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認知のワナに掛かった私は、自分の首を締めた

今回は、私個人の体験談を使いながら「なぜ思考」の具体例をみていきます。

社会人1年目に起きたこと

社会人1年目でついたトレーナーは、非常に優秀で、社内外から信頼される素晴らしいビジネスパーソンでした。彼は会社にいるとき、1分も無駄にせずに働きこみます。事実、昼食を食べている姿を見た記憶はありません。朝早く来て、深夜にオフィスを発ちます。理想が高く完璧主義な上、能力も高い。まさに、完全無欠といった存在でした。

唯一欠点があるとすれば、それは「心の声が漏れてしまう」ということ。

上がってきた資料を確認したり、電話を切るたび、
「ありえない、どうすんだよこれ」「なんでできないかな」「頭使えよ…」
決して大きな声ではありません。誰かに対して当てつけで言葉を投げている訳でもありません。ただ、心に浮かぶ声が漏れ出てきてしまうのです。誰かを傷つける意図は無いという事を徐々に理解しながらも、彼の独り言に、散々振り回されることになりました。

彼の言葉が私に及ぼした影響

彼の態度に関する考察は置いておくとして、そのような環境に置かれた私にどのような思考が発動したか。隣の席で彼がブツブツと独り言を漏らすたびに、その対象は「私なのだ」と受け取り、自分の行動を内省する様になりました。彼が発する言葉は、その矛先が全て私に向いているように感じてしまうのです。
「メールの書き方がなっていないから苛立ちを隠せないのだ」「私の資料がお粗末すぎて呆れているんだ」「面と向かって直接伝えてはくれないが、”察しろ”ということなのだろう」
その結果、彼の一挙手一投足を常に目の端に捉えて観察し、これ以上彼を刺激することが無いよう、異常なまでに縮こまるようになりました。

私が唯一集中できるのは、彼の存在がオフィス内に感じられない間だけ。その時間だけは自然体に戻ってリラックスし、目の前の仕事に集中することができました。一方、彼の存在を近くに感じるだけで、私のパフォーマンスは惨憺たるレベルまで落ち込みました。彼の足音は特徴的で大きかったのですが、エレベーターホールから執務室に向かって歩いてくる足音が遠くから聞こえるだけで、私の意識はまだ姿も見えぬ彼に絡め取られてしまいました。目の前の仕事への意識は8割、残りの2割は彼の行動を観察することに回ります。そして彼のブツブツとした呟きを耳に捉えるなり、8割の集中力もほぼ全て、彼の行動の観察と、彼の呟きの原因となりうる自分の行動を必死に反芻するエネルギーに持って行かれてしまうのです。

例えるなら、視界にライオンの姿を捉えながら、そのすぐそばで草を喰むことを強いられているウサギといった心境でしょうか。もちろん今となっては、彼の機嫌を損ねたとて、ライオンに喰われるうさぎと同じ運命が待っているわけでは無いのだから…と思えますが、会社という新しい環境で自分の居場所を確保することは、それこそ生き抜くために必要不可欠なことの様に感じていました。彼に「私に対する苛立ちを感じさせなこと」と「私が認められる事」が同義になっていたのです。

他の部署の先輩にトレーナーの名前を伝えると、「あんなに優秀な人に付けてもらって、幸運だね。」と言ってくれる人が少なくありませんでした。曖昧な笑顔を返す私の心の中は、いつもこんな不安でいっぱいでした。「その優秀な彼を苛立たせ続けている私は、どうしようもない部下だ。きっと私がとんでもなく落ちこぼれだから、彼の機嫌を損ねてしまうんだろう…」

私の首を締めていたのは、私自身


私は、典型的な「自分・いつも・全て」思考を発動していました。

彼の機嫌が悪いのは自分のせいだし、私はそのきっかけとなるミスをいつもしてしまう。こんなに優秀な彼の元で成長できない私は、どこにいっても役ただずである…

今思えば、彼の苛立ちや憤りが、全て私一人の責任だった可能性は限りなく低いはずです。社会年次が上がるにつれ思い知りましたが、当時新人だった私が想像する以上に仕事は広域におよび、多くのステイクホルダーが絡んでいます。私の上司が、私の瑣末な言動一つ一つに常に目を光らせ過剰に反応していたなんて、冷静に考えればありえないことです。それなのに、一人勝手に震え上がってストレスの要因を自分の中に作り込み、それに常に怯えて仕事の効率を落としているなんて、ナンセンスにも程があります。そんな私の消極的な姿勢に対して、実際に私の上司が苛立ちを募らせていったことは想像するに難くない事です。

私の個人的な体験談は極端に聞こえるかもしれません。しかし、レジリエンスについて学び、この「なぜ思考」という思考のクセについて知るまで、当時の状況は全て「私の行いが悪いから」引き起こされているのだと信じ込んでいました。実際は「私の認知がそのような現実を作り上げていた」だけなのに。(無論、彼の憤りが私個人に実際に向けられた瞬間もあるはずですが。)そして私の消極的な姿勢は、いつしか実際に彼の苛立ちを刺激するようになり、”私の認識が作り上げた現実”が”本当の事”になってしまったのです。そうです、この負のループを生み出していたのは、他でもない私自身だったのです。

このように、思考のクセによって現実の出来事の解釈にバイアスがかかるために、私たちは往往にして状況を誤まって捉えていることがあります。恐ろしいのは、その思考のクセに気づくまで、自分にとってはその誤まった解釈こそ唯一無二の真実になってしまうということです。私たちは、出来事に対する「自分の考え」と、その出来事の「事実」を区別して認識する必要があるのです。

ここまで極端で無かったとしても、似たような状況が思い浮かぶ方もいるのではないでしょうか。返されなかった笑顔、冷たい挨拶、空を切る会話、背中越しに伝わる苛立ち…。状況によっては、実際にあなた自身に由来する相手の反応かもしれません。でもそこには、「そのようにあなたが解釈しているだけ」ということが真実である可能性も大いにあるのです。相手のその反応は、あなた自身の解釈によって、そのような意味付けを後から与えられているだけかもしれないのです。


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