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7月24日 文章を読むことに関する手段による印象の差異について。

今朝の体重65.8kg、体脂肪12.7%。

昨日夜が66kg、9.2%(トレーニング後)であったので、0.2g落ちた。

なんというか、外食すると爆食いするが、昨日家ではそれほど食欲がなかった。しかし昨日はトレーニングをした日なので、胸肉と冷凍サバは食べた。あと残念ながらレタスが腐りつつあったので、慌てて炊いて、マギーブイヨン?でスープにした。

最近はプルダウンのマシンを使うようになって、少し上半身への効きがアップした気がする。やはりいろいろバリエーションを変えないと飽きてくるものだと実感している。

ぶら下がり健康器での懸垂を中心に、と思っていたが、基本懸垂はあまり得意ではない。フリーウェイトや引っ張る系の動作が好きである。まあ、好きなことを追求するのがいい、ということかもしれない。

だが懸垂は自重で背中に効果が出やすい動作である。
義務感ではなく楽しみ、という形で取り込んでいければベストであろう。

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本を読むこと、特に幼少期の読書は、自身がどのような存在であるのか、ということを求める時の伴走者になるだろう。

気に入った本を何度も読む、という経験は、こうしてあわただしく暮らしているとなかなかない。実用書やエンタメについ走ってしまうものだ。

だが、なんというか人生について考察した本などは、幼少期ではすこし歯ごたえがあろうが、成年後に出あえれば、その時はあわただしくてなかなか読めなくても、老齢期になったら何度も読み返したい、と思い購入することになる。

まあ、”積読の言い訳”ではあろうが。。

池田晶子さんも、古典を読め、とおっしゃった。歳月が良書をじわりと判断し、残ってくる。それが古典と言われるものである、と。

本は何百年、何千年の間の読者の判断を経て残っているものがある。そうした叡智へのアクセスを、本という手段は容易にする。

ベストセラーが、悪いわけではないが、それが残っていくものかどうか。それは発売してすぐにはわからないものだ。

私は結構村上春樹ファンだが、登場時のいわゆる”文壇”の評価はさんざんだったともいう。春樹氏はそれもあって、文壇とは一切かかわってこられなかったようだ。

だが今や村上本は世界で読まれている。

マンガもそうだ。マンガなんて読むものではない、という時代が長くあった。それが今では日本の主要輸出物となった。世界で、求められるものとなった。

自身の気持ちや気質にあった本を、本棚に並べて囲まれた部屋で、思うままに過ごす。気が向けば取り出して気ままに開いてたまたま目にとまった一文を味わう。

本は文章でなくとも、画集やムックでもいい。

将来そうしたい、と思って本を買って来た気がする。

図書館 < 電子書籍でデータ所有 < コピー入手 < 紙の本で所有

個人的にはこのような感じで頭に残る。
電子書籍はもっと読み慣れればいいし、参照性も上がるとは思う。
コピーは管理しなければ散逸は誠に容易である。

だが、稀覯本や古書価格が高いものなどは、コピーで対処せざるを得ない。なかなか高価で手に入らない絵本を、カラーコピーして製本したこともある。

だがこのような順位は、私のように本が好きで、古本を買いまくり、ブックオフに入り浸った人間であるから、ということもあるだろう。

人それぞれに、その人ならではの、思いがある。あって当然である。

(老後に是非残したい本、という目で厳選していこうかな、と少しだけ思っています。)

お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。