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文系人間が体育会系の聖句に向き合ってみました。。。っていう話です。

自分は根っからの文系人間で、運動はからきしダメだ。

いつからダメさ加減を自覚したかと言うと、幼稚園から。。。

つまり人生のほぼ最初から、ってことになる。

幼稚園でボールをつく時間があったんだけど。。。

青くて、まあるくて、表面がつるつるしたボール。。。

ほかのみんなはポンポンとリズミカルについているのに、なぜか自分はボールがトンデモナイ方向に逃げてしまって、ぜんぜんできなかった。。。

そこからスタートして、あらゆるスポーツがほぼほぼすべてダメということを経験させられた10代。。。

どれぐらいダメかと言うと、ラケット野球でラケットにボールがあたらないレベルだからねー。

あんな表面積があるラケットに、なんであたらないのか、自分でも理解できなかった。。。

今日の聖書の言葉。

競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
コリントの信徒への手紙一 9:25 新共同訳

おまけに小学校のときインフルエンザから肺炎になって、以来、ランニングとかすると息切れするようになってしまった。持久走はいつもビリ。。。

なので、肺を鍛えるために水泳教室に通い始めたんだけど、そのあたりからひどいアレルギー鼻炎に悩まされるようになって。。。

まあ、水泳と鼻炎の因果関係は、よくわからないんだけどねー。。。

でも、聞いたところ母方の先祖に相撲取りがいたみたいで、そのせいなのか、自分も骨だけは太い、というか、丈夫だった。

そのおかげか、大学の体育のラグビーでフォワードをやったんだけど、級友がポキポキ鎖骨を骨折するなか、自分は無傷で通すことができた。ありがとう、ご先祖さま。。。

そんなこんなでスポーツとは縁遠い人生を送って来たので、今日の聖書の言葉みたいなフレーズを目にすると、どうしたものかな、って考え込んでしまう。

だって、バリバリ体育会系じゃん!

競技をする人は皆
すべてに節制します
彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが
わたしたちは
朽ちない冠を得るために節制するのです

この聖句を文系用に翻案するとしたら、どうなるんだろうねー。。。

そのためには、まず、トップアスリートがどんな「節制」をしているか考えなきゃいけないよね。。。

こんな感じかな。。。

トップアスリートたちは、栄冠を得るために、最大のパフォーマンスを発揮できるよう、次の心がけをしている。
①トレーニングを中心に人生を設計する
②常に自分の課題を探し、最適解を考えて、実行する
③試合で負けが続いてもすぐ立ち直るレジリエンス(弾力性)を持つ
④失敗を恐れない
⑤あきらめない
⑥自分との内面的な戦いに勝つ
⑦壁にぶち当たったら、現状打破の機会として捉えて、創造的な思考で乗り越える
⑧ルールを守り、公平・公正を尊び、ライバルに敬意を払う

以上がトップアスリートの「節制」を構成しているんじゃないだろうかと思うんだけど(諸説あります)

うむう。。。体育会系のひとたち。。。スゲエ。。。

これを文系人間の自分にあてはめた場合。。。

クリスチャンである自分は、天国に行ったとき「忠実なしもべよ、よくやった!」と神から言ってもらえることが「栄冠」じゃないかな、と思う *。なので、こういう目標を立ててみる。
①神を愛し・隣人を愛することを中心に人生を設計する
②常に自分の課題を探し、最適解を考えて、実行する
③誘惑に負けて罪を犯しても、すぐ悔い改めて立ち直るレジリエンスを持つ
④失敗を恐れない
⑤あきらめない
⑥自分との内面的な戦いに勝つ
⑦壁にぶち当たったら、現状打破の機会として捉えて、創造的な思考で乗り越える
⑧ルールを守り、公平・公正を尊び、ライバルに敬意を払う

ここまで書きながら、いやー、すごい難易度高いよなー。。。正直言って、無理じゃね? って思ってしまわなくもないんだけど。。。

でも、これを全部ひとりでやれ、と言われているわけではないと思うんだ。

なぜなら、新約聖書はこう言っているからだ。

しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
ヨハネによる福音書 14:26 新共同訳

もともと、弁護者(パラクレートス)というのは、教養とスポーツを重視した古典古代のギリシャ・ローマ世界にあって、子女の養育のためにその幼児期から青年期に至るまでずっと寝食を共にしてコーチングした「家庭教師」を指す言葉だったらしいんだけど。。。

イエスは、神の霊である「聖霊」をそういうパラクレートスとして、われわれのもとに派遣するよ、って言っているんだ。

自分はひとりだ。。。右も左もわからない。。。世のなか危険がいっぱい。。。どうしたらいいの。。。途方に暮れるしかない。。。って思ってしまいがちなメンタルだけど。。。

でも、イエスは言ってくれる。大丈夫だよ、ひとりじゃないよ、ちゃんとパレクレートスを送るから。一日24時間、一年365日、いつも・つねに・たえず・ずーっと「聖霊」のコーチングを受けて生きればいいんだよ! って。

じゃあ、そのパラクレートス=聖霊は、どこにいるのよ? ってことになるんだけど。。。

新約聖書は、こうも言ってる。

知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
コリントの信徒への手紙一 6:19 新共同訳

なんと「聖霊」は、われわれの体のなかに、宿ってくれているんだ。

なので、最後に残った問題は、このオファーをありがたく受け取って、自分のココロを聖霊に対して開くかどうか、ってことになって来るんだよね。。。

註)
*  Cf. マタイ 25:21

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