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ココロへのインプットと、ココロからのアウトプット。どうする? っていう話です。

ココロというのは不思議なもので、自分だってココロを持っていまこの瞬間を生きているわけだけど、じゃあココロって何よ、と言われても、うまく答えることができない。

ココロがどこから生まれ、どういう仕組みで動いていて、どのようにそれを叙述できるか、ということについては古今東西いろんな人が、いろんな立場から、いろんな説明を試みて来たんだけれど。。。

なかには匙を投げてしまった人たちもいる。ココロを叙述するのは不可能だからブラックボックスのまま置いといて、目に見える人間の行動とか他者との関係だけ注目すればよい、という立場もあるんだ。

いや、違うな。ココロが単体で存在しているわけではない。目に見える行動や関係が存在しているだけだ。だから、ココロについては考える必要がない、という立場か。行動主義はそれだよね。

この考え方に立てば、意識とか自己認識みたいな存在の深遠には足を踏み入れなくてよいから、便利と言えば便利だね。

それにこれだと AI(人工知能)の Siri とか Alexa とか Google Smart も 「人間」の仲間に数え入れることが可能になるのかもしれない。だって、ココロの有無を考える必要がないわけだから。。。

今日の聖書の言葉。

善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。
ルカによる福音書 6:45 新共同訳

でも、聖書はココロの存在を想定している、というか、前提しているんだよね。

クリスチャンの場合、聖書の究極的な著者は「神」だと信じているから、それはつまり創造主が書いたテキストが聖書だ、ということになる。

そのテキストが「ココロ」の存在を前提しているなら、ココロはほんとうに存在するんだろう、と考えることになる。だって、創造主が言うんだから。

それにしても、中学時代にちょっと仏教をかじった自分から見ると、今日の聖書の言葉って、大乗仏教の中観派のアーラヤ識の考え方になんとなく似てるなー、って思ってしまう。あくまで私見です。

どこが似ているかって言うと「心の倉」っていう表現がそう感じるんだ。

特に、良いものをココロの倉にインプットすると、良いものがココロの倉からアウトプットされる。悪いものをココロの倉にインプットすると、悪いものがココロの倉からアウトプットされる、っていう考え方。ここが、アーラヤ識に似ていると思うんだ。

仏教がなんでアーラヤ識を想定するようになったか、っていうと、それは、悟りの問題をつきつめた結果そうなったんだと思う。

「悟る」ってことは、すべてのものごとはつねに変転していて実体が無い、ってことを悟るわけなんだけど。。。

じゃあ「あ、おれ、いま悟ったかも?」って感じる自分のココロはどうなのよ、ってことを、だれかが疑問に思ったんだ。

だって、すべてのものごとはつねに変転していて実体が無いのであれば、自分のココロだって実体が無いことになるじゃん? 

ココロに実体が無いのであれば、ココロが感じる「悟り」だって実体が無いことになるじゃん? だったら、悟りなんて無い、ってことになるじゃん?

この疑問に答えようとして考案されたのがアーラヤ識なんだと思う(諸説あります)

どういう考え方をするかと言うと、ココロは空っぽの倉庫のようなもので、そこに、意識のパケットが入ったり出たりしている。

なので、倉庫がいっぱいになったかと思うと、すぐ空になり、空になったかと思うと、すぐいっぱいになる。これを3秒ぐらいのサイクルで延々と繰り返していると言うんだ。

だから、ココロに実体があるわけじゃあない。空っぽの倉庫だからね。そこに意識のパケットが出入りしているから、ココロはあるようで、ない。ないようで、ある、ということになる。

こうして「あ、おれ、いま悟ったかも?」って感じる自分のココロは、あるときには、ある、ないときには、ない、ってことで一応救われることになるのだ。

それにしても、ほんとにそういう仕組みで動いているかどうかは、サイコダイブでもしてココロの内側に入り込まない限り確かめようがないよねー。

最初に言った行動主義じゃあないけれど、われわれの目に見えるのは、あくまで人間の行動や他者との関係だけだもん。

善い人は良いものを入れた心の倉から
良いものを出し
悪い人は悪いものを入れた倉から
悪いものを出す
人の口は、心からあふれ出ることを語るのである

人間の行動や他者との関係で、いちばんわかりやすく目につくのは、人間が発するコトバかもしれない。

今日の聖書の言葉に照らせば、良いコトバをアウトプットする人は、良いモノをココロの倉にインプットしたから。悪いコトバをアウトプットする人は、悪いモノをココロの倉にインプットしたから、ってことになる。

つまり、その人の発するコトバでココロの倉が透けて見える、ってことだよね。。。

ひるがえって自分を反省してみる。

自分、いったいどんなコトバを他人に対して発しているだろうか。その背後にあるのは、いったいどんなモノをココロにインプットしているのか、ってことだ。。。

考えれば考えるほどコエー。。。海より深く反省した上で、インプットをちゃんとしないとなー、と思う。

じゃあ、どういうモノをインプットすればよいのか? それについても聖書は触れている。たとえば、これ。

すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。
フィリピの信徒への手紙 4:8 新共同訳

なので、そうしよう。そうするしかない。難しいことではあるけれど、やってみよう。

だって、悪いモノばっかりインプットしていたら、絶対に良いコトバは出て来ないんだから。

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