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【連載小説】天国か、地獄か。祈りはどっちだ。#4-5

3月の年度末の月になり、香弥子さんの仕事も忙しくなってきた。それでもう半同棲というより同棲に近くなった。

彼女は残業で結構遅い時間に戻ってくるので、相当な疲労があるだろうと思った。
そこへ僕が変なことを言って余計疲れさせてもいけないと思い、僕はあまり口を利かないようにした。しかし香弥子さんは返ってそんな僕を心配した。

「何か不安なことでもありますか? 私には何でも話してください」
「いえ、僕が口を利くと香弥子さんをもっと疲れさせることがあるかもしれないと思って、なるべく黙っていようと思っています」

香弥子さんの目が大きくクルクルと開く。

「そんなこと気遣ってくださっているんですか…」

香弥子さんは僕を強く抱き締めた。

「私、間違ってませんでした。あなたは本当に優しい方です。あなたに出会えたこと、人生最大のプレゼントです。感謝してもし尽くしきれません」

それはそっくりそのまま僕のセリフだ、と思った。
ASDが結婚する。それは簡単なことではない、ことも多い。特に健常者との結婚は。
彼女は知識や理解があるとは言え、葛藤は本当にないのだろうか。

「健常者だからって葛藤がないわけではありません。相手が健常者だったら絶対に幸せになるわけでもありません。私は隆次さんの "心" を見ることが出来ました。それは神から授かった能力かもしれません。それにも感謝したいです」

香弥子さんはそう言って、一層僕を強く抱き締めた。
彼女の暖かく柔らかな身体に、僕にも変化が訪れそうだった。

* * *

そうしていよいよ兄家族の出国まで1週間となった。

「え、隆次さん、見送りに行かないんですか?」
「行きません。家でじっとしていたいです」

羽田空港であればそう遠くはないが、そういう問題でもなく僕は見送りには行きたくなかった。

「心穏やかではなくなってしまいそうですか?」
「うん…そうかもしれないです」
「…隆次さんの気持ちもわかる気がします」
「その代わりに、なんですけど」
「なんですか?」
「…26日は僕のそばにいてください」
「いつもいますよ、そばに…」

香弥子さんは言いかけてハッとした表情になり、僕をそっと抱き締めた。

「わかりました。もし仕事が休めたら休んでそばにいます」
「香弥子さんの仕事は年度末は忙しいのだから、休んだりはしなくていいです」
「いいえ、仕事よりも大事なことだと思いますので、明日上司に相談してみます」

僕はありがとう、と言って彼女の背中に腕を回した。


大丈夫。大丈夫。僕は兄がそばにいなくても大丈夫。
何故なら今ここに香弥子さんという人がいるのだから、大丈夫。
僕はもう昔の僕じゃないから大丈夫。


そう何度も言い聞かせた。


しかし言い聞かせれば聞かせるほど「大丈夫じゃないくせに何を無理しようとしてるんだ」という気持ちが襲うようになる。


雪のあの日。うどん屋の、出汁や天ぷらを揚げる匂い。明るすぎる照明。
頬杖をついた兄の翳りのある横顔。その横顔に反射する車の赤いテールランプ。
空っぽになった兄の部屋。

どうして今、そんな光景ばかり見えてくるんだ。
消したい。消えてくれ。そんな記憶。


* * *

僕が仕事をしている横で香弥子さんは静かな寝息を立てている。

僕はそっと席を立ち、バスルームに籠もった。深夜0:30。
電話を掛ける。

『…隆次か、どうした?』

おそらく寝ていたであろう声で兄が出る。

「怖いんだ」

僕の言葉に少し間が空いた。

『一人か』
「いや、香弥子さんいる。寝てるけど」
『何が怖い』
「…」
『黙ってたらわからないだろう』
「思い出すんだ…兄ちゃんが家を出ていく時の事を。これまでの人生で何度も何度も思い出してきたけど、最近特に光景が生々しく甦るんだ。匂いまで」
『…思い出すと、どうなる』
「…不安になる。香弥子さんがいてくれることはわかってる。でももう一方で、もうすっかり僕に棲み着いた恐怖や不安が頭をもたげる感じで。兄ちゃんがそばいにいなくなると、僕はいじめられたり良くない人が近づいてきたりしてた。今度もそうならないとは限らないって思ってしまう。ねぇ、どうしたら消えるの? 消したいんだ」
『…隆次。無理やり消そうとするな。その光景が過ぎるのをじっと待つんだ。こればかりは時間が解決するものだと思う。俺はお前の前からいなくなるわけじゃない。けれど今後は…俺の役割は香弥子さんが担ってくれる。少しの間不安と闘えば、時が流れれば慣れるはず。そして隆次には大きなイベントだって待っているのだから、きっとそんな不安は忘れてしまうだろう』
「兄ちゃん…」

僕の声が震えだすと、兄は落ち着いた声で言った。

『大丈夫。隆次なら絶対に乗り越えられるから。それに俺は…死んでもお前の味方だ。安心しろ』
「兄ちゃん…」

声が聞けたせいかほんの少しだけ落ち着いてきたので電話を切り、部屋に戻る。
相変わらず香弥子さんはスヤスヤと眠っている。

そのあどけない寝顔に僕は罪悪感を憶えた。まだ、兄を頼ってしまう自分を。

「香弥子さん…ごめんなさい…」

僕は彼女のそばで手をついていつまでも謝っていた。




#4-6(最終話)へつづく

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