_他者と働く__を読んで_

『他者と働く』を読んで。

『他者と働く──「わかりあえなさ」から始める組織論』を読んで、感じたことをまとめてみました。

「技術的問題」と「適応課題」とは

技術的問題
既存の知識・方法で解決できる問題

例)各々が持っているデータ共有をしたい→クラウド上にデータを保存する

適応課題
関係性の中で生じる問題

例)クラウドサービスの導入するにあたって、会議で提案したところ、「それはこうゆうリスクがある」と反対を受ける

いわゆる、「論理的には分かるけど、なんか嫌」という現象が、まさにこれかな、と思う。結果的には事前の合意形成や根回しが必要だったとフィードバックを受けることもある。会議で発表する前にたった一言掛けるだけでも良かったりする。

これまで私は「パブリックの場で正々堂々ケンカをする」タイプだった(もちろんビジネス的な意味で)。殴り合い上等、むしろその方がお互いの腹の底が分かっていいじゃん!とも思っていた。愚かである。

これはあくまでも「私」が都合の良い進め方であり、相手によっては腹の底を見せたくない人もいるし、殴り合わずにコトを進めたい人もいる。そんな人を巻き込んで結果「負の感情」を生んでしまったとしたら、次回以降、私の提案は聞き入れてもらえないだろう。

私自身、ケンカをすればすっきりして、言ったことを大方忘れてしまうんだけど、相手は意外と覚えている(らしい)。そして案外恨まれている。それが積もり積もって「なんか嫌」を生み出してしまっていたのだ、と気が付きました。反省。

対話とは

対話とは、一言で言うと「新しい関係性を構築すること」です。

新しい関係性を構築するというのは、いきなりわかり合おうとすることではありません。先のクラウドのサービス導入提案の例を考えてみるならば、提案を拒否されて腹を立てていたときは、「相手に自分の提案を受け入れさせよう」という関係性でした。しかし、相手にも相手なりに一理あって、その相手の状況の中で提案が意味のあるものにする必要があると考えられたときに、関係性の変化が始まっているのです。

当社の経営理念は「対話と奉仕」。対話とは「相手と面と向かって、利害を一致させるよう、話し合うこと」と理解していたけど、宇田川先生は「新しい関係性を構築すること」と訳されている。

つまり「相手を論破する・突破する」から「相手を慮る」と。相手の立場になって考えたときから新しい関係は生まれる、ということ。

「どうしてあの人は分かってくれないんだ!」という感情だけでなく「どうしてあの人は分かってくれないのだろう、もしかして〇〇なのかな?」と相手の心の中を覗きに行く行為そのものが、対話のはじまりだということ。

相手と対等に意見を戦わせるのではなく、相手より視座を1段高くすることが大事。めちゃくちゃむずかしけど!

分かり合えなさはどこでも起こる

けれど年功序列の旧態依然とした職場でも、スタートアップのフラット組織でも、それは起こります。社内でも社外でも、組織の階層や職種を問わず、誰もが適応課題に直面します。1on1を重ねてもコーチングを学んでも、プレゼンテーションスキルを磨いてみても、組織改革をしてみても、「わからず屋」たちとの「わかりあえなさ」に直面するはずです。その背後には適応課題が隠れています。

個人的な思い込みがあって、レガシーな会社は社風が古いから旧態依然として「対話の軋轢が多い」、一方でスタートアップはビジョンに共感するメンバーが多く、人数も少ないから「軋轢は少ない」、と思っていた。

でも冷静に考えてみたら、対話の軋轢なんて人と人が生活していればどこでも起こっている。社内・顧客間・家庭内などなど、大なり小なり軋轢はある。

だから今のポジションがダメなら、スタートアップか独立しよう、と思ってたけど、適応課題はどんな環境に身を置いても逃れられない問題なんだと思う(悲しいかな、、、)。

であるのならば、今の環境で適応課題への向き合い方を押さえておかないと、この先転職・独立したらえらいことになるぞ、、、と感じた。

どんな場所でも、いつになっても適応課題は起こる。これはファクトだ。

まずは問題を受け入れる

何よりもまず、自分も含めた経営陣が、株主価値の向上のために、短期的な経営施策に走ってしまっていたことに目を向け、シュルツ自身もそうした問題を作り出すことに加担してしまっていた一員であったということを受け入れるところから始めたのです。これを受け入れるまでの葛藤は、相当なものだったと想像できます。自分がよかれと思ってやってきたことが、いつの間にかよくない結果をもたらしていたことを受け入れるというのは楽なことではないでしょう。

スタバが過去、業績低迷したのは価格施策や過度な効率化に走ったためだと言われている。業績が下がってしまったとき、口では反省や課題設定をするけど、本心から問題に向き合える人ってどれくらいいるんだろう?と思う。

少なくとも、私はまだまだヒヨッコなので、どこかで人のせいにしていると思う。だけど、問題を真に自分ゴトとして受け入れられるようになれば問題の本質が見えてきて、前進する。

受け入れることからすべてが始まる。だから私もまずは受け入れよう、と思う。

既存事業と新規事業の人の心理

もちろん、そうした既存事業部の人たちも、決して会社として新規事業開発をしていくことに反対ではないのです。しかし、自分たちの現場は、厳しい状況に置かれててもいる。だから、総論賛成、各論反対のような状況になってしまいます。

そうなると、新規事業開発をする部署の人が、既存事業部と連携をしようとしても、「そんな成果が出るかどうかわからないところに、うちの工数は割けません」とはねつけられたり、「そのアイデアが本当にお客さんの役に立つとは思えませんね」と顧客の紹介を拒否されたり、冷ややかな対応をされてしまうこともあります。

私ごとだけど、社会人経験11年のうち、新規事業に携わってきたのは実に7年間。新卒から4年間だけは既存事業だったけど、5年目~11年目は多くの新規事業に携わって、今に至る。

だからこそ、上記の既存事業側の意向・感情を結構無視してきたな・・・と感じた。「俺ら・私ら(既存事業)がキャッシュエンジンなんだ」と内心感情を読み取っていれば、日頃の伝え方、頼み方は変わってくる。

逆に何も意識していないと「どうして俺ら・私らをないがしろにするんだ!」と感情を逆なでしてしまい、総論賛成の各論反対、というつまらない結果を生んでしまう。

本当にキャッシュエンジンかどうかなどは問う必要はなくて、「そう思っている」ならばその感情を丁寧に扱い、活かすことが大事なんだ、ということを学んだ。

中立な人間などいない

中立な人間は原理的に考えてもこの世界には存在しません。誰もがそれぞれのナラティヴを生きているという意味で偏った存在であり、それは自分もそうだということです。

そうであるならば、まず自らの偏りを認めなければ、他者の偏りを受け入れるのは難しいでしょう。

私が「長男であること」「体育系で育ってきたこと」が起因しているかもしれないが、「上司や年上たるものは、年下よりもしっかりしていなければならない」という呪縛にかかっていた(お兄ちゃんは責任感が強い的なやつ)。

だから「上司はこのくらい知っていなければならない・部下をケアして成長のキッカケを与えるべきだ」のような間違った前提を持ってしまった。これはある種の「甘え」だと感じている。

年上だってダメな人はダメだし、中立なんかでもない。だから、目上に期待をせず(かといって失望もせず)、むしろ目上のいう意識さえも持たず、ただ一人の人としてフラットに見た方がいいか、と思う。

「弱い立場ゆえの正義のナラティブ」に注意

立場の弱い側には、ひとつ大きな罠があります。立場が上の人間を悪者にしておきやすい「弱い立場ゆえの正義のナラティブ」に陥っている、ということです。立場の弱い側は、いくらでも人のせいにして、逃げ道があります。多くの場合、まだ若いですから、うまくいかなくても再起するチャンスがあります。

しかも、それを正当化する様々な言い方が世の中には転がっています。最近では動かない中間管理職を「粘土層」と揶揄する記事をいくつも目にしますし、いくらでも非難することはできます。

これはまさに私そのものだ、、、と感じた。

中間管理職という立場を利用してどこかに逃げ場をつくっていた。やりたいようにやりながらも「でも俺はまだ課長だし」とか思っていた。恥ずかしい。職権乱用もいいところである。

逃げ道自体を否定するわけではないけど、逃げ道を正当化し始めると、なんでもかんでも人のせいにしてしまう癖がついてしまうと思う。だから「これは逃げ道・正当化している」と客観的にモノを見る癖をつけたい。

しかし、自分もいつかその立場に立つことを忘れてはなりません。そのときに、部下の話を受け止めて、守れるようになるためには、今から対話をして、橋を架けられるようになっておかなければなりません。なぜならば、先の若手社員の事例は、直属の上司が、本部長に対して橋を架けるができていないから生じているとも言えるからです。

↑もたしかに!と感じた。

今、私が自分のナラティブを優先してしまい、相手と意見を戦わせてばかりいてしまうと、例えば私が部長や役員になったとき、さらに目上の人と対話ができないまま年をとってしまう、ということ。

部長や役員になれば、私の部下は数十人、もしかすると数百人となっているかもしれない。そのときに利己的なビジネスケンカをすることが果たして利口なのか?みんなが幸せになるのか?を考えたとき、それは違うと思った。戦うべきはそこではなく、この先成し遂げるべき目的・目標であって、そのためにこそ立ち回らなければならない。

自分のナラティブしか優先できない上司のようになってしまっては、私のような不幸な部下を生んでしまうことになる(ある種ナラティブが出来ないとヤバい、気づきを与えてくれた意味では上司に感謝してる)。

私はそうならないよう、励みたい。

対話を阻む5つの罠

①気づくと迎合になっている
②相手への押し付けになっている
③相手と馴れ合いになる
④他の集団から孤立する
⑤結果が出ずに徒労感に支配される

ここでは詳しくは語らないが、対話をする上でついつい陥りがちなのが「迎合・押しつけ・馴れ合い・孤立・徒労感」。

対話が押しすぎてはいけないし、引き過ぎたら迎合になる。かといってなぁなぁにならずに、言い過ぎて孤立にならず、もしくは一方的に頑張ってしまい徒労する、どれもいけない。

ちょうどいいバランス、勘所を見つけたい。

和解とは「おしまい」ではない

だから、一方的にではあるが、彼らと和解することにした。和解とは、これで一切そのことを恨まない、これでおしまいというわけではない。彼らを赦し受け入れる道を歩む決意をしたのである。

私がなすべきは、彼らを恨むことではない。彼らを声高に糾弾することでもない。私たちは敵と味方の関係ではないのだ。私たちはともに、弱さを生きている存在なのだ。この愚かで、弱い人間という存在は、しかし、それゆえに、よりよい関係性を生きることができれば、素晴らしい存在にもなりうる弱さを持つ、希望に満ちた存在でもあるのだ。

宇田川先生の経験談から、和解とは一切そのことを恨まない、おしまいというわけではない、ということを教えてもらった。

和解とは「その人と戦わない」という事だと思う。というか「戦う必要がない、戦う先が違う」とも言える。

これから考えるべきは、より良い関係を築くためにそれぞれのナラティブを見つけ、観察し、介入して対話を成立すること、だと思う。これを粛々と続けることだと感じた。

ひとつは、焦らずに、着実に歩みを進めてほしいということ、もうひとつは、逆境の中でもへこたれずに対話に挑み続けてほしいということ、そして、苦しみの中にある人に手を差し伸べてほしいということです。

挑むと聞くと「ビジネスケンカか!」というくらい単純は私は、これからは「対話を挑み続ける」ということを新たな戦いと意味づけたいと思う。

敵味方、と言うのは本来はない。

あるのはそれぞれのナラティブで、それらを把握、理解し、対話を通して新たな関係性を見出し続けることが大事だということ。

肝に銘じます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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