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こころのフォーカスを自分だけにあてていると、「待つ」ことは、ただイライラさせられる経験になってしまう。だから。。。

自分が所属している教会は、意志決定に「監督制」と言われるシステムを採用している。

監督。教派によっては、司教・主教・ビショップとも呼ばれているけど。

監督制とは、監督のポジションにある者が、教会に関する事柄の決定権を持つ、というシステムだ。

このシステムを採っているのは、カトリック、正教会、ルーテル、聖公会、メソジストなど。

昔は、監督がほんとに単独で決めてしまう場面も、あったみたい。

でも、そこは、それ。時代の変化と共に、いまは、監督が会議体に諮問した上で決定する、というフローに変化してきている。

自分は、個別の案件について、監督に提案する立場だ。

毎週のように起案書を作成するわけだけど。。。

案件がすんなり承認されるときも、ある。

差し戻されるときも、ある。

否決される時も、ある。

提案したけれど、なかなか返事がもらえない時も、ある。

そういうわけで、「待つ」という時間が、けっこうある。

感覚としては「待たされる」と言ったらよいだろうか。。。

自分がどんなに惚れ込んだ案件でも、それが、他者に同じように受け取られるとは、限らない。

っていうか、これまでの経験上、惚れ込んだ案件は、自分のクセが反映されているゆえに、他者から疑問視される場合があるなあ、と感じる。

否決されたときは、あきらめるしかない。

それは、自分と世界が無根拠に「一体」だと思い込んでいた感覚が、他者というナイフで切り分けられて、あなたの好みが、世界の好みであるわけではない、という事実をあらためて思い知らされる瞬間だ。

そんなとき、じゃあ、監督制でない教会だったら、思い通りに進められるのか、と考えたりもする。

意志決定のシステムとしては、ほかに、長老と呼ばれる役員たちが合議で決める「長老制」や、教会員全員が出席する総会の多数決で決める「会衆制」がある。

長老制を採っているのは、長老教会とか改革派教会。

会衆制を採っているのは、バプテストとか組合教会だ。

でも、自分とは異なる他者が物事の価値を評価する、という意味では、会衆制も長老制も監督制も、本質はなーんにも変わらないよね。

だから、やっぱり、自分と世界は「一体」だという甘い幻想を他者というナイフで切り分けられる経験をすることは、どんな教会のシステムにも関係なく、避けられないことになる。

今日の聖書の言葉。

主を待ち望め 雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。
詩編 27:14 新共同訳

神は、他者のなかの他者。絶対他者と言われる存在だ。

それは、人間の理解できる許容量を無限に超越する他者、という意味だ。

自分は、人生の背後にお隠れになっているその神と向き合って、生きている、と感じている。

で、自分は、自分のやりたいこと・なりたいこと・欲することを、人生のなかで神に提案しながら、生きているように思っている。

まあ、別に、紙で起案書を書くわけじゃないんだけど。。。祈りや思いをとおして、神に提案を知らせている。

すると。。。

その提案が、すんなり承認され、実現することがある! 

逆に、一瞬で否決されることもある。

待てども、待てども、答えが与えられないこともある。

そんなわけで、待つ。。。待つ。。。待つ。。。待つことが、多い。

だから、「待つ」ことを、いかに正当化するか、という精神的なティップス(秘訣)が必要だ。

やっぱり、こころのフォーカスを自分だけにあてていると、「待つ」ことは、ただイライラさせられる経験になってしまう。

どうしても、フォーカスを自分から外して、神に向けることが必要だ。

しかし、そもそも神は絶対他者なので、とりつくしまがないよね。。。

なので、イエスをとおして示された「神」に、フォーカスを向けようとしてみる。

すると、イエスは、どうやって「待つ」かを、自分に教えてくれるんだ。

「待つ」ことにおける、イエスのやり方。

それは、自分を他者にゆだねる。その結果、十字架につけられ、死ぬ。けれども、復活する。。。

それが、イエスのやり方だ。

自分を他者にゆだねる、なんて、盲目的に蛮勇をふるうか、あるいは、絶対他者である神への信頼がなければ、できないこと、だよね。

イエスの場合、父なる神への深い信頼があったんだと思う。

父なる神。。。自分にとっては絶対他者。。。

その絶対他者である神への深い信頼を、イエスのように自分も持つことができたら。。。

そうしたら、「待つ」ことは、どんなにか楽になることだろう。

なので、今日も、祈る。

待ちつつ、望みつつ、祈り続ける。

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