理屈は一旦なしにしておこう)

めちゃくちゃ頭がキレて、メタ認知も上手で、論理的に物事を考えられて、世界を宇宙から見下ろすように冷淡な目で観察する天才であっても、
     「あいつアホじゃね」
     「なんであんな馬鹿なことをしちゃったんだ」
とネット民から叩かれることもある。失敗したなあと感じることもきっとある。ミクロ的な視点で同世代の同一空間に生きる人間から見ても、マクロ的な視点で未来の人が人類史を振り返る感じで見ても、失敗と捉えられる愚かな行動は必ずある。
 
ネット民が正しいか正しくないかはおいておいて、
個人が持てる情報には限界があり、
その情報から意思決定が生まれ、行動を選択をする以上、
そしてこの世界が不確実性にはらむ運ゲー空間である以上、
愚かな行動をすること、失敗すること、ミスすることは大いにあるだろう。
というか、その方が多いまであると思う。

個人として・集団として失敗したなあ、馬鹿だったなあと感じた経験は誰しもが持っているものだと思う。少なくとも、21年しか生きていない自分は、ずーっと愚かで馬鹿で失敗行動を続けている。たぶんこんな黒歴史的な文章も、未来の自分から見たら愚かで、一部失敗と思うに違いない。
(失敗した行動が「悪」で、その失敗は個人の能力不足が由来だとする考え方そのものも、あんまり良くないんじゃないかなーと自分は考えていますが、それはここでは関係ないですね。失敗した事柄と、失敗した個人とは分けて評価をくだすのが良い気がします…)
 
上で話したような、解釈時の愚かさが、愚かな行動を生んでいることも多いだろう。というか、ほとんどの場合がそうなのかもしれない。
 
もう、仕方ないんだと思う。
愚かであること。
愚かな解釈をしてしまうこと。
愚かな行動をしてしまうこと。
全部、仕方ない。人間の限界なんだと思う。

ここでは個人の愚かさを話してきたが、集団でも愚かさを発揮することが研究で明らかになっている。(cf 集団浅慮など)
 
だからって、愚かだから、愚かでいいよね~ってわけにもいかない。
それだと、落ちぶれる気がしてならない。
愚かだからと開き直ってミスを改善せずに何もしないままだと、なんだか世の中が悪い方向に進んでいく気がする。

愚かさを自覚して、限界を認めつつも、
個人としては上昇志向・成長したいという志を持ち、
世間に対しては世の中を良くしたい、改善させたいという想いを持つ。

なんとなくだけど、これが重要な気がする。
少なくとも、自分はそうであり続けたいと思っている。

◆ 愚かで、賢いから愛おしいし、尊い

なんだか人間という生物を、とてつもなく卑下してしまった気がする。
が、人間の賢さは読んでいる人も(ここまで読んでいる物好きは2人くらいしかいない気もするが)、言われなくても分かっていると思う。
人間は個人としても、集団としても、賢い。
 
感情とは別の次元に「論理」を動かす力を持っている。
合理性がある。なんなら感情を補完する合理性まである。
謎の概念「言葉」を操ってコミュニケーションが出来る。
「数字」なんて概念も作っちゃう。
だからこそ、感覚とは異なる指標で評価が出来る。
言葉や数字といった「共通」の概念で、
完璧は無理でも、複雑な相互理解を可能にしてきた。

だからこそ、
損得勘定をもとにした集団の意思決定も出来るし、
集団としてのお互いに協力を仰ぐことも出来る。
集団で力を発揮して、頭を働かせることで、物理的には敵わない動物や「自然」「地球」を支配してきた(支配したと思い込んできた)。
 
この「集団」「共同体」が賢さの根源であり、人類の凄みだと思う。
集団として、個々人が協力し合えること、助け合えること。
人間が利他性を持っていること。
互いに持つ特性、能力、性格などの凸凹を、補い合い、強みを活かすように共同体が機能することこそが、賢さの所以だと思う。だからこそ、冒頭でこんなことを言った。

IQがどうとか、勉強がどうとか、学歴がどうとか、関係ない。
何をどれだけ学んだかとか、努力したかとか、頑張ったかとか、スキルがとか、関係ない。
その結果”っぽいもの”として表れているものも、どうでもいい。
金持ちがどうとか、文化がどうとか、その辺だ。
ハッキリ言ってどうでもいい。

ぱたそんのNoteより

IQも、勉強も、学歴も、あってもなくても、みんな愚かだし賢い。個人は元々の遺伝由来の才能とか、環境由来の経験とか、遺伝由来の「努力」で得られたスキルとか、性格とか、色々とひっくるめて「凸凹」を持っている。これを、集団に入ることで、お互いが補い合う。そしてそれぞれが持つ特性を活かせるように、集団が機能する。というか、集団が個々人の特性を活かすように動く。これが理想な気がしてならない。

(当然、集団に個性が潰される場合もあると思うしそれが現状だと多いような気もするが、よく叫ばれている多様性が尊重される社会とは、このような共同体が適切に機能する世界のことを指すと思う。)

こうして人は集団を形成することで、
個人で発揮できるパワーを何十倍、何百倍、何千倍にもしてきたんだと思う。

なんか分からないけど、パソコンとかスマホとか作っちゃうし。
飛行機とか車とか作ったのも天才すぎる。
電気も天才。エネルギーも天才。産業革命も天才。
もっと前の宗教も天才。農耕も天才。
(農耕の重要性は文明の発展から分かる通り。宗教は超自然的なものとして、説明不可能な不確実性を説明しながら、人々のすがる場所を作ったという点で天才的だと思う) 

賢すぎて、色々作っちゃう。
賢すぎて、協力しながら仕事も出来ちゃう。
誰かが一度作ったものは、再現性をもって作り続けることが出来る。
問題が発生したら、それを改善する何かを作り出し続ける。
そうして生きながらえて来た、頭脳の生き物なんだと思う。
 
でも、愚かだ。
散々説明してきたように、愚かだ。
ただただ、ひたすらに愚かな存在だと思う。
 
そう考えると、なんだか可愛く見えてこないか?
人類が。周りの人間が。友人が。自分が。
尊いんよ。もはや生きているだけで尊い。

人間って面白い。そう思えないか?
 
だってさ、
こんなに愚かで、どうしようもないくらい無能で、どうでもいいことで対立して、本当に使えない都合の良い生き物だし、クズな所ばっかりなのに、
賢さを発揮して必死こいて、頑張って生きている。
なんで生きているか分からないけど、生きながらえている。

問題がたくさん発生しても、誰かが何か作って、みんなで改善させて、みんなで問題を解決しようとする。そして徐々に解決させていくけど、新しい問題が出てくる。繰り返していくうちに豊かで便利になってくる
 
そう考えると、やっぱり面白いし、どう考えても愛おしい。

◆ おわりに

自分もそんな人間の一人だってことは、当然自覚している。
毎日、自分の愚かさと賢さを痛感している。
そして周り人達の愚かさと賢さも。
当然、その凄さも惨めさも。
 
2023年時点でこう思えてるし、この考え方に関しては今後もそんなに変わらない気がする。

が、今こう思ってるってだけで、今後はこの考え方が色々な知識・経験をベースに深まりつつも変容していくんだろう。その変容が自分でも楽しみだ。
 
こんなイタい文章を書いてるって思い出したら、半年後の自分でさえ共感性羞恥が止まらんだろうな笑笑

ここまで読んでくださった方はどれほどいるのでしょうか。もしいるのであれば、感謝してもしきれません。本当にありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?