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ばあと日東紅茶と後悔と、明日の俺

※どこにでもある、ばあちゃんとの思い出話です。
読んでほしいような、ほしくないような。
そのうち消したらごめんなさい。


「ばあ」というのは、俺のおばあちゃんのことだ。
物心つく前からそう呼んでいた。

幼少期、ばあの家によく泊まりに行った。
実家から5kmぐらいの距離にある、築50年以上のボロボロの平屋にばあは住んでいた。

いまどき珍しい土壁の、雨が降ると雨漏りするような家だった。風呂の床はシロアリに食われて今にも抜け落ちそうだった。

風呂といえば、風呂窯の給湯器がレバー式だったのをよく覚えている。レバーを傾ける角度でお風呂の湯の温度調節をしなければいけなくて、それがシビアで難しい。

シャワーがないから桶で風呂のお湯をすくってかぶる。それがたまに熱湯のように熱くて、あわてて水を出して混ぜながら使う。そんな経験をしたのは後にも先にもあの家だけだ。

不便で、狭苦しい、本当に何もない家だったけれど、そこで過ごす時間は不思議と心が安らいだ。

Google mapのストリートビューで過去の記録をさかのぼったら見つけた。
現在は取り壊されて別の家が建っている。

ばあは料理が好きで、得意だった。

焼き物から手の込んだ煮物まで見事に作りあげる。たしか小さな民泊の厨房で腕を振るっていたこともあった。

すき焼き、手巻き寿司、お好み焼き。行くたびに王様みたいな食事を出してくれる。俺が強烈な甘党なのをわかっていて、味付けは全部甘口。

そんなんだから、甘くない卵焼きがあるということをずいぶん大きくなるまで知らなかった。今考えるとずいぶんなお坊ちゃま待遇で気恥ずかしい。

ばあとはよく近所を散歩した。おんぶしてもらったり、手をつないだりしながら公園や河川敷を歩く。

春に河川敷を散歩をしながら一緒につくしを摘んで、家に帰ってから佃煮にしてくれたこともあった。その時のつくしもまた甘かった。

そうして過ごすなかで、特に楽しみにしている時間があった。夜眠る前にばあと紅茶を飲む、ただそれだけの時間だ。

ばあと俺はその時間を「お茶飲み」と呼んでいた。

「お茶飲みする?」。

寝る前にばあが尋ねてくる。うん、と返す。
すると、小さいテーブルに日東紅茶と茶色い小粒みたいな砂糖、2種類ぐらいのお茶菓子が用意される。

お茶菓子は甘党である俺のために、とにかく好きそうなものを見繕って買っておいてくれる。団子とか煎餅とか和のものが多い。

白地に青い花が描かれた洋風のティーカップに、日東紅茶のティーバッグを入れてお湯を注ぐ。青とは対照の赤い花のカップもあったのだが、なぜか青いカップは俺と決まっている。

しばらく経ってティーバッグを取り除くと、こんどは大量の砂糖を入れる。

お弁当箱のような角の取れた長方形のケースに、粗い砂粒のような茶色い砂糖がたくさん入っている。それをザクザクとスプーンですくう。ケースとカップを4~5回ほど往復させて様子を見る。

お湯が熱いうちに混ぜないと硬い砂糖が溶けないので、なるべく急いでかき混ぜる。そのうちスプーンの先に砂糖の当たる感触がなくなる。

そうやって、まるでシロップのような特製紅茶が出来あがる。

それをお茶菓子と一緒に食べる。甘いものを甘いもので流し込む。なんとも言えぬ満たされた気持ちになる。

お茶飲みの最中は特に何を話すでもなく、ブラウン管のテレビをのんきに並んで観る。

観るものは、ばあの好きな料理番組が多かった。決まってよく見たのが「チューボーですよ」。たしか土曜日の深夜にやっていたんじゃないか。堺正章がゲストと談話しながらメシを作る。その姿をただ黙って見つめる。

番組が終わりに近づくと「星、〇つです!」と聞こえる。そのうち二人共うとうとし始める。

「もう、寝ようか」。
ばあがそう言ったら、そこでお茶飲みは終わり。

歯を磨いて、布団を敷いて、ばあと横になる。

ばあに背を向けた状態でいると、ゆっくり背中をさすりながら「ねんねんころーりよ」と歌ってくれる。そうやって、いつしか眠りに落ちる。

俺はお茶飲みが大好きだった。

こんな感じ


そんなばあが末期がんであると知らされたのは、今から数年前のことだった。

「もう長くないからね」。
ばあの一人娘である母は告げた。

理解があまりにも追いつかなくて、「あれ、これ夢か」と本気で思った。
むやみやたらに心臓がバクバクして、何も考えられなくなった。

「もってあと1年ぐらいかなぁ」と母は続けた。
突然の余命宣告に、微動だにすることも出来なかった。これまで何も恩返しできていない情けなさと虚しさで胸が張り裂けそうだった。

すぐに抗がん剤治療が始まると、ばあはみるみるうちに痩せていった。
ふわふわの髪の毛がごっそり抜け落ちて、とたんに別人のようになった。

「こんなに抜けちゃったの、ほら」。

ジップロックいっぱいに詰め込んだ自分の髪の毛を俺に見せる。言葉が出ない。でもきっと本人が一番ショックだっただろう。そうでなきゃ、わざわざ保管しておくこともない。

それからもどんどん調子が悪くなり、食欲ががくっと落ち、転ぶことが増え、痛みと吐き気で全く動けないという日も出てきた。

注射を繰り返した腕は血まみれに崩れ、手術で切ったお腹から膿を出しながら、一つひとつ体に合う薬を試して、ダメならほかの薬。そうやって命を繋いでいた。

そんな折、すっかり食欲が落ちてしまっている中「ステーキが食べたい」と言い出したことがある。

これには母と二人で目を丸くしたものだが、いまは食べてくれるだけ有り難い。近所のステーキレストランに連れて行って、2000円弱の安いステーキをごちそうした。

「美味しかったぁ」とばあは嬉しそうに笑っていた。俺の覚えている限り、これが最後の恩返しだった。

それから何度か自宅で倒れ、救急車で運ばれる事態があった。その知らせを受ける度にヒヤヒヤした。
今回こそはもうだめか、そんなことを繰り返すうちにとうとう限界が来た。

病院に駆けつけたころには意識がなかった。真っ白いベッドの上で口をぱっくり開けて横たわったまま、時折アーアーうなるばあを見ているのは切なかった。

横で世話をする看護師さんが「こちらの声聞こえてますからね、呼びかけてあげてください」と微笑みかけてくる。
「嘘を吐くな」と反駁したい気持ちが炎のように湧き上がったけれど、とたんに虚しくなってやめた。

そのとき、ちょうど目の前に細い腕が置かれているのに気がついた。
それからしばらくの間、ばあの小さくて生温い手を握っていた。

母は隣で「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とまじないのように唱えていた。けれど、結局それがばあの最後の姿となった。

ばあとのお茶飲みを思い出しながら、いつも自宅で寝る前に紅茶を淹れる。

もう前みたいに砂糖は入れられなくなったし、チューボーですよも終わってしまったけど、ささやかなお茶菓子を用意して昔の作法にならう。

仕事嫌だなぁ、身体痛ぇなぁ、なんて繰り言を頭の中で並べながら、ぼーっと紅茶を飲む。

あれこれ考え事をして、結局最後はいつも同じことを思う。

明日どうなるかわかんねぇけど、とりあえずまたこうやって紅茶が飲めりゃいいや。


最後に。
ばあよ、ごめんね。何ひとつしてやれなくて。
ありがとう、じゃあね。


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