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【連載小説】天国か、地獄か。祈りはどっちだ。#4-6

3月26日、11:10。

その時間、僕はまだ仕事中だった。僕は腕時計を見ずにやり過ごした。香弥子さんは午後半休を取ってくれ、13時過ぎには家に戻ってくる予定だった。

11:45には礼拝時計のアザーンが流れ、Dhuhr(ズフール。正午前後の礼拝)となった。
同時に兄はもう発ってしまった、と思った。

僕はサラー(礼拝)に集中し、余計なことを頭から追いやった。
礼拝があったので12時25分で業務終了とした。

腕時計を見る。
兄がくれた。ずっと肌身離さず付けている、僕には似合わないデザインの腕時計。

秒針1秒ごとに遠ざかっていく。
ここからどんどん遠ざかっていく。

僕はどれだけ物理的な距離に頼り、甘えていたのだろう。
僕は子供の頃そばにいてくれた、あの時の兄をずっとずっと求めていた。僕の唯一の味方。強靭な盾。
兄の部屋で過ごしたあの強烈な安心感…僕の居場所、暖かい殻。

遠ざかっていく。

僕の頭の中では空中ブランコが揺れていた。
僕は兄の手から離れて、香弥子さんの手に飛び移らなければいけない。

でもそんな練習したことない。
ずーっとずっと、同じ人の手を必死になって摑んでいたのだから。

飛び移れるのか。

僕は膝をついて目を閉じ、両掌を天に向けた。


玄関の扉が開く音で我に返る。

「隆次さん…? どうしたんですか?」
「香弥子さん…おかえりなさい」

ただいま、と言いながら香弥子さんは僕の隣に座った。

「大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」

香弥子さんはスマホの画面を見た。時間をチェックしたのだろう。でも兄が旅立ったことには触れなかった。

「お昼、食べますか?」
「今日は…いらないです。香弥子さんはどうぞ」
「私も隆次さんと共にします。今日はそばにいると約束しましたから」

僕は香弥子さんを見た。彼女の大きな目は潤んだように輝いていた。
僕は彼女を抱き締め、そのまま床に倒れ込んだ。

「香弥子さん、ドイツまでってどれくらいかかるんですか?」
「直行便だったら…12時間半か13時間くらいでしょうか」
「そうしたら半日はかかるんですね。向こうに着くのは日本時間の23時半か0時になるのか…」

その間、どんどん遠ざかる。


日が沈んでも、まだ空の上なんだ、と思った。
なんとなく落ち着かない。

「隆次さん、夜はちゃんと食べましょうね」
「…」
「お野菜もお肉も食べられるように、すき焼きにします」

そう言って香弥子さんは僕の頬にキスをしてキッチンへ立った。
僕は膝を抱えてじっとしていた。

ソワソワする。ただ兄が飛行機に乗っているだけのことなのに。

やがて折りたたみの小さなテーブルを置き、そこへすき焼きの鍋が載せられた。
しかしモリモリ食べる香弥子さんの一方で僕の箸はなかなか進まず、彼女は心配そうな顔をした。冷蔵庫からオレンジジュースを注いで僕の前に置いた。

「すき焼きは2日目も味が染みて美味しく食べられますから、明日のお昼にすき焼き丼にでもしましょう」

香弥子さんは僕に無理に食べさせることなく膳を下げた。僕はオレンジジュースを一口、二口飲む。

腕時計を見る。21時。まだ3時間近くある。
遠い。なんて遠いんだ。
どんどんどんどん遠くなっていくんだ。

僕は床にうつ伏せに倒れ込んだ。
"過ぎ去るのを待て"
いつかの兄の声がこだまする。

洗い物を終えた香弥子さんが部屋に入ってくると、驚いた様子で近寄ってきた。

「隆次さん! 大丈夫ですか!?」

僕はただ耐えている。
過ぎ去るのを、耐えている。

香弥子さんは僕に覆いかぶさるように身体を載せてきた。

「隆次さん、祈りましょう」

彼女も少し声を震わせて言った。

何のために祈るのか。
何を信じるのか。

そもそも、それをしたところでどうだというのか。

香弥子さんは答える。


人は弱いもの、そして無力です。
だから祈るしかないのです。
人は最後には祈ることしか出来ないのです。

祈りは時には助けや恵みを乞うかもしれません。
祈りは時には欲を願うかもしれません。

でも本来はそういうものではありません。
誰かの安寧、世界の平和、希望で輝かせたい未来。
祈りは自らの心の行動を変えていきます。

神はそんな私たちのことを見てくださっています。
私たちの祈りを、きっと聞き入れてくださいます。

お兄さんはきっと無事に着きます。
そして日々安泰と過ごせます。
隆次さんのことも毎日毎日、考えてくださいます。
私たちも私たちとお兄さん家族のことを祈り、無事であること、平穏であることが確認できたら感謝をしましょう。

それが無力な私たちが愛する人のために出来る最小で最大の行いです。

隆次さんが辛く思うなら、悲しむのなら、苦しむのなら、痛むのなら、私が半分もらいます。
これからは私が、隆次さんと何もかもを分かち合います。


温かい。
なんて温かいんだ。

僕はだんだんと微睡まどろんでいく。

過去と未来の境界線が、ぼんやりとしながらも近くに迫っている。

これまで僕の "現在" はすぐに過去に包括され、常に流れ過ぎ去っていった。
行き着く先は雪に閉ざされた世界、あの薄暗い片田舎の、湿った重たい世界。
過去は地獄。

また空中ブランコが見えてくる。

僕は飛び移ろうとしている。

飛び移ればその瞬間、僕の "現在" は未来に包括される。流れる車窓のように先へ先へと進んでいく。上京した時の電車から見た景色が甦る。
その先は春の暖かな、暖色の花々で彩られる世界。
未来は天国。


揺れるブランコ。
僕は天国を摑み取れるのか。
地獄を彷徨うのか。


でも。

天国だろうと地獄だろうと、どうか摑んだその手を離さないで。


地獄の住人だって愛を知っている。
天国の住人は春の訪れを知っている。




END

#after tale 1話だけあります。

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