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時間の経過に伴う劣化に抗して、言葉を 1,000年後、6,000年後、12,000年後に伝えるには、どの方法が最適なのか。。。っていう話です。

言葉をめぐる人間の未来って、これから、どう変わって行くんだろう?

そのことを考えてみようとする時、目はやっぱり、過去に向く。。。

最初の人間が、最初の言葉を発して、最初に受け取った相手に、最初の想いが通じた瞬間。。。

その、うれしい! という感動のシーンを、タイムマシンがあったら、見てみたいものだけど。。。

人間って、たぶん、言葉による意思疎通で共同行動が取れるようになったことから、狩猟も農業も飛躍的に発展したんじゃないのかなー、と思う、

言葉は音声だけど、それを文字で記録できるようになると、人間の活動範囲は爆発的に増大した。

音声なら、相手に届く距離は、せいぜい 180メートルが限界だけど、木や骨や粘土板といった媒体に文字を記せば、1,000キロ先の相手にだって届けられる。

1,000キロどころじゃない。50年後、100年後の誰かにだって届いてしまう。文字によって、人間の活動範囲は、空間も時間も広がったんだ。

そうやって文字で書いた、ひとまとまりのボリューム。。。つまり「書物」を発行できるようになったとき、人間は、その想いを、万人に共有できるようになった。

今日の聖書の言葉。

草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
イザヤ書 40:8 新共同訳

問題は、文字を記した媒体(メディア)の経年劣化だよね。

100年ならまだしも、1,000年後、6,000年後、12,000年後の誰かに伝えたいと思ったとき、そのスケールに耐えられる媒体は、限られてくる。。。

たぶん、そこから、じゃあ、文字を巨大な石に刻み付けて残そう、みたいな発想が生まれたんだろうなー、と思うけど。。。

でも、巨石は持ち運べないから、洪水・泥流・火砕流といった自然要因で、容易に土に埋もれて、忘却されちゃうんだよね。。。

何かあったら持って逃げれる媒体って、やっぱり「書物」だろう。だけど、耐用年数は羊皮紙や和紙が 1,000年。洋紙だと、わずか 100年だ。

それに、紙の難点は、燃えやすいこと。そして、人間の難点は、戦争を繰り返すこと。。。

もし、戦火が燃え移ったら、大事に守って来た本も、灰燼となってしまう。「もし」なんて付けなくても、当然、戦火は繰り返されるし。。。

これじゃあ、2,000年後の相手に想いを届けるのは、絶望的に難しいよね。

この絶望的に難しいことを、人間はどうやって乗り越えて来たんだろうか?

ユダヤ・キリスト教の場合を考えてみると。。。

「神の言葉」は、やっぱり基本情報としては、言葉であり、文字であるわけなんだけど。。。

その言葉と文字は、シナゴーグとか教会という「共同体」によって持ち運ばれて来たんじゃないのかなー、と思う。

どうやって、それが可能になったか、というと。。。

シナゴーグとか教会という「共同体」では、礼拝のたびに、聖なる文書の指定された部分が朗読されて来た。

それは、決まったサイクルで、繰り返し、繰り返し、朗読された。何年も、何十年も、何百年も、何千年も。。。

そうすることで、聖なる文書は、朗読され、聞き取られ、記憶に深く刻み込まれた言葉となって、生きた「人間」によって持ち運ばれて行ったんだ。

それを、個々の共同体がやり続けた。共同体が地中海世界を超えて、世界に広がって行くにつれ、それは、世界規模の広がりを持つ共同体群になって行ったわけだけど。。。

なので、A という共同体と、Bという共同体と、Cという共同体が会合したとき、それぞれが伝えて来た朗読に、もし差異が生じていれば、すぐそれを確認することができたし、協議の上で補正することもできたんだ。

ここで、メインとなるのは、あくまで「朗読」という行為であって、媒体そのものでは、ない。

極論すれば、正しい朗読が保障されるのであれば、媒体は、どんな媒体でもよかったのだ。

正しい朗読を保障するために、媒体に記された文字情報は、用意された新しい媒体に、正確に書き写された。

その作業を担当した写字生は、指で一文字一文字、押さえながら、精神を集中して書き写した。

その書写作業が終わってしまえば、古い媒体は、もう用が無い。だって、いまや、正しい朗読は、新しい媒体によって保障されているんだから。

シナイ山のふもとのカテリナ修道院の修道士たちは、そういう古い媒体、つまり、書写が終わった古い聖書をバラして、暖炉の薪木に火をつける「燃えさし」にするために、まるめてクズカゴに放っていた。

ヨーロッパから来た聖書学者が、その修道院に宿を取り、クズカゴに捨ててある羊皮紙が非常に古い年代の書体であることに気が付いて、調べてみたら、なんと、4世紀頃の聖書の写本であることが判明し。。。

聖書学者は修道士たちに尋ねた。こういうやつは、まだ他にもあるのか?

修道士たちは答えた。はい。もっと古いのもたくさんありましたが、暖炉の燃えさしに使いました。それが、何か? って。。。

「神の言葉」は、このようにして、何千年もの時の流れの劣化に抗し、生き残り続けて来た。

「神の言葉」は、文字が書かれた媒体そのものではなく、どこでも、どんな時代でも、いのちが通った人間によって朗読され、人間によって聞かれ、人間によって記憶され、人間のココロに深く刻み込まれた、生きた言葉として伝え続けられて来たんだ。

この方法なら、媒体の劣化は、ゼンゼン問題にならないよね。

シナゴーグでも教会でも「神の言葉」は、先週も、今週も、今日も、そして、来週も、繰り返し、繰り返し、読まれ、聞かれ、記憶され、ココロに刻まれ、信じられ続けて行くだろう。

その繰り返し、繰り返しは、きっと、次の 1,000年、次の 6,000年、次の 12,000年も、軽やかに飛び越えて行くに違いない。

この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。
ヨハネの黙示録 1:3 新共同訳

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