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考え方を切り替えて、今日から新しい自分・新しい世界がスタートした、って考えよう、という話です。

いろいろ煮詰まって来ると、リフレッシュしたいなあと思うけれど、2020年からずっと疫病のために外出もままならず、リフレッシュしようにもリフレッシュしようがない状況が続いており。。。

なので、もうね、リフレッシュしなくていいんじゃないかと。

このまま疲労蓄積ズタボロのまま弱くなって行って、最後はガラドリエルの奥方のキメぜりふのように「小さくなって西の海のかなたに去りましょう」と言えばいいんじゃないかと。。。

そんなふうに思っていたところ、今日の聖書の言葉はほんとリフレッシュ系の王者が来た。

今日の聖書の言葉。

魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
詩編 23:3 新共同訳

そうなんだよね。究極のリフレッシュは「神」のなかにあるんだよね。

神は、医薬部外品「薬湯めぐり」入浴剤も、大江戸温泉も、箱根強羅温泉も軽々と超えて行く。。。そう信じよう。。。

聖書の人間観はよく三分説と呼ばれるんだけれど、それは人間を「霊」「魂」「体」の三つの機能で構成されていると捉えるんだ。

で、聖書の文脈で「魂」が出て来る場合、霊と体を統合する機能としての魂を指すことが多いのではないかと思う。

その場合、魂=霊+体 ってことになるんだよね。

なので、魂がリフレッシュされると言ったら、霊と体を含めての魂、つまり、人間存在の全部がぜんぶリフレッシュされるっていう含意になる。スバラシイ。

魂を生き返らせてくださる

じゃあ、人間存在の全次元におけるリフレッシュはどんな機序で起こるのかと言うと、それはイエスの十字架と復活による。

全人類の罪責を身代わりに背負ってイエスは十字架で死んでくれたわけだけれど、そのイエスに結ばれるとき、われわれは罪から解放される。それはまるで体内の老廃物がぜーんぶ除去されるみたいなものだろうか。

さらに、イエスは全人類の代表として復活してくれた。そのイエスに結ばれるとき、われわれは復活のいのち=永遠のいのちに参与する。それはまるで、体内の細胞がぜーんぶ新品に取り換えられるみたいな感じだ。

そのようにリフレッシュされたら、新しい人間になって新しい人生を生き始める。

その新しさ加減と言ったら。。。

それは、G.K.チェスタートン流の言い方によれば、告解所で罪の告白をして赦しの秘跡を受けて外に出た人間は「生まれたばかりの赤ん坊として、生まれたばかりの新しい世界に立っているの同じだ」ということになる。

自分はプロテスタントなので、教会の告解所ではなく自分のパーソナルスペースでひとり「神」に向き合い、悔い改めの祈りをするわけなんだけど。。。

最近は、もっぱら、この祈りのコトバでもって祈っている。

主イエス・キリスト、神の子、救い主
罪人つみびとであるわたしを
あわれんでください!

この祈りのコトバを唱えた瞬間、信仰によるイマジネーション(想像力)を働かせて、こういうふうに考えてみる。。。

生まれたばかりの赤ん坊として、生まれたばかりの新しい世界に、いま自分は立った。だから、右も左もわからないけれど、信じて生きよう。なぜなら、こう言われているから。

主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる

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