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人生の悩みにピッタリあてはまる言葉をもらえる瞬間があって、その感覚っていうのは。。。

生きていていると、心配の種は尽きない。

そのうえ、このパンデミックだもん。さらに心配がふえる。

自分は、どういうとき、心配になるんだろう。。。

心のフォーカスが漠然と不安な方向に行ってしまうとき、心配になるのかもしれないねー。

今日の聖書の言葉。

心配は人をうなだれさせる。 親切な言葉は人を喜ばせる。
箴言 12:25 新共同訳

もしかしたら、人間って、漠然とか茫漠とか、そういうものに耐えられないのかもしれない。

よくわからない。とらえどころがない。なんであるのか、どうなっているのか、わからない。

そういうものって、いっぱい、あるじゃん。

ヤモリとか金魚とか猫とかは、どう感じているか知らないけれど、すくなくとも人間である自分は、「わからないもの」が目の前にあると、不安な気持ちになる。

で、心がムズムズして、いつのまにか、心のフォーカスが「わからないもの」に入り込んでしまう。

わからないものを、わからないもの、として、あるがままで放置しておけばいいだろうに、と思うんだけど。

なぜか、それができない。そもそも、そこが、わからない(笑)

たぶん、人間って「わからないもの」を目にすると、それを言語化しようとする衝動にかられてしまうんだと思う。

言語化。名辞化とも言うけど、それは、どういことかというと。。。

曖昧模糊とした未分化の「ある」に、ぴったりした名前をみつけることができれば、「ある」は認識し把握することが可能な「これ」とか「それ」に変化する。

それが、言語化・名辞化だ。

首尾よく「ある」が「これ」か「それ」になっちゃえば、しめたもんで、もう自分のポケットに収まってしまう。

逆に、考えても、考えても、ぴったりした名前が見つからないと、脳が汗をかくばかりで、不安はおさまらない。

悟りを開いて、「ある」を「ある」のまま受け入れることができれば、いいんだろうけどねー。

でも、まあ、生きているとそういうわけにもいかないので、やはり脳汁を出して「ある」を言語化して行くしかない。

救いだなー、と思うのは、自分の脳だけでは言語化できないことであっても、他人が上手に言語化してくれる場合がある、ってことだよね。

その言葉というのは、別にカウンセラーだけじゃなく、友だちでも、家族でも、ネットでひろった言葉でも、街ですれ違うひとからたまたま聞こえた言葉でも、いいんだけれど。。。

とにかく、ぴたーっ、ていうか、ぴしーっ、ていうか、自分の状況にピッタリあてはまる言葉を、もらえる瞬間がある。

その瞬間、魔法みたいに、わからなかった「ある」が、認識し把握することが可能な「これ」や「それ」になって、自分のポケットに収まる。すると、もう、不安は感じないんだ。

そういう言葉って、ほんとうに「親切な言葉」だなあ、と思う。

心配は人をうなだれさせる
親切な言葉は人を喜ばせる

人生は、漠然とし茫漠としているので、自分という単独の「脳」だけでは、汗をかいても、かいても、足りない。

だから、スーパーコンピューターみたいに、脳を並列して接続させる必要があるんじゃないか、と思う。

本を読んだり、小説を楽しんだり、ドラマや映画やお芝居を観たりって、きっと、他人の脳というリソースにアクセスする行為なんじゃないのかなー。

さらに言えば、スーパーリソースが人間にはあたえられているわけで。。。それが、聖書なんじゃないかと思う。

漠然とし茫漠とした世界(トーフー・ワ・ボーフー)を、言語による名辞化の機能(ロゴス)を使って切り分けることで、神は世界を創造し、そして、いまも創造し続けている *。

聖書を読むことによって、自分は、神の脳にアクセスすることができるんだ。そして、そこから、自分の置かれた状況に、ぴったりあてはまる言葉を、受け取ることができる。

そういう言葉を受け取った時の感覚って、まさに、これだよ。。。

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!


註)
*  Cf. 創世記 1:1ff, ヨハネ 1:1ff

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