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この世界が、その世界であり続けることができるように、祈ろう、という話です。

喜び歌い、喜び叫ぶことができるためには、自由に声を出せなければならないし、喜びに手を打ち鳴らすには、自由な手がなければならない。

そういう自由に対して、手を縛り、声を封じ、身体を拘束することが出来るのが権力だ。

権力は、人間の歴史の中で長らく絶対的なものとみなされて来たけれど、クリスチャンたちのあいだでは、その権力を相対化させようとする試みがなされて来た。

今日の聖書の言葉。

すべての民よ、手を打ち鳴らせ。
神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。
詩編 47:2 新共同訳

中世のイギリスでは、貴族たちが団結して国王にマグナカルタ (1215) をのませた。これによって、国王はイングランドの民を恣意的に拘束することができなくなった。

自由なイングランドの民は、国法か裁判によらなければ自由や生命、財産を侵されない。
マグナカルタ 第38条

この条文の背後には、国王の権力を超越した「神」が存在していて、その神がイングランドの民に与えた自由を、国王と言えども侵害することはできない、という考え方があると思う。

今日の聖書の言葉の続きでは、こう言われている。

神は諸国の上に王として君臨される。
神は聖なる王座に着いておられる。
諸国の民から自由な人々が集められ
アブラハムの神の民となる。
地の盾となる人々は神のもの。
神は大いにあがめられる。
詩編 47:9-10 新共同訳

「神」というのは精神的価値観だけれども、イングランドの民の身体・生命・財産の自由の前提として、そういう精神的価値観が実在するということであれば、当然、精神の自由も保障されなければならないことになる。

先ほどのマグナカルタはこう宣言している。

教会は国王から自由である。
マグナカルタ 第1条

それでは、このマグナカルタによって、イングランドの民の自由が完全に実現できたかと言うと、それは、そんな簡単なことではなかった。

国王の権力が制約された結果、その反動として、地方と教会の権力が増大し、今度は地方役人や教会裁判によってイングランドの民が不当に拘束される事案が起きるようになったのだ。

個人が聖書を所有し、個人が聖書を読み、個人がそれを解釈し、個人が自由に信じる、というピューリタンたちは、まさにそうした拘束の対象になった。

しかし、かの偉大なヘビアスコーパス、すなわち「人身保護条例」(1679) が制定され、地方と教会によって不当に拘束されたイングランドの民を、国王の令状で解放できるようになった。さらに「寛容令」(1689) が制定されて、ピューリタンの信仰の自由が保障された。

こうして、国王・地方・教会が相互に牽制し合うことにより、イングランドの民の自由はより確実に保障されるようになったのだけれど、それはどういう状態かというと、国王が民を不当に抑圧するときには、地方と教会が「盾」となって民を守り、逆に、地方と教会が民を不当に抑圧するときには、国王が「盾」となって民を守るという世界なのだ。

今日の聖書の言葉の最後のラインは、まさにそれを暗示しているのではないかと思う。

地の盾となる人々は神のもの
神は大いにあがめられる

その世界では、国王も地方も教会も「地の盾」となって、民の自由を守っている。次の問題は、この世界は、その世界であり続けることができるかどうか、ということだ。

それについては、いま、結構な瀬戸際に来ているのではないかと感じる。だから、祈ろう。

この世界が、その世界であり続けることができるように。

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