見出し画像

首都機能の移転という小松左京のビジョンは、スピリチュアルな世界では、新約聖書で既に実現済みかもしれない、という話です。

昨晩、リメイクの『日本沈没』(2021) の第一回放送を視聴した。深海潜水艇「わだつみ」の登場シーンで思わず「おーっ」と声が出てしまった。というのは「小学生時代に作ったよなあ、わだつみのプラモデル」と思い出したからだ。最初の映画『日本沈没』の1973年公開当時に自分は8歳だった。幼稚園でイエスに出会い、小学校1年で信仰を捨て、すでにオカルト少年になっていた小学校3年の自分は、街中に貼られた映画のポスターを見ながら、予知能力者エドガー・ケイシーの「1982年に日本は沈没する」という予言に心を震わせていた。自分が高校2年になったら、この映画みたいになるのか、と、いつも覚悟していた。実際はどうだったかと言うと、いまの自分の世界線では沈没など起きるハズもなく、それどころか、1982年が過ぎると何事もなかったかのようにノストラダムスの1999年地球滅亡説に、みんな夢中になって行った。ノド元過ぎれば熱さ忘れるとは、このことか、と思ったよ。。。

日本沈没の原作を書いたSF作家の小松左京(1931-2011)は、別に日本を沈没させたかったわけじゃなく、現代社会という超複雑なシステムが、ある日、突然ストップすることになったら、どうやって代替案に移行しますか? ちゃんと別案を用意しないと大惨事になるから、日頃からシミュレーションして準備しましょうよ、という呼びかけとして、日本列島を沈没させたのだと思う。だから、それは、代替案を考えるヒントとしての壮大なシミュレーション小説だったのだ。ただ、パロディとして『日本以外全部沈没』(1973)を書いた筒井康隆の場合は、本気半分でそうしたかったのかもしれない。

日本沈没と同じ線上で小松左京が書いたのが、謎の濃霧によって首都圏の機能が全停止する『首都消失』(1984)だ。現行憲法は、司法・立法・行政の中枢が機能を喪失した場合にどうするか、ということを想定していない。小説では、全国知事会が国権を代替的に担うために動いて事態を乗り切るんだけど、それが整うまでの空白期間に、近隣諸国の軍用機や上陸用舟艇が日本に迫って来る。なぜなら国際法では、ある国の統治が崩壊した場合、近隣国は速やかにそこに入って統治を回復させる義務を負っているから。ほんと、ガクガクブルブルだよね。。。

大阪生まれの小松左京は、大阪をこよなく愛し、だから、代替案のひとつに首都機能を大阪に移転する、というシナリオを構想していたんじゃないかと思う。大阪都構想というアイデアの淵源は小松左京なんじゃないだろうか。昨晩のリメイク版日本沈没では、北米プレート・太平洋プレート・フィリピン海プレートが地下に潜り込む三つどもえの衝突地点の上に首都圏が乗っている説明図を指しながら、田所博士が「ほんの少しバランスが崩れたら沈む」とマッドサイエンティスト風に熱弁した。その説明図は1973年の最初の映画以来何度も目にしているお馴染みのものではあるけれど、確かに、大阪都でも京都でも岡京(岡山の吉備高原への新首都移転計画)でもいいから、別案を用意しておいたほうがいいんじゃないのかなあ、と思った。

しかし、小松左京は首都機能を物理的に移転させる案だけにこだわっていたわけではない。なんと、首都機能をアタッシュケースに入れて世界のどこにでも持ち歩く、という案にも言及しているんだ。やっぱりSF作家ってスゴイよね。いま、政府は電子化政府を推進する、と言っているけれど、これを究極まで推し進めた場合には、政府と民間のあらゆる業務がサイバー空間上で完結できるようになる。それが整った日には、首都機能を特定の地理的地点に固定する必然性がなくなるかもしれない。だって、首都機能はクラウド上にあって、担当者はVRゴーグルで入って作業すればいいわけだから。興味深いことに、現行憲法にも、それを補完する法令にも、首都や首都機能を定めた条文は無いんだ。なので、首都機能のクラウド移転は立法ではなく運用次第ってことになるのかもしれないね。

今日の聖書の言葉。

わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。
詩編 121:2 新共同訳

今日の聖書の言葉は、旧約聖書の詩編のなかで「都のぼりの歌」と言われるものだ。ユダヤの山地に位置するエルサレムに神殿があり、そこに詣でる巡礼者たちは山に登って行くかたちになる。その山道を歩きながら、みんなで歌ったのが「都のぼりの歌」だ。巡礼者の目線は山頂に向けられていて、そこに鎮座する神殿から、神の助けが来るのを期待する、という祈りの構造になっている。

わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから

そして、この祈りの構造そのものが、イスラエル・ユダヤ人の歴史で二度も破壊された。一度目は紀元前586年にバビロンによって、二度目は西暦70年にローマによって、神殿は跡形もなく破壊された。二度目の破壊から2000年近く経過しているが、神殿は再建されることなく、いまに至っている。

人類は歴史のなかで数々の大災厄を経験して来たけれど、聖書の主人公であるイスラエル・ユダヤ人は特に辛酸を舐めて来たと思う。「神殿の破壊」は、カタストロフの精神的・感情的なスケールとしては、日本人にとっての日本沈没や首都消失に匹敵するんじゃないだろうか。なぜなら、全能の神が住む神殿が完全に破壊されて、それをいまに至るまで修復できない、と言うのだから。小松左京ではないけれど、聖書は代替案なり別案なりを用意しているのだろうか? 自分は、神殿の破壊という悲劇的な出来事の延長線上に書かれた代替案が新約聖書なのかもしれない、と思っている。そのことを感じさせる新約聖書のフレーズが、これだ。

イエスの言われる神殿とは
  御自分の体のことだったのである
 *

十字架につけられ、三日目に復活したイエスの身体は、とこしえに朽ちることのない「永遠の神殿」だ、と新約聖書は位置づけている。それだけにとどまらず、イエスの霊である聖霊を受けたクリスチャンひとりひとりの身体が神殿である、とも新約聖書は言っている。その証拠聖句が、これだ。

あなたがたの体は
神からいただいた聖霊が宿ってくださる
神殿であり
あなたがたはもはや自分自身のものでは
    ないのです
 **

そうすると、どういうことになるのだろうか? 小松左京は首都機能をアタッシュケースに入れて持ち歩くポータブル化のビジョンを見たけれど、新約聖書においては、神殿の機能がイエスに集約された上で、聖霊を通じてひとりひとりの人間の身体に分与済みだと観ることになる。朽ちることのないイエスの身体という永遠の神殿は、イエスの昇天によって、いまクラウド上に置かれている。それはサイバー空間のクラウドではなく、文字通りのクラウドだ。その永遠の神殿に対して、ひとりひとりの人間が聖霊を通じてアクセスする。アクセスした人間は、その存在自体が神殿の機能を持つ。こうして、もはや神殿は地球上の特定の地理的地点に固定される必要性がなくなっているのだ。そういう意味では、小松左京のビジョンは、スピリチュアルな世界において、いま・もう・すでに実現済みである、と言うことができるのかもしれない。

詩編121編「都もうでの歌」

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。

どうか、主があなたを助けて
足がよろめかないようにし
まどろむことなく見守ってくださるように。
見よ、イスラエルを見守る方は
まどろむことなく、眠ることもない。
主はあなたを見守る方
あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。
昼、太陽はあなたを撃つことがなく
夜、月もあなたを撃つことがない。
主がすべての災いを遠ざけて
あなたを見守り
あなたの魂を見守ってくださるように。
あなたの出で立つのも帰るのも
主が見守ってくださるように。
今も、そしてとこしえに。

註)
*  Cf. ヨハネ 2:21
** Cf. コリント一 6:19

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?