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スズメバチに悪意が無いように、もちろん、注射針にも悪意は無いのだ。

自分は中学生のとき祖父と愛犬を亡くし、それがトリガーになって、死について、死後の世界について、生きることの意味について、ガーッと集中的に探究した時期があった。そのとき、仏教のある流派が行う「死の瞑想」っていうのも、やった。夜、眠りにつくとき、自分が棺桶に入っているのを想像する。そして、鼻のさきからはじめて、つまさきにいたるまで、からだが朽ちて消滅して行くのをイメージするんだ。それをやると、すぐ眠りにつくことができた。

だから、いまでも、眠ること=死の予行演習、という感覚を持っている。なんでこんなことを書いているか、というと、来週の月曜、いよいよ自分もワクチン接種を受ける予定だからだ。おおげさかもしれないけれど、もしかして、もしかしたら、自分、死ぬ可能性あるよな、って思っている。

自分が所属する教会では、高齢のひとたちはほとんどワクチン接種が終わって、いまは中高年以下のターンに入っている。副反応については、まったくなかった、というひと。微熱が出た、というひと。腕が上がらなくなった、というひと。結果はいろいろだ。

さいわい、ワクチン接種で急死した、みたいな話は、自分の周囲では見聞きしない。だけど、ネットで流れて来る情報とかみると、因果関係は不明だけど、接種後に急死、というケースもあるみたい。というわけで、いちおう、こころの備えとして、死ぬかもしれない、ということは考えておかないといけないよなー、と思って、これを書いている。

今日の聖書の言葉。

わたしは主、あなたの神。 あなたの右の手を固く取って言う
恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。
イザヤ書 41:13 新共同訳

自分はクリスチャンなので、人生についての基本的なイメージは、小さな子どもがお父さんに手を引かれて田舎の道をあるいている、という感じだ。お父さんの大きな手のなかにすっぽりつつまれている自分の小さな手。このイメージのなかでは、自分はいつだって子どもだ。

父なる神の「手」について、ときどき考える。神というのは絶対他者であって、人間のイメージや言語化を超えた存在だ。だから、神について記述することは不可能だとする否定神学があるぐらい。なので、父なる神の「手」がどういうものかを考えることに、意味があるのかどうかは、わからない。でも、それでも、聖書が言ってるんだから、考える。父なる神の「手」が、いま自分の小さな手を握ってくれている、っていうことを。

神の「手」というと、きまって思い出す過去のシーンがある。高円寺の実家の庭は、小さい頃の自分にはジャングルみたいに鬱蒼としていて(大人になって見返すと、小さな庭に過ぎなかったんだけど)ある日、そこで遊んでいたら、でっかいスズメバチがブーンと飛んできて、自分の胸にとまった。

恐怖に凍り付いた自分は「おとーさーん」と叫ぶことしかできなかった。すると、庭仕事をしていた父が、だまって近づいて、大きな手でスズメバチをぎゅっとつかまえると、空に向かって放り投げた。スズメバチはどこかに去って行った。

神の「手」を考えると、このときのイメージが強く重ね合わされる。まあ、スズメバチだって、別に悪意があったわけじゃないと思う。たまたま飛んでたら、黄色いお花畑があって、着陸してみたら、それは、小さな男の子が着てた黄色いシャツだった、というだけであって。。。

ただ、悪意が不在であっても、なにかのボタンの掛け違いがあれば、スズメバチが男の子を刺して、アナフィラキシーショックで命をうばう、という事態もあり得た。別の世界線では、もしかしたらそうなっているのかもしれない。

コロナウイルスに悪意があるのか、どうか。ワクチンに入っている成分に悪意があるのか、どうか。たぶん、スズメバチがそうであるように、そこに悪意はないんだろうと思う。でも、われわれが生きている世界では、未分化の世界が秘めるいろいろな可能性が現実態を取ることによって、いろんな出来事が生起して来る。

だから、いまのこの未分化の世界線が、三日後に現実態を取るときには、ワクチン接種をする自分は、ケロッとしているかもしれないし、あるいは、重い副反応で苦しんだり、死んだりしているかもしれない。

それは、いまは、わからない。だって、未分化の状態だからね。だけれども、自分が確実に信頼しているのは、「おとーさーん」って呼べば、父なる神の「手」が、スズメバチをぎゅっとつかまえて、空に放り投げてくれるだろう、ということ。そして、スズメバチが去って行ったあと、父なる神の「手」は、自分の小さな手を変わることなく握り続けてくれて、そして、人生の旅路は、さらに先へ続いて行くだろう、ということ。

もちろん、人生の旅路は、形式的には、墓の手前のパートと、墓の向こうのパートに分かれてはいる。けれど、イエス・キリストが復活した後のこの世界線においては、墓はもう、実質的な意味を持ちえないと思う。というか、すくなくとも自分にとっては、墓は人生を区分するポイントではない。イエスがよみがえったイースターの朝以来、墓のこちらと、墓の向こうは、シームレスに接続されているのだ *。

いま気がついたけど、自分が注射が嫌いなわけは、あのスズメバチのせいかもしれないな、って。しかし、大人になって考えると、いまは思う。スズメバチに悪意が無いように、もちろん、注射針にも悪意は無いんだ。

註)
*  クリスチャンとして自分は死後の世界を ↓ ↓ ↓ の記事のようにイメージしている。


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